第2話 帰り道の金色
帰り道は、いつも一人だ。
塾は渋谷にあるが、蒼太の自宅は世田谷の住宅街にある。電車を乗り継いで30分ほど。2030年の東京の夜は、10年前とそう変わらない。変わったのは、駅のホームに立つ人々の多くがARグラスをかけていることと、改札がすべて顔認証になったことくらいだ。
蒼太はイヤホンもつけず、ただぼんやりと電車に揺られていた。窓の外を、ビルの明かりが流れていく。
スマートフォンの通知が鳴った。母からだ。
『模試の準備はできた? 英語の長文、朝にもう一回見直してね』
蒼太は既読だけつけて、画面を閉じた。
——疲れた。
その言葉が、心の底から湧き上がってくる。身体の疲れじゃない。もっと奥の、魂のようなものが擦り減っている感覚。毎日同じことの繰り返し。勉強して、テストを受けて、判定を見て、また勉強して。その先に何があるのか、蒼太にはもう見えなくなっていた。
——エルドだったら、こんなとき何て言うだろう。
ふと、そんなことを考えた自分に苦笑する。高校2年にもなって、おとぎ話の勇者に思いを馳せるなんて。
最寄り駅で降りて、暗い住宅街を歩く。2月の夜風が冷たい。
「あ、蒼太にぃ! おかえりー!」
マンションのエントランスで、明るい声が弾けた。
桐谷結菜。蒼太の従妹で、隣の棟に住んでいる高校1年生。ショートカットにオーバーサイズのパーカー、手には何やら分解途中の小型ドローンを抱えている。
「結菜、こんな時間に何やってんだ」
「えへへ、ドローンのジャイロセンサー換装してたら時間忘れちゃって。見て見て、これ2030年型のAIナビゲーション搭載なんだよ! 自分で改造したの!」
結菜は蒼太の5歳年下——ではなく1歳下の高1だが、精神年齢は小学生のそれに近い。しかし機械いじりの腕前は大人顔負けで、ガジェット改造やプログラミングにかけては天才的だ。
——もっとも、「天才」という言葉は、結菜にとって必ずしも祝福ではない。
小学校の頃から「変わった子」と言われ続けた。クラスメイトがアイドルの話をしている横で、結菜は電子回路の配線図を描いていた。「何それ、意味わかんない」。その言葉を何度聞いたかわからない。
だから結菜は笑う。いつも。誰よりも明るく。——わかってもらえなくても、笑っていれば場の空気は壊れない。笑っていれば、「変わった子」は「面白い子」になれる。
蒼太は、結菜の発明を「すごい」と言ってくれる数少ない人間の一人だ。社交辞令ではなく、本当に目を見て驚いてくれる。それが結菜にとって、どれほど大きな意味を持つか——蒼太自身はまだ気づいていない。
「すごいな。でも、遅いから早く帰れよ」
「はーい。……ねえ、蒼太にぃ、また顔色悪いよ。ちゃんと寝てる?」
結菜がドローンを抱えたまま、心配そうにこちらを覗き込む。
「大丈夫。ちょっと塾で疲れただけ」
「むー。最近いっつもそう言うよね。——はい、これあげる」
結菜はパーカーのポケットから小さな飴を取り出して、蒼太の手に押し付けた。
「糖分補給! 脳は糖で動くんだから!」
「……ありがと」
蒼太は苦笑しながら飴を受け取った。結菜はにっと笑って、隣の棟に駆けていった。
——あいつは、いつも元気だな。
少しだけ、胸の重さが軽くなった気がした。
自宅のマンションに着き、暗い玄関のドアを開ける。母はもう寝ているようだ。リビングのテーブルに、ラップをかけた夕食が置いてある。傍にメモ。
『温めて食べてね。明日頑張って。お母さんはあなたの味方だから』
味方。その言葉が、今の蒼太にはなぜか重い。
食欲がなかったが、無理に食べた。シャワーを浴びて、自分の部屋に戻る。6畳一間の小さな部屋。机の上には参考書が積み上げられ、本棚には受験関連の書籍がぎっしり詰まっている。
でも、本棚の一番下の段——目立たない場所に、1冊だけ異質な本がある。
『勇者エルドの冒険』。
表紙はもうボロボロで、背表紙のタイトルも半分かすれている。父が最後にくれた誕生日プレゼント。蒼太が8歳のときだ。
——捨てられなかったんだよな。
蒼太はベッドに倒れ込んだ。天井を見つめる。目を閉じると、子供の頃の記憶が蘇る。父の膝の上で、あの本を読んでもらった夜。
「蒼太、勇者ってのはな、強いから勇者なんじゃないんだよ」
父はそう言った。
「じゃあ、なんで勇者なの?」
「怖くても、前に進むからだよ。それが勇気だ」
——父さん。俺は今、勇気なんて一つも持ってない。
そして——もう一つ、蒼太が決して口にしない感情がある。
父が死んだ朝、蒼太は何をしていたか。リビングで、『勇者エルドの冒険』を読んでいた。母が悲鳴を上げたとき、蒼太は物語の世界にいて、現実の父が倒れていることに気づかなかった。
——あの時、俺がもっと早く気づいていたら。救急車を5分早く呼べていたら。
医師は「どのみち助からなかった」と言った。理屈ではわかっている。8歳の子供に、何ができたわけでもない。
でも、感情は理屈で割り切れない。
蒼太の心の奥には、小さな闇が巣食っている。「おとぎ話に夢中になっている間に、父を死なせた」という、根拠のない、しかし消えない罪悪感。
だから蒼太は、他人の苦しみを見過ごせない。見過ごしたら——また、あの朝を繰り返すことになる。
それが蒼太の「勇気」の正体だ。勇気ではなく、贖罪だ。
——少なくとも、今はまだ。
疲労と虚しさに包まれながら、蒼太の意識は沈んでいった。
そして——夢を見た。
いや、夢だったのかどうか、今でもわからない。
暗闇の中に、一つの声が響いた。
『——汝、物語を愛する者よ』
低く、温かく、どこか懐かしい声。
『汝の心に宿る光は、まだ消えてはおらぬ。目覚めよ、若き勇者——現実という名のダンジョンに、立ち向かう力を授けよう』
蒼太の全身に、温かい光が満ちた。それは子供の頃に感じた、あの物語の中の輝きに似ていた。
——朝。
目覚ましが鳴って、蒼太は飛び起きた。
夢の内容は鮮明に覚えていたが、それよりも気になることがあった。
右手だ。
指先から、かすかに——本当にかすかに——金色の光の粒子が漂っていた。
「……は?」
蒼太は自分の手を凝視した。光は数秒で消えたが、指先にはほんのりと温かさが残っている。
——なんだ、今の。
目の錯覚だ。そう思おうとした。でも、心臓がどくどくと速く打っていた。あの光は——あの温かさは——確かに、本物だった。
灰色だった世界が、ほんの少しだけ色づいた朝。
蒼太はまだ知らない。この光が、自分の人生を——そして東京の運命を——根本から変えてしまうことを。
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