第1話 止まったシャーペン
塾の自習室は、いつも同じ匂いがする。
蛍光灯の微かな焦げ臭さ。消しゴムのカス。誰かが飲み残したコーヒーの残り香。
20人ほどが詰め込まれた部屋の中で、聞こえるのはシャーペンが紙を引っかく音と、時折誰かが溜め息をつく音だけだ。
桐谷蒼太は、右手に握ったシャーペンの先を数学の問題集に向けたまま、もう5分以上止まっていた。
——微分の問題。三角関数の合成。
解けないわけじゃない。ただ、手が動かない。
頭の中がぼんやりと霞がかかったようになっている。今朝6時に起きて、学校に行って、放課後そのまま塾に来て、今は夜の9時半。この生活がもう1年以上続いている。
ふと、視線がノートの端に落ちた。
無意識に描いていた落書き——剣を構えた人物のシルエット。子供の頃、何度も何度も描いた、あの勇者の姿だ。
蒼太は慌ててそれを消しゴムで消した。
「桐谷、大丈夫か?」
隣の席から、小声が飛んでくる。中学からの親友、藤宮健吾だ。スポーツ刈りに日焼けした肌、理系クラスのムードメーカー。蒼太とは対照的に、いつもどこかエネルギーが余っているような男だ。
——ただし、そのエネルギーの正体を知る者は少ない。
健吾の父は、健吾が中学2年のときに家を出た。不倫ではない。借金でもない。ある日突然「自分の人生を生きたい」と言って、それきりだ。母と二人暮らしになった健吾は、家の中の沈黙を埋めるために笑うことを覚えた。明るく振る舞えば、母が少しだけ楽になる。ムードメーカーという役割は、健吾が生き延びるために選び取った鎧だった。
だから健吾は、蒼太の「大丈夫」が嘘であることを、いつも見抜く。自分も同じ嘘をつき続けているからだ。
「……ああ、大丈夫。ちょっとぼーっとしてた」
「ぼーっとしてたって、お前さっきからずっと固まってたぞ。休憩入れろよ」
「うん……」
蒼太は生返事をして、また問題集に目を落とした。けれど活字は意味を成さない記号の羅列のように見える。
「桐谷くん、今日はだいぶ疲れてるみたいだね」
不意に、背後から声がかかった。振り返ると、大学生のチューター・成瀬梓が立っていた。
梓は都内の難関大学に通う理系の大学2年生で、この塾で週3回チューターをしている。切り揃えた黒髪に、銀縁の眼鏡。いつも淡々とした口調で、生徒たちからは「氷の成瀬さん」と呼ばれている。
——もっとも、その「氷」は、自分で選び取ったものだ。
かつて、梓には親友がいた。高校時代。成績の伸び悩みに苦しむその友人に、梓は「正しいこと」を言った。合理的に、冷静に、効率的な勉強法と、偏差値から見た現実的な志望校の変更を。——それが友人の心を折ったと気づいたのは、友人が学校に来なくなってからだった。
あの日以来、梓は感情に距離を置くようになった。正しいことを正しく言う。ただし、相手の心まで踏み込まない。俯瞰する。分析する。介入はしない。——そうすれば、もう誰も傷つけない。
少なくとも、そう信じていた。
「……あ、成瀬さん。大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してるけど」
梓はそう言って、蒼太の問題集をちらりと見た。
「三角関数の合成ね。考え方はわかってるけど、頭が回ってないだけでしょ。——今日はもう切り上げた方がいいよ。疲れてる状態で無理に詰め込んでも、記憶には残らないから」
その言い方は冷たいようでいて、どこか柔らかかった。梓はいつもこうだ。生徒の状態を正確に見抜いて、必要なことだけを言う。
「……はい」
梓は軽くうなずいて、別の生徒の方に歩いていった。ただ、去り際にちらりと蒼太の右手を見たような気がした。
——気のせいか。
——俺は、何のためにこれをやってるんだっけ。
その問いが浮かぶたびに、蒼太はすぐに蓋をする。考えてはいけない。考えたら、止まってしまう。止まったら、落ちる。落ちたら、母さんが——。
「蒼太」
健吾が、今度は名前で呼んだ。声のトーンが少し変わっている。
「お前、最近マジで顔色悪いぞ。今日はもう帰れよ」
「……あと1時間で閉まるし、やれるところまでやる」
「無理すんなって。明日も模試だろ」
模試。そうだ、明日は全国模試だ。母親は今朝、出がけに「前回よりいい判定出してね」と笑顔で言った。笑顔だったけれど、目は笑っていなかった。
蒼太の父は、5年前に亡くなった。過労だった。IT企業の管理職で、身を粉にして働いて、ある朝突然、心臓が止まった。
母はそれ以来、蒼太の「将来」に対して強い執着を見せるようになった。いい大学に入ること。安定した職に就くこと。父のように「使い潰されない」人間になること。その気持ちは理解できる。理解できるからこそ、蒼太は逆らえなかった。
——でも、俺が本当に好きだったのは。
頭の隅で、幼い頃の記憶が閃く。
父が読み聞かせてくれた、あの本。『勇者エルドの冒険』。分厚い革表紙の児童書で、中には色鮮やかな挿絵がたくさん描かれていた。エメラルドの森、ルビーの城、サファイアの湖。勇者エルドは聖剣を手に、竜王を倒し、囚われの姫を救い出す。
幼い蒼太は、その本を何十回も読んだ。ページがすり切れるまで。いつか自分も勇者になれると、本気で信じていた。
——馬鹿な話だ。
蒼太は頭を振って、数学の問題に集中しようとした。
その時だった。
蛍光灯がちらついた。一瞬だけ、教室が暗くなる。
——え?
蒼太は顔を上げた。周囲を見回すが、他の生徒たちは何事もなかったように勉強を続けている。健吾も気づいていない様子だ。
気のせいか。蒼太はそう思おうとした。
けれど、右手の指先がほんの一瞬、淡く光ったような気がした。
——それが、すべての始まりだった。




