第8話 逆転の法廷
「……なんだ、この惨状は」
その声は、驚くほど静かに響いた。
いびきの大合唱が支配する森に、威厳あるバリトンボイスが染み渡る。
スライムの海を割り、数人の護衛を連れて現れたのは、白髪の紳士だった。
派手な王冠はない。
けれど、その身に纏う空気と、ジークフリートが即座に膝をついたことで、相手が誰かは明白だった。
フェルディナンド国王陛下。
この国の最高権力者が、私の庭(兼、野外ベッド会場)に立っている。
「へ、陛下……!」
スライムの中から這い出してきたエドワード様が、泥──ではなく高級ゲルまみれの姿で叫んだ。
「ご覧ください! この堕落した光景を! 魔女アメリが、我が国の精鋭たちを骨抜きにしたのです!」
エドワード様は必死だった。
髪は乱れ、片眼鏡は割れ、かつてのエリートの面影はない。
「私は正義を執行しようとしました! ですが、魔女の洗脳魔法により……部下たちは戦う意志を奪われ……」
「洗脳、か」
国王陛下は、足元で幸せそうに眠る兵士を見下ろした。
その兵士は口を半開きにして、「むにゃ……もう食べられません……」と寝言を言っている。
「……アメリ・スリープよ」
「はい」
私はテラスから降り、カーテシーをした。
パジャマの上にカーディガンという格好だが、心だけは正装のつもりで。
「弁明はあるか?」
「ありません」
私は即答した。
エドワード様が「見たか!」と勝ち誇った顔をする。
けれど、私は言葉を続けた。
「見たままが真実ですから。……彼らは疲れ果てていました。だから、最高の寝床を提供しました。それだけです」
「それが洗脳だと言うのだ! 兵士から闘争心を奪うなど、国家への反逆だ!」
エドワード様が喚く。
国王陛下は無言のまま、ゆっくりと歩き出した。
向かう先は、私でもエドワード様でもない。
スライムの海で眠る、聖女リリィ様のところだ。
「……リリィよ」
陛下は、大の字で爆睡する聖女の顔を覗き込んだ。
彼女は「んふふ、枕ふかふかぁ……」と涎を垂らしている。
「彼女は『覚醒の聖女』と呼ばれ、不眠不休の象徴だったはず。その彼女が、この有様か」
「そ、そうです! 魔女の呪いが彼女を……!」
「エドワード」
陛下が鋭い声で遮った。
「余には、彼女が呪われているようには見えん。……むしろ、ここ数年で一番、人間らしい顔をしているように見えるが?」
「なっ……」
「それに、この兵士たちだ」
陛下は近くの兵士の手首を取り、脈を測った。
そして、その肌の艶、筋肉の弛緩具合を確認する。
「魔力欠乏の兆候はない。古傷の炎症も引いている。……何より、この安らかな寝顔だ」
陛下は立ち上がり、エドワード様を真っ直ぐに見据えた。
「余が知る『我が軍』は、常に目の下に隈を作り、殺気立っていた。だが今はどうだ? まるで赤子のようではないか」
「そ、それは……弛んでいるのです! 兵士たるもの、常に気を張り……」
「張り詰めた糸は、いつか切れる」
陛下は静かに言った。
「そして実際、王都の機能は切れかけた。……エドワード、お前の報告書には『士気旺盛』とあったが、現実はこれだ」
陛下は懐から、一枚の紙を取り出した。
それは、エドワード様が提出したはずの改竄された報告書だった。
「お前は数字を作るために、人間を壊した。……違うか?」
「私は……国の効率を……!」
「効率? 壊れた道具で作業を続けることが、効率的か?」
正論だ。
ぐうの音も出ない正論パンチ。
エドワード様は唇を震わせ、後ずさる。
「で、ですが! この女は危険です! 見てください、この異様な魔道具を! 一度入れば抜け出せない、悪魔の罠です!」
彼は私の『モチモチスライム』を指差した。
「これを国中に撒かれたら、国民全員がニートになってしまいます!」
「……ほう」
陛下は顎に手を当て、スライムを見つめた。
そして、あろうことか。
「どれ」
ズボッ。
自らの革靴を、スライムに突っ込んだ。
「へ、陛下!?」
護衛が慌てるのを手で制し、陛下は目を閉じた。
「……む」
眉がピクリと動く。
「……むむっ」
肩の力が抜ける。
「……これは」
陛下は目を開き、恍惚とした表情で私を見た。
「……良い」
「は?」
エドワード様の素っ頓狂な声。
「余の持病の腰痛が……消えた。足裏にかかる負担が分散され、まるで雲の上を歩いているようだ……」
陛下はスライムの中で、ふみふみと足踏みをした。
猫が毛布を揉むような動作だ。
一国の王がやる動きではない。
「アメリよ。これは何という素材だ?」
「『超・高反発モチモチスライム』の失敗作です。……柔らかすぎて建材にならなかったので」
「失敗作? 馬鹿を言うな。これは革命だ」
陛下は興奮気味に言った。
「王座というものは硬くてな。長時間座っていると尻が痛くなるのだ。……これを玉座のクッションに採用したい」
「はあ、在庫なら山ほどありますけど」
「決まりだ!」
陛下は高らかに宣言した。
そして、呆然とするエドワード様に向き直った。
「エドワード・ヴァルダー。お前の訴えを棄却する」
「な……」
「アメリの魔道具は『呪い』ではない。『救済』だ。……お前が壊した兵士たちを、彼女が直したのだ」
「そんな……そんな馬鹿な……! 私は、私はただ……!」
エドワード様が膝から崩れ落ちる。
彼のアイデンティティだった「効率至上主義」が、物理的な「気持ちよさ」の前に完全敗北した瞬間だった。
「連れて行け。……ただし、牢屋ではない」
陛下は慈悲深い目で彼を見下ろした。
「王立病院の特別病棟へ送れ。診断名は『重度の過労による判断能力喪失』だ。……三ヶ月、強制的に休養を命じる」
「きゅ、休養……?」
「お前も疲れているのだ。顔色が悪いぞ」
「……あ」
エドワード様は自分の頬に触れた。
張り詰めていた糸が、プツリと切れる音がした気がした。
「……休み、たい……」
彼が最後に漏らした本音は、とても小さかった。
護衛たちが彼を抱え上げる。
彼は抵抗しなかった。
むしろ、護衛の腕の中で、安堵したように目を閉じていた。
(……やっと、眠れるのね)
私は少しだけ、彼に同情した。
彼もまた、この国のブラック体質の被害者だったのかもしれない。
「さて」
エドワード様が運ばれていくと、陛下はくるりと私に向き直った。
その目が、爛々と輝いている。
嫌な予感がした。
「アメリよ。余からも頼みがある」
「……なんでしょう。私のコタツは非売品ですよ」
「分かっている。だから──」
陛下は、私の後ろに控えていたジークフリートを指差した。
「ジークフリートと同じ権利を、余にも寄越せ」
「はい?」
「つまりだ。……公務の合間に、ここへ来て昼寝をする許可をくれと言っているのだ!」
陛下は身を乗り出した。
「城は息が詰まる! 枕は硬い! 大臣たちはうるさい! 余だって……余だって、そのコタツでゴロゴロしたいのだ!」
王様の威厳、崩壊。
周囲の騎士たちが「聞かなかったことにしよう」と空を見上げている。
「あの、ここは私の隠居場所なんですが」
「頼む! 予算ならつける! 『国立療養所』という名目にすれば文句はあるまい!」
「療養所……」
それなら、公的に「寝ててもいい場所」として認められるということか。
悪くない。
追っ手に怯えるより、国の公認を得て堂々とサボる方が、精神衛生上よろしい。
「……条件があります」
私は指を一本立てた。
「私の睡眠を邪魔しないこと。そして、おやつを持参すること。……王都限定の『月光堂のシュークリーム』なら歓迎します」
陛下の顔が輝いた。
「交渉成立だ!」
こうして。
私の森での反逆劇は、幕を閉じた。
血は流れず、代わりに大量のヨダレと寝息が流れた戦いだった。
「……やれやれ」
私は空を見上げた。
青空が綺麗だ。
これでやっと、平和な日常が戻ってくる──
「アメリ、俺の場所も確保しておいてくれよ」
ジークフリートが耳元で囁いた。
「余も詰めるぞ。三人で川の字だ」
陛下が割り込んでくる。
「アメリ様、私たちもお供します!」
騎士たちが起き上がってくる。
……訂正しよう。
平和な日常は戻ってきたが、私の小屋の人口密度は、過去最高になりそうだ。
(まあ、いっか)
賑やかなのも、眠気を誘うBGMだと思えば。
私は皆に背を向け、愛しいコタツへとダイブした。
「おやすみなさい、皆さん」
二度寝の時間は、まだ終わっていないのだから。
◇
こうして、国を揺るがす「魔女騒動」は解決した。
だが、物語はまだ終わらない。
新しく「国立療養所」となった私の小屋を巡り、今度は王都中の貴族たちが「予約戦争」を始めることになるのだが──それはまた、別のお話。




