第2話 最初の犠牲者
森に来てから、三日が経った。
私は今、人生の絶頂にいる。
「……んぅ」
鳥のさえずりで目を覚ますなんて、物語の中だけの嘘だと思っていた。
王都では、けたたましい魔導アラームか、上司の怒鳴り声が目覚まし代わりだったから。
私はベッドの中で、ゆっくりと伸びをする。
シーツの冷んやりとした感触が、素足に心地よい。
窓から差し込む木漏れ日が、埃一つない床に幾何学模様を描いている。
「さて」
起きるか。
いや、まだだ。
私は枕をひっくり返し、冷たい面を頬に当てる。
二度寝。
それは神が人間に与えた、最も罪深く、かつ甘美な権利。
私は再び布団を頭まで被り、微睡みの海へと沈んでいった。
◇
「……報告にあった座標はこの辺りだ」
「静かすぎるな。魔物の気配が全くない」
不穏な声が聞こえてきたのは、私が「三度寝」から覚め、遅めのブランチ(ただのパンとチーズ)を食べている時だった。
窓の隙間から、そっと外を覗く。
小屋を取り囲むように、五つの人影があった。
全身を黒い金属鎧で覆い、腰には長剣。
胸には王家の紋章。
(……騎士団だ)
パンを食べる手が止まる。
彼らは「王宮騎士団」。
エドワード様が指揮権を持つ、国の精鋭部隊だ。
(もう追手が来たの?)
追放刑が執行されたばかりなのに、わざわざ森の奥まで死体確認に来たのだろうか。
それとも、「死んでいなければ殺してこい」という追加命令でも出たのか。
どちらにせよ、迷惑な話だ。
「おい、あそこに小屋があるぞ」
「廃屋か? いや、煙突から煙が出ている」
「生存者がいるのか。……警戒せよ。魔女の隠れ家かもしれん」
騎士たちが剣の柄に手をかけ、じりじりと距離を詰めてくる。
その足取りは重く、呼吸も荒い。
遠目に見ても、彼らの疲労度が分かった。
肩で息をしているし、歩幅が乱れている。
ブラック労働の被害者たちだ。
同情はする。
だが、私の安眠を脅かすなら話は別だ。
「……帰りなさい」
私は窓越しに小さく呟く。
もちろん、彼らに聞こえるはずもない。
騎士の一人が、玄関の扉(私が直したのでピカピカだ)に手をかけようとした。
「突入する!」
「待って、そこは!」
思わず声を上げそうになったが、遅かった。
彼が踏み込んだのは、玄関前のポーチ。
そこは、私が今朝設置したばかりの『対人防衛システム』の作動エリアだ。
カチリ。
微かな音が響く。
次の瞬間。
ぼわんっ!
地面からピンク色の煙幕が噴き出した。
「なっ、毒ガスか!?」
「退避せよ! ……うわっ!?」
煙の中から現れたのは、無数の「何か」だった。
それはスライムのように不定形で、マシュマロのように白く、そして悪魔的な弾力を持っていた。
私が開発した迎撃用魔道具、『人をダメにする拘束粘土』だ。
「なんだこれは……剣が、通じない!?」
先頭の騎士が剣を振るう。
だが、刃は粘土にぷよんと弾き返されるだけ。
そして、あろうことか、その粘土は騎士の全身にまとわりついた。
「くそっ、離れろ! ……ん?」
騎士の動きが止まる。
必死の形相だった彼の顔が、みるみるうちに緩んでいく。
「隊長? どうしました!」
「……やわらかい」
「は?」
「なんだこの包容力は……。王宮の最高級ソファよりも……母の腕の中よりも……」
騎士は剣を取り落とし、そのまま地面に倒れ込んだ。
いや、倒れたのではない。
粘土が変形し、彼の体を理想的な角度で支える「極上リクライニングチェア」になったのだ。
「隊長! ……ぐわっ、俺の足にも!」
「なんだこの暖かさは……腰の痛みが、消えていく……」
「目を開けていられない……強制スリープモード……?」
バタ、バタ、バタ。
後続の騎士たちも次々と「餌食」になった。
彼らは抵抗しようと藻掻くが、動けば動くほど粘土は体にフィットする。
重い鎧の圧迫感から解放され、冷えた手足が温められ、凝り固まった筋肉がほぐされていく。
それは、拷問ではなく、極上のセラピー。
「……Zzz」
「むにゃ……もう、歩け、ない……」
「報告書は……明日に……」
数分もしないうちに、小屋の前は死屍累々となった。
いや、正確には「熟睡するおじさんたちの山」が出来上がった。
「……ふぅ」
私は冷めかけたハーブティーを一口飲む。
制圧完了。
殺傷能力はない。
ただ、「一度座ったら二度と立ち上がりたくなくなる魔力」を込めただけだ。
意志の強い騎士なら振りほどけるはずなのだが、彼らはあまりにも疲れていたようだ。
「さて、どうしましょう」
このまま放置すれば、彼らは風邪を引くかもしれない。
それは目覚めの質を下げる。
私の美学に反する。
私は仕方なく玄関を開け、外に出た。
騎士たちは幸せそうな顔で、涎を垂らして寝ている。
いかつい髭面の男が、粘土の端を抱き枕のようにして「ママ……」と呟いているのは見なかったことにしよう。
私は『範囲保温』の魔法を彼らにかけ、さらに『結界香炉』の出力を少し上げた。
これで朝までぐっすりだろう。
「おやすみなさい、働きアリさんたち」
私は彼らの枕元に、置き手紙と「疲労回復ポーション(試供品)」を置いて、小屋に戻った。
◇
翌朝。
鳥のさえずりよりも早く、ガシャガシャという金属音で目が覚めた。
(……帰るのかな)
ベッドの中で耳を澄ます。
「……おい、起きろ。朝だぞ」
「う、うわっ! 俺、いつの間に寝て……!」
「敵襲は!? 魔女は!?」
慌てふためく声。
だが、すぐにその声色は驚愕へと変わった。
「……あれ?」
「体が……軽い?」
「俺の慢性的腰痛が、ない。剣ダコが痛くない。というか、視界がクリアだ」
「昨晩、何が起きたんだ? 俺たちは毒ガスに……いや、天国にいたような……」
窓の外、騎士たちは互いの顔を見合わせ、自分の体を触って確認している。
彼らの顔色は、昨日とは別人のように血色が良かった。
目の下の隈も消えている。
「隊長。これを見てください」
部下の一人が、私が残した置き手紙を拾い上げた。
『商品の座り心地はいかがでしたか? 気に入っていただけたら、騒がずにご退店ください。二度目の来店は予約制です。店主』
「……店、だと?」
隊長と呼ばれた男が、小屋の方を振り向く。
私はカーテンの隙間から、彼と目が合った気がした。
彼は数秒間、沈黙し──
そして、深く頭を下げた。
「……撤収する!」
「はっ! し、しかし隊長、魔女の報告は?」
「ここには何もなかった。いいね?」
「は?」
「魔物は見当たらず、異常なし。我々はただ、野営をして帰還する。……もしこの場所を上に報告すれば、軍務大臣(エドワード様の父)がここを接収し、あの『天国のような椅子』を独占するだろう」
その言葉に、部下たちの顔色が変わった。
「そ、それは困ります!」
「俺、またあそこで寝たいです!」
「内密に……内密にしましょう!」
彼らは無言で頷き合うと、私の置いたポーションを大切そうに懐にしまい、整列した。
そして、来た時よりも遥かに機敏な動作で、森を去っていった。
(……分かってくれたみたい)
私は安堵の息を吐く。
彼らは「顧客」になったのだ。
良い睡眠を知った人間は、もう二度と「悪い睡眠」には戻れない。
彼らは必ず、また来る。
今度は剣ではなく、財布(と、お忍びの変装)を持って。
「商売繁盛の予感」
私はくすりと笑い、再びベッドに潜り込んだ。
まだ朝の七時。
二度寝には最高の時間だ。
◇
一方、その頃。
王都の騎士団本部では、一人の男がイライラと指で机を叩いていた。
「……遅い」
ジークフリート・ヴォルフ騎士団長。
不眠不休の「氷の英雄」は、血走った目で壁時計を睨みつけていた。
「偵察隊の帰還が遅すぎる。……まさか、全滅したのか?」
彼が心配していたのは部下の命。
まさか彼らが、森の中で「お肌ツヤツヤ」になって帰ってくる途中だとは、知る由もなかった。




