第1話 私は寝てただけでした。
きん、きん、とグラスを叩く音が響く。
シャンデリアの煌めきが目に痛い。
王宮の大広間は、むせ返るような香水の匂いと、好奇心に満ちた視線で充満していた。
私は大きなあくびを噛み殺しながら、目の前の男を見上げる。
眉間に深い皺を刻み、顔を真っ赤にして叫んでいるのは、私の婚約者──エドワード・ヴァルダー様だ。
「アメリ・スリープ! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄とする!」
会場がどよめく。
けれど、私の頭の中は白い靄がかかったようにぼんやりとしていた。
昨晩も、研究所で徹夜だったのだ。
開発中の『自動羊数え機』の試運転に付き合わされ、一睡もしていない。
立っているだけで膝が笑う。
早く帰って、あのふかふかの枕に顔を埋めたい。
思考はそれだけで埋め尽くされていた。
「聞いているのか、この無能女が!」
エドワード様の怒号で、意識が少しだけ現実に戻る。
彼は片眼鏡の位置を神経質そうに直しながら、私に指を突きつけた。
「貴様が開発した魔道具──『安眠枕・雲海』のことだ! あれを使用した兵士たちがどうなったか、知らぬとは言わせんぞ!」
「……兵士たちが、どうなったのですか?」
私の問いかけに、彼は待ってましたとばかりに口角を歪める。
「全員、任務中だというのに昏睡状態に陥った! 揺さぶっても、水をかけても起きない。まるで死んだように眠り続けているのだ!」
「まあ」
それは、大成功ではないだろうか。
戦場の兵士たちは常に気を張り詰め、慢性的な睡眠不足にあると聞いていた。
短時間で深い眠りを提供し、体力を回復させる。
それが私の設計意図だ。
「あれは呪いだ! 貴様は兵士たちの戦意を削ぐため、呪詛を付与した枕を納品したのだ!」
「呪い……ですか」
「そうだ! 貴様のような魔力値5のゴミが、まともな魔道具を作れるはずがないと思っていたが……まさか国を売るとはな!」
エドワード様の隣には、見知らぬ女性が寄り添っている。
聖女と呼ばれるリリィ様だ。
彼女は勝ち誇ったような瞳で私を見下ろし、わざとらしく怯えたふりをした。
「恐ろしいですわ、エドワード様。人が心地よく働くための神聖な職場で、眠りという怠惰を誘うなんて……」
「ああ、君の言う通りだリリィ。この女は、我が国の勤勉なる精神を汚す害悪だ」
二人の会話を聞きながら、私はゆっくりと瞬きをする。
つまり、こういうことだろうか。
私が作った「最高に気持ちよく寝られる枕」は、この国では「呪いの道具」認定された。
そして、それを作った私は、国家反逆罪に等しい扱いを受ける。
「よって、アメリ・スリープ。貴様を国外追放──いや、『常闇の森』への永久追放刑に処す!」
常闇の森。
王都の東に広がる、高濃度の魔素が漂う未開の地。
凶暴な魔物が跋扈し、足を踏み入れた人間は二度と戻らないとされる処刑場だ。
会場の貴族たちが息を呑み、憐れみと軽蔑の視線を私に向ける。
「死刑と同じよ」「可哀想に」「いや、自業自得だ」
ひそひそ声が波のように押し寄せる。
けれど。
私の胸に湧き上がったのは、恐怖でも絶望でもなかった。
(……追放?)
それはつまり、明日から研究所に行かなくていいということ?
納期に追われることもない?
上司の無茶な仕様変更に付き合わされることも、夜会で壁の花になる必要もない?
(それって……)
喜びで、頬が緩みそうになるのを必死に堪えた。
常闇の森には、人はいない。
人がいなければ、仕事はない。
仕事がなければ、寝放題だ。
「……謹んで、お受けいたします」
私は精一杯の殊勝な態度で、カーテシーをした。
膝を折る動作すら、今は心地よい。
もう二度と、この窮屈なハイヒールを履かなくていいのだから。
「ふん、罪を認めるか。衛兵! すぐにこの女を連れ出せ!」
エドワード様の命令で、屈強な衛兵たちが私の腕を掴む。
私は抵抗せず、むしろ彼らに体重を預けた。
ああ、楽だ。
運ばれるって、なんて素晴らしいのだろう。
「最後に言い残すことはあるか?」
出口の間際、エドワード様が背後から声をかけてきた。
私は振り返り、彼と、その場にいる全員に向かって微笑んだ。
心からの、慈愛に満ちた笑みを。
「皆様、どうぞお元気で。……これからは、死ぬほど働いてくださいね」
私はもう、降りますので。
◇
ガタゴトと揺れる馬車の振動すら、私にとってはゆりかごだった。
護送を担当した騎士たちは、死地へ向かう私を気遣ってか、それとも不気味に思ったのか、一言も話しかけてこなかった。
おかげで私は、移動時間のすべてを睡眠に充てることができた。
「……着いたぞ。ここから先は、俺たちも入れない」
騎士の声で目を覚ますと、目の前には鬱蒼とした森が広がっていた。
太陽は沈みかけているのか、それとも木々が光を遮っているのか。
視界の先は黒く塗りつぶされている。
「降りろ。……運が良ければ、苦しまずに死ねるだろう」
騎士が私の足元に、小さな荷袋を放り投げた。
中身は数日分の干し肉と水筒だけ。
伯爵家からの手切れ金代わりだろうか。
「ありがとうございます。貴方にも、良い眠りがありますように」
私が礼を言うと、騎士は顔を引きつらせ、逃げるように馬車を走らせていった。
土煙が晴れると、あたりには静寂だけが残る。
「……ふあぁ」
誰に遠慮することもなく、大きなあくびをした。
さて、ここが私の新居だ。
まずは寝床を確保しなければならない。
私は懐から、愛用の魔道具『相棒』を取り出した。
見た目はただの白いクッションだが、中には亜空間収納機能が組み込んである。
私の全財産──研究所からこっそり持ち出した試作品や、自分用に作った寝具一式──は、すべてこの中だ。
「鑑定」
私は片眼鏡を取り出し(エドワード様のものとは違い、私が自作した高性能なものだ)、周囲の魔素濃度を測る。
数値は異常に高い。
普通の人間なら、呼吸をするだけで魔力酔いを起こして倒れるレベルだ。
「でも、これなら……」
魔力が濃いということは、燃料が潤沢にあるということ。
私は森の奥へと歩き出した。
道はないが、気にする必要はない。
邪魔な草木は、私の持つ『除草サンダル(歩くだけで道ができる)』が勝手に踏み均してくれる。
三十分ほど歩いただろうか。
木々の切れ間に、古びた石造りの小屋を見つけた。
かつて、変わり者の魔術師が住んでいたという伝説の廃屋かもしれない。
屋根は半分崩れ、蔦が絡まり、扉は腐り落ちている。
普通なら「幽霊屋敷」と呼ぶだろう。
けれど、私には「天国」に見えた。
「……採用」
私は小屋の中に入り、指を鳴らす。
『浄化』
生活魔法の一種だが、私の独自アレンジが加わっている。
一瞬で埃が舞い上がり、窓の外へと排出される。
カビ臭い空気は消え、代わりに清潔な石鹸の香りが満ちた。
崩れた屋根には、収納から取り出した『修復布』を貼り付ける。
魔力を流せば、石材と同化して雨風を完全に遮断する優れものだ。
そして、メインイベント。
私は部屋の中央、一番風通しの良い場所に、『相棒』を開放した。
ぼんっ、という音と共に現れたのは、キングサイズのベッドだ。
マットレスは、スライムの粘液を加工した高反発素材。
シーツは、最高級の繭から紡いだシルク。
掛け布団は、温度調節機能付きの羽毛。
「……完璧」
思わず涎が出そうになる。
だが、まだだ。
ここは危険な森。寝ている間に魔物に襲われては、安眠が妨げられる。
私は鞄から、真鍮製の香炉を取り出した。
『安眠結界香炉・ラベンダーの守り』
これに火を灯すと、紫色の煙がゆらりと立ち昇る。
甘く、重たい香りが部屋中に広がり、そして窓の外、森の奥へと染み出していく。
「ギャ……」
遠くで、何かの鳴き声が聞こえた気がした。
けれど、その声はすぐに途切れ、静寂に飲み込まれる。
この香炉の効果範囲内にいる生物は、すべて強制的に「リラックス状態」に移行する。
戦意を失い、瞼が重くなり、ただ眠りたくなる。
魔物だろうと害虫だろうと、例外はない。
「……よし」
安全は確保した。
家はある。
食料もある。
上司はいない。
私は靴を脱ぎ捨て、ローブを脱ぎ、下着姿でベッドにダイブした。
ずふっ。
体が沈み込む感覚。
雲の上にいるような浮遊感。
「あぁ……」
声にならない吐息が漏れる。
明日の朝、起きなくていい。
目覚まし時計をセットしなくていい。
報告書を書かなくていい。
その事実が、どんな高級なワインよりも私を酔わせる。
瞼が鉛のように重い。
意識が急速に遠のいていく。
最後に見たのは、窓の外で、巨大な熊のような魔物が、幸せそうな顔で地面に突っ伏して眠っている姿だった。
(おやすみなさい、世界……)
私は泥のように眠った。
まさかこの結界が、森全体の生態系を書き換え、遠く離れた騎士団の巡回ルートにまで影響を及ぼし始めているとは、夢にも思わずに。
◇
森の静寂が深まる。
私の小屋を中心に広がった「眠りの波紋」は、やがて一人の男をこの場所へ導くことになるのだが──
それはまだ、もう少し先の話だ。




