くらげは海の夢をみる
『くらげの夢』
美術館の真っ白な展示室に、ぽつんと飾られた青い絵に私は心を奪われた。
それは、まるで白い壁の向こう側に海が拡がっていると錯覚するような、窓の向こう側を覗いているような海の絵だった。
正直、私は絵や美術館などに興味は余りなく、有休消化と称してあてがわれた休日に、ふらふらと散歩をしていて偶然通りがかっただけだった。
美術館の前に立てかけられていた小さな看板。
無名の学生達による展示会。
ワンコインで入れる気軽さに、なんとなく足を運んだだけだった。
熱くなれる趣味もない私にとって、学生時代から美術館に絵を展示する人というのは、別世界の人間のようで、少しだけ羨ましかったのかもしれない。
そこで目にした一枚の絵の前で、私は動けずにいた。
美しかったことは言うまでもない。
けれど、どうしてこうもこの絵に惹かれるのか分からずに立ちすくんでいた。
「あの、その絵……気に入りませんでしたか?」
凛とした、海のように透き通った声に振り返ると、どこか浮世離れした雰囲気の少女がじっとこちらを見つめていた。
「……え? あっ、いや、その……なんで、『くらげの夢』なのかなって思って。この海の中にくらげなんて描かれていないのに」
なんと答えて良いのか分からず、しどろもどろと何かを話そうと口を動かしていると、私は咄嗟にそう言っていた。
「そんなこと聞かれたの……お姉さんが、初めてです」
「えっ? もしかして、これ描いたのって貴女が……?」
まさか作者がここに居るなんて思っていなかった。
こくん、と頷く少女に、私は慌てて手を横に振りながら弁解する。
「ご、ごめんねっ。私、普段ほんっとうに絵とか美術とか関わってこなかった人間だからさ。その……美術的なこととか何も分からないし、貴女が絵に込めた想い……とか全然汲んであげられないし、私が分からないだけで多分他の人には伝わってるから大丈夫!」
支離滅裂だと分かっていながらまくし立てると、少女は薄い唇に人差し指を当て、目を細めて笑った。
「ふふっ、お姉さん面白い。慌てなくても、この絵に深い意図なんてないんですよ」
「……そうなの? なんか、私みたいな素人には分からないような仕掛けとかがあるんじゃ……」
「どこを見てもらえるように、とか視線を意識したり……技術とかは無意識に積み重ねていますけど、別に高尚なことなんて考えてないですよ」
自慢しているわけじゃない。さらりと告げられた技術うんぬんは、この子にとっては当たり前で、きっと美術の世界ではそういうものって決まっているから偉ぶったりしてないんだろう。
「これは、くらげが見ている夢の光景なんです。だから、この絵の中にくらげはいないの」
「一人ぼっち、ってこと?」
「そう。水族館に一人ぼっちのくらげ」
少女は哀愁を感じさせる表情で、壁の絵を見つめていた。
「生まれた時から一人きりで、くらげの姿を見たことがないから……夢の中でも仲間の姿を思い浮かべることが出来ないの。それなのに……広大で自由な、美しい海を思い描いて夢に見るの」
それはまるで、一匹のくらげと自分を重ね合わせているかのようで、軽々しく追求する言葉を私は飲み込んだ。
まだ幼さも残るこの少女がどんな想いで、どんな人生を生きてこの絵を描いていたのか。
きっと、目には見えないこの子の積み重ねてきたものがこの絵に滲んで溶け込んで、私の周波数と合致したんだ。
「お姉さんが考えていること、当ててあげましょうか? 孤独な私がくらげに自分を重ね合わせて描いたんだって思っているでしょう?」
「なんで分か、……っ。ごめ……っ」
「ふふっ。くるくる表情が変わって、お姉さんって面白いね。安心して、そんな風に描いた訳じゃないから」
「そう……なの……?」
「……そう。だって、この絵を見てお姉さん、寂しそうって思ったりした?」
「……してない。上手く言えないけど、憧れとか目を奪われる感じはしたけど、一ミリも寂しいなんて思いもしなかったよ」
「よかった。私の絵、ちゃんとお姉さんには伝わったんだね」
嬉しそうに微笑む少女に、私の応えが間違っていなかったんだと心の中で安堵する。
美術に興味のない私が見惚れたんだよ。
綺麗だって思ったんだよ。
たった一枚の絵について、考えたんだよ。
それって、本当に凄いことで……余すことなく貴女に伝えたいのに、伝え方を間違えたら深く傷つけてしまいそうで怖かった。
「つくることって、特別なことみたいだけど……本当はなんてことないんだよ。息をするみたいに、夢を見るみたいになんてことない。だって、本当はね……海色のインクを買ったから海の絵を描きたくなっただけだもの」
少女が少しだけ、いたずらっぽい表情で微笑んだ。
「本当に? こんな素敵な絵を?」
「本当に」
「新しく服を買ったから遠出しよう、みたいな感じで?」
「そう。くらげみたいにふわふわ海の中を泳ぎたいなって、夢で見たあの光景を描きたかっただけなの。だって、すっごく綺麗で……海の中を泳ぐのは楽しかったから」
「あははっ、何それっ。そんな子供みたいな理由で絵を描いてもいいんだ。それで、こんなに素敵な絵が描けちゃうんだ!」
私が特別視していただけで、ミステリアスに見えていた少女は、普通の女の子だった。
それが、無性におかしくて、私は声を上げて笑った。
「そっか、凄く楽しくて綺麗な夢の光景だったから、私は惹き込まれたんだ。特別じゃなきゃいけない理由なんてなかったのに、決めつけてたのは私の方か」
「お姉さん?」
「うぅん、ごめん。なんでもない! 特別じゃなきゃ、特別なことはしちゃダメなんだって、勝手に諦めて、線を引いて……つまらない人生をおくるとこだった」
初対面の年下の女の子に、疲れた会社員が何を言っているんだろう。こんな当たり前のことに今更気付かされるなんて……。
だけど、今気づけて本当に良かった。
「素敵な絵を描いてくれてありがとう。今日、貴女とこの絵に会えて良かった」
「私も、お姉さんに会えて良かったです。こんなに絵を褒めてもらえること、あんまりないから」
「じゃあ、ファン一号だね。貴女の名前、教えてくれる?」
「海月。海に月で海月です」
「海月! って、くらげじゃん! あははっ、もう絶対に忘れないわ! 応援してるから、また素敵な絵を描いてね。海月!」
「ありがとうございます。美術に興味ないお姉さんに届くように、頑張りますね」
美術館を後にして、人混みの中へと駆けていく海月の後ろ姿を、私はいつまでも手を振って見送った。
あっという間に人混みに紛れてしまった海月を見届けて帰路へついた。
「そうだ、帰りに画材屋さんに寄ってみようかな」
年甲斐もなく浮かれた足取りで向かった画材屋さんで、私は海月のような繊細なガラスペンと海色のインクを手に取った。
ゆらゆらと漂う海月のような少女は、今日もまた『くらげの夢』を泳いでいるのだろうか。
最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
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完結済みの長編小説も宜しくお願いします。
『死』の概念は削除されました
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*死者の記憶が消える世界の謎を解く為に命懸けで立ち向かう、不器用で繊細な六人の少年少女の甘酸っぱく切ないボーイミーツガールです。
溺れる青とキミの声
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*「……このまま時間が止まればいいのに」
ーー夏の終わり、先輩は姿を消した。