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#5 Greatest Day

       9


 百番手との決戦は午後七時からに決まった。青藍は客間に戻って化けの皮を脱ぐと風呂に入り、大いに食って即座に寝た。玲子に起こされた時には午後六時。眠った時間は三時間ほどだが、身体はすっきりしていた。眠り姫はただ、惰眠をむさぼるのが能ではない。

 月明かりと篝火が照らす修練場は、押し合いへし合いで詰めかけた観客によって、世界大会決勝戦のような独特の雰囲気を作り上げていた。ざわつきと客から発せられる熱気が今までにないうねりを修練場に作っている。少し前なら萎縮していただろうが、今は嫌いではない心地だ。

 天狗に化け直した青藍は、静かに立ってその時を待った。

 ざわめきが止んだ。刑部が入ってきた合図だった。少しして目を開けると、彼女はすでに青藍のそばにいた。

「準備はよいな」

 青藍は深呼吸した。ほどよい緊張感が静かに昂りを生んでいる。

「大丈夫です」

 はっきり答えると刑部は微笑を浮かべた。

「初日とは見違えるな」

 彼女は振り向き、大声で叫んだ。「百番目、出番ぞ!」

 青藍はブルーシートを敷いた観客席に視線を移した。客の隙間から一人が立ち上がるのを見て、目を見開いた。最後の一匹がゆっくり近づいてくるのを待った。

 向かい合ってから、青藍は口を開いた。

「最後の相手が君だなんてね」

 蒼星は睨むでも笑うでもなく、真っ直ぐに青藍を見つめた。

「青藍は強くなった。だが……ここまでくるとは思わなかった」

「ちょっとは褒めてくれる?」

「青藍ほど根性のある狸は初めて見た」

「女の子にはもっと可愛い言葉で褒めなきゃ」

 数歩下がる。向き直った時、蒼星の雰囲気が変わっていた。そこに少年らしさは微塵も感じられなかった。

「あんたを応援しているが、隠神百鬼夜行衆は難攻不落でなければならない」

 彼は印を結んだ。「隠神流化術奥義、無間獄卒」


 膨大な化煙が修練場を曇らせた。あちこちで咳き込む声が聞こえた。

 もうもうと視界を遮る化煙の中に、大きな影が潜んでいた。青藍は扇を振るった。

 天狗風。化煙が消え去る――正体があらわになる。

 夜の帷に赤黒い鬼がいた。額と合わせた三つ目はぎょろつき、左右の側頭部からゴツい双角が生え、髭と一体となって繋がった毛むくじゃらの髪は腰まで伸びている。髑髏に紐を通した首飾りに牛皮の腰巻きをした肉体は、小山のような筋肉が漲っている。左手に握る黒漆の金棒が、月明かりに反射して怪しいきらめきを放った。

「妖怪軍団の大トリは地獄の鬼ってわけね」

 鬼が極太の黒眉を吊り上げた瞬間、金棒が振り下ろされた。軽く地面を蹴る。青藍のいた場所に先端がぶつかって地面が爆ぜると、音と振動が空気をビリビリ震わせた。

 旋回しながら距離を取って扇を振る。起こした風を追い風にして突っ込んだ。

 天狗が扇を薙ぐのと、鬼の金棒がぶん回されるのが同時だった。

 得物がぶつかった刹那、電気のような衝撃が全身を走り抜けた。二頭の妖怪は同時に弾かれ、同じように体勢を崩した。

 恐怖と昂揚が身を焦がす。笑みが込み上げる。血が逆流し、アドレナリンが全身を駆けめぐる。

 青藍は地面を滑るように飛んだ。一直線に右の腱を狙う。

 扇の刃を薙いだ瞬間、鬼の黒い脚が浮きあがった。顔を上げる――金棒の棘がギラリと光った。

 その場を蹴って後ろに飛び退いた。鉄の塊が地面に突き刺さると共に轟音が迸った。

 旋回しながら思案する。蒼星は鍛錬に明け暮れる精強な男、こっちは化け術もまだ半端な女だ。単純な力くらべと体力(タフネス)で敵う相手ではない。

 勝ち目はただ一つ。天狗の力を出し切って、短期決戦で勝負をつける――。

「これに耐えられる? 蒼星くん」

 青藍は大きく息を吸い込み、扇をバットを構えるように両手で握った。身体を捻ってフルスイングし、勢いのまま身体ごと回転した。

 巻くように放った天狗風はその場でぐるぐると弧を描き、やがて竜巻となった。意思を持ったかのようなツイスターは、周りの砂を巻き上げながら立ち尽くす獄卒を飲み込んだ。

 青藍は竜巻の中心に飛び込んだ。凄まじい風圧と乱気流の世界、空気の渦が荒れ狂っている。狂える風を捉え、逆らわずに乗る。巨大な風のミキサーの中では、天狗といえども油断はできない。

 うねる風の真下で、獄卒がしゃがんで踏ん張っていた。金棒を地面に突き刺して支えにしている。

 チャンス――青藍は力を振り絞って急降下した。気合いを叫びながら両手で刃を突き立てる。

 衝撃に身体がぐらついた。羽扇が手からすり抜け、竜巻に乗って舞い上がった。

 鬼は金棒で顔を覆うように構えていた。羽扇を受け止め、弾き返したのだ。

 間合いを取ろうとした瞬間、風で身体がぐらついた。ブレる視界の中で黒い拳が目に飛び込む。

 痛みが全身を貫いた。意識と身体が宙に飛び、打たれたボールのように地面を跳ねながら転がった。

 観客からどよめきが上がった。

 頭上を星が舞っている。チカチカする目を何度も瞬かせ、頭を振る。右半身に鋭い痛みが走った。右半身が激しい痛みを訴えている。今度こそ骨がイカれたかもしれない。

 気力を振り絞って立ち上がった。すでに竜巻は消えていた。

 獄卒が亡者を追い込むかのようにジリジリとにじり寄ってくる。足首あたりが土に塗れている。竜巻に耐えるため、足首より下を地面に埋め込んでいたのだと今になって気づいた。

「痛いじゃない……」

 羽を広げる。辛うじてだが、化けの皮はまだ纏える。剥がれない限りは戦える。

 空を見上げた。羽扇がヒラヒラと木の葉のように舞っている。

 飛び上がった。得物を掴み、そのまま高く飛翔する。ひたすらに飛び上がる。空気が冷えて肌を刺し、吐く息が白くなる。

 限界を感じて止まった。眼下に松山の市街地が広がっていた。振り向けば黄色い月が青藍を照らしている。こんなにも近くに月を感じたのははじめてだ。

 冷えた空気が思考と神経を研ぎ澄ませる。

 負けたくないという思いが溢れる。負けず嫌いの天狗に化けているから――ちがう。これは自分自身の願いだ。負け続けてきたからこそ、もう負けたくないのだ。

 わたしにだって意地はあるから。

 扇を掲げ、振り下ろした。天狗風が空から地表に向かって吹き荒れる。

 降下した。背翼を折りたたみ、一筋の弾丸となる。獲物を追う隼を思い描きながら宙を滑り落ちる。

 身体がジリジリと熱くなってきた。構わずに落ちる。落ち続ける。天を舞うだけでは勝てないのなら、潔く落ちよう。偽物に空への拘りはない。天から地へ、墜落するその瞬間に、地を穿つ蒼い星となるのだ。

 落ちる。落ち続ける。狭窄した視界の真ん中、黒い塊を――蒼星を捉えた。

 意識が霞んできた。奥歯を噛み締め、爪を掌に食い込ませる。血の出る感触があった。鈍い痛みが走った。

 獄卒が金棒を振り上げた。黒が迫る。青藍は右脚に、残るありったけを込めた。

 何かが当たった瞬間、すべてがブラックアウトした。

 

        10


 爆発と轟音があたりをつんざき、地面が揺れた。鳥たちは狂乱して飛び交い、集っていた狸たちはキャアキャア慌てふためいた。化け狸界屈指の武闘派である隠神一家の者たちでも、地を揺るがすほどの死闘は味わったことがなかった。

 舞い上がった砂埃で、修練場の視界は土色に煙った。どちらが立ち、どちらが倒れたのか、あるいは共倒れなのか、何も見えない。

「誰か来い」

 刑部の側に一匹の狸が近寄って巨大な団扇に化けると、彼女はそれを掴んで一薙ぎした。天狗風にも負けない風が砂を綺麗さっぱり吹き飛ばし、月に照らされた夜の闇が戻ってきた。

 隠神の狸たちが「さすが二代目だ」と歓声を上げたのも束の間、彼らは真っ二つに折れた鬼の金棒と、大の字に横たわる獄卒を視界に捉えて唖然とした。

 蒼星が負けた――狸たちは暫し茫然自失とした。口をあんぐり開ける者、目を剥いて突っ立っている者、あるいはその両方。

 ポン、と化けの皮が剥がれる音がして、棍棒と鬼が煙に包まれて消えた。蒼星がよろめきながら身を起こすと、誰よりも早く玲子が駆け寄って息子を抱きしめた。

 ポツポツと拍手が鳴った。最年少ながら百番手の座を射止めた少年が、それにふさわしい戦いをしたのは誰もが認めるところだった。

 その時、抉れた地面から何かがのそりと起き上がった。天狗――青藍だった。着物も翼もボロボロだが、驚くべきことに、まだその化けの皮は健在だった。

 青藍は親子にゆっくり近づくと、右手を差し出した。

「……おれもまだまだだな」

 蒼星の右脚を握る。筋肉に包まれた肉体に比べ、肉球は柔らかい。首や顔と同じ、鍛えようがないのだ。

「きみのおかげだよ」

「青藍が頑張ったからだ」

「うん、頑張ったよねわたし」

 今すぐにでも倒れ込みたい気分だ。温泉に入って、ご飯を食べて、あとはもう死ぬほど眠りたい。

「強くなりましたね」

 玲子が優しく微笑んだ。「息子が敗れたのは正直悔しいけれど、あなたのことが誇らしいですよ。ここまで諦めずに頑張ったことを知っていますからね」

「ありがとうございます」

 頭を下げた。胸の奥がジンと熱くなった。頑張ったことを認めてもらえたのは、物心ついてから何度もあることではなかった。

「……青藍、後ろだ」

 ぽつりと蒼星がいった。

「なに?」

「最後の一匹だ」

 拍手の音に振り向いた。刑部がこちらに向かってゆっくり歩いてくる。鋭い目は極上の獲物を見つけたかのようにギラついていた。

「やり遂げたな」

「隠神家の皆様のおかげです」

 笑おうとして顔をしかめた。全身が軋んだ痛みを発している。

「初日のこと、覚えておるか?」

「初日ですか……」

 一ヶ月前のことなのに、遠い昔のように感じた。

「あの頃は、天狗風を吹かすくらいしかできませんでしたね」

「その風、今一度我に撃ってみよ」

 刑部は青藍から少し離れ、仁王立ちした。「どれほど強くなったか、直に感じたいのだ」

「ご無礼ながら、吹き飛ばされないでくださいよ?」

 肩を回し、扇を振りかぶった。息を吸い込み、掛け声と共に刑部に向けて振り抜いた。

 ジェット機のような爆音と共に、猛烈な風が吹き荒んだ。林が風に揺れ葉が舞い散る。篝火がすべて吹き消され、周囲は闇に包まれた。

 青藍は腕を振り過ぎた投手のようにバランスを崩し、膝をついた。顔を上げ、暗闇に呑まれた空間に向かって叫ぶ。

「刑部様」

 ヤバい――冷や汗が垂れる。ここまでの旋風は自分でも想定外だった。

 突如として暗がりの中から狼の遠吠えが響き渡った。音を立てて吹いていた風がいきなり止んだと思えば、篝火の一本一本が再びパチパチと燃え盛り始めた。

 明るくなった視界の真ん中に、白く光るものが見えた。

「あ……」

「見事。化けておらなんだら瀬戸内まで飛んでおったであろうな」

 熊ほどもある銀狼が牙を見せて笑っていた。フサフサの毛が月光を浴びて神々しいほどに輝いている。

「隠神流化術最大奥義、大神」

 蒼星が囁いた。「……おれの目標だ」

「天狗との仕合は心が踊ったものよ。我が喉笛を噛みちぎるか、または顎を裂かれるか……奴らは頭に血がのぼると加減を忘れるからな。癇癪とは奴らのために作られたような言葉よ」

 ナイフのように鋭い犬歯が光る。「天狗よ、久方ぶりに手合わせ願おう」

「あの、お婆様。この子にはもう戦う力は――」

「分かっておる。我はここから一歩も動かぬ。一太刀浴びせればそなたの勝利としよう」

 大神は青藍を見下ろすように頭を上げた。叡智と暴威を同時に宿したような銀狼の瞳が、まっすぐに青藍を射抜いた。

 地面を蹴って飛び上がろうとした。だが、膝が笑って力が入らない。立っているのも辛くなってきた。蒼星と戦った疲労のせいではない。天狗になりきって激らせてきた激情が、闘争心が、巨大な手に握り潰されたかのように萎みきっていた。とめどない汗が額から頬を伝う。

 張り詰めた空気の中で、青藍は悟った。

 わたしは目の前の存在を畏れている。勝てないと悟ってしまっている。

「……まだ修行の余地があるな、天狗の青藍よ」

 ふっと力が抜けた。羽扇が落ち、煙と消えた。


       10


「正月ではないけれど、お餅を食べましょう。力が出ますからね」

 客間の濡れ縁で、玲子が鼻歌を唄いながらせっせと湯気の立つ餅を皿に分けている。餅は先ほど牛頭馬頭のコンビが臼杵でぺったんぺったんしたつきたてだ。地獄のようにいい香りが鼻腔を満たし、空腹をいっそう刺激する。

「わたし、お餅大好きです。蜂蜜とバターと黒胡椒で食べるのが好きなんです」

「……その食べ方、旨いのか?」

「めっちゃ美味いよ。あ、納豆とネギと黒胡椒もかなりオススメ」

「青藍ちゃんはすごいわねえ。わたし、きな粉か砂糖醤油しか知らないわよ」

「全部動画サイトにあるやつですよ」

 今をときめく料理研究家のレシピだ。だから自分の手柄ではない。でも、美味けりゃなんでもいい。

 蒼星が席を立った。

「あら、どこに行くの蒼星?」

「納豆と胡椒を取ってきます」

「はちみつとバターもよろしく」

 彼は小さく右手を挙げて部屋を出ていった。

「――明日出立かぁ、寂しくなるわねえ」

 割烹着姿の玲子が寂しそうに笑った。昨日の激戦を鑑みて一日休みを設け、明日滋賀に戻ることになったのだ。

 遅くなりましたが、明日刑部様と共に帰ります――今朝父にそう伝えると、彼は「そうか」とだけ言い残して電話口から離れた。しばらくして母が出て、「父さんは会話にならないから、とりあえず新幹線の時間を教えて」と冷めた口調で訊いてきた。

 蒼星が胸にバターやら蜂蜜の入った瓶やらを抱えて戻ってきた。もう我慢の限界だ。ケースを受け取り、適当な大きさに切られたバターを熱々の餅に乗せる。じんわり溶けるそいつを餅に塗りつつ、蜂蜜をたっぷりかけて黒胡椒をかければ完成だ。

「美味しいっ」

 湯気の立つ餅の旨みを甘じょっぱさが包みこみ、濃厚な味が口の中でほっぺたを落とす勢いで弾ける。こんなに美味しい餅は食べたことがない。

「はい、お婆様。くれぐれもよく噛んでくださいね」

 玲子が隅で酒を飲む刑部に餅を渡した。

「年寄り扱いするでない」

「お婆様、老若男女問わず無理と餅は禁物です」

 刑部が渋面で餅を受け取った時、青藍は二個目の蜂蜜バター餅を作り始めていた。

「……よく食うな」

 蒼星が納豆をかき混ぜながらじろりと青藍を一瞥してきた。

「今日は誰がなんといおうとチートデイだから」歌うようにいいながら二個目を作る。「ま、滋賀に帰っても運動はちゃんとするよ。この通り効果もあったしね」

 彼は納得したように頷くと、納豆をかき混ぜ、餅にかけて豪快に食った。咀嚼し飲み下したあと、驚いたように皿を見て呟いた。

「うまいな、これ」


 出立前夜の宴会で膨れきったお腹をさすっていると、「入るぞ」という声がした。刑部は手に桐の箱を抱えていた。

「百人抜きの記念品だ」

 箱を台に置いて胡座をかく。「開けてみよ」

 天狗に化けておそるおそる蓋を取ると、中には一見何の変哲もない、スペードの形をした葉っぱが一枚入っていた。濃い緑色のそれはさっき採ってきたかのような瑞々しさを保っている。驚きが心を満たし、しばらく思考が止まった。

「昭和二九年、我が隠神百鬼夜行衆を創始せし時だ」

 刑部は滔々と語る。「父が百人抜きを達成した者に授けよ、その者狸の未来を背負って立つに値する者ぞと、この葉を我に託した。以来七〇年、ようやく渡す者が現れた」

「こんな貴重なものをいいんでしょうか? 連続で勝ち抜いたわけでもないのに」

「ひと月以内に勝ち抜けと言い渡したのは我だ。そなたには受け取る権利がある」

 ごくり、と唾を飲んだ。緊張感で総毛がピリピリしてくる。

万葉(まんよう)の葉……」

 瞬きを繰り返した。「初めて見ました」

 歴史書『化獣史』によれば、まだ人間への擬態を始めて間もない頃の化け狸と妖狐は、未熟な化け術を補うためこの葉っぱの力を借りていたという。それが「あらゆるもの」を意味する「万葉」の名を冠した、不可思議な木から採れる葉である。

「万葉」は自身の芽吹いた場所が杉林なら杉、檜ならば檜に化けたまま一生を終えるといわれている。それが本物(オリジナル)万葉(ミミック)であるかどうかを判断するのはほぼ不可能とされ、環境変化の中で絶滅したのか、あるいは見分けがつかないだけで今なお生き残っているのかは誰にもわからない。

「万葉は他の木に化けるんでしょう? ご初代はどうやって見分けを……」

「山や森でのみ暮らす者は、匂いで本物か万葉かが分かるらしい。しかし一度人間界に下りると、人と飯のにおいで鼻が狂い、微細な緑の匂いを嗅ぎ分けられなくなる……父はそういっていたな」

 今の化獣が、林野の荒廃した日本で万葉を探し当てるのはほぼ不可能だろうと刑部はいった。

「ともあれ、万葉が持つ擬態の力は、化獣に備わる変化の力を活性増幅する作用がある。まだ術が未熟であった我らの先祖が葉っぱの力を借りていたのはそのためだ。神通力はあれど不器用なそなたにも有用であろう」

「これを頭に乗せるんですよね?」

「それでもいいが、もし失くしたらしまいであろう?」

 彼女はいうと、青藍に右手を伸ばしてきた。

「急須を寄越せ」

 そばにあった急須を渡すと、刑部は躊躇いもなく葉っぱをその中に押し込み、ポットでお湯を注いだ。馴染ませるように何度か急須を回し、盆に置かれた湯呑みに茶をなみなみ注いで青藍の前に置いた。

化茶ばけちゃだ。飲め」

「色々早すぎますってっ」

 理解が追いつかないまま湯呑みを覗き込む。世界で一つだけのお茶は、普通の緑茶と同じ黄緑色をしている。千変万化の力を宿した液体とはとても思えない。

「案ずるな。これが万葉の力を取り込むに最も効率の良いやり方なのだ。我も飲んだことがある」

 家督を譲られた頃だ、と刑部は懐かしそうに目を細めた。「さあ、飲め。そなただけが飲み干す権利のある一杯だ」

「い、いただきます……」

 深呼吸し、両手で熱い湯呑みを持って一口啜った。渋味と苦味が口の中で爆発した。

「ヴェッ」

 散々食わされた丸薬を飲み物にしたような味。思わず刑部に向かって噴き出しそうになったのを堪え、一旦湯呑みを置く。

「渋柿を煮詰めたような味であろう。流石の我もあの時は辟易した」

「これを飲み干すんですかぁ……」

 泣き言が漏れる。それぐらい飲むことを身体が拒否する味だ。青汁なんかとは比べ物にならない。あれが飲料なら、これは廃液だ。主成分は「変化」じゃなくてタンニンじゃないのか。

「これが我にできる最大の助力だ」

 刑部は涼しい顔で腕を組む。「天狗として山にこもるつもりならば飲まずとも良いが」

「意地悪言わないでくださいよ」

 袖を拭った。「――ええい、飲んだりますよお茶如き!」

 青藍は湯呑みに向かって羽扇でちょっぴり仰いだ。ほのかな風が湯気を吹き飛ばしていった。ほどよく冷えた湯呑みを持って「どうぞご照覧あれ!」と、自分でもわけのわからないことをいいながらぐいと傾けた。


 天狗の娘は何度もえづきそうになりながら、ぐいと最後の一滴まで飲み干した。軟弱に見えて根性のあるやつだ、と隠神刑部は改めて思った。四の五のいいつつも、喰らいつく時はとことん喰らいつく娘だ。

「……ごちそうさまです」

 青藍は空になった湯呑みを置いた。頭痛と吐き気に襲われているのか、顔は青白く、二日酔いに苛まれる酒飲みの如くげっそりしている。全身の細胞が急激な活性化を始めたせいだろう。

「よし」

 刑部は立つと入り口まで下がった。

「立て。己に相応しいヒトを思い浮かべ、化けると念じよ」

 青藍は頭を抑えながら立ち上がる。

「ヒトに……わたしに相応しい美少女に……」

 案外厚かましいやつだな、と刑部は心の中でごちた。

「天狗をベースに……ぱっちり二重で睫毛は長くて、髪はつやつやしたロングで、肌はもちもちで、手足は長くて、細いけど出るとこは出て、胸は今より大きく――」

 うわ言をボソボソ呟いていた天狗は、突如目をかっ開いた。甲高く「きた!」と叫ぶと、乱暴に足踏みした。

 ポン、と聞き馴染んだ音と共に化煙が溢れ、天狗を覆い隠した。たちまち、部屋は喫煙所のごとく白く霞んでいった。

 刑部は口と鼻を袖で押さえた。やはり、煙の量が尋常でない。それだけ神通力に恵まれている証なのだが、ではなぜここまで化け下手なのか、化け狸の生き字引を自認する彼女にも皆目見当がつかなかった。

「面白いやつめ」

 さしもの彼女も、そう苦笑いするしかなかった。

 やがて、れっきとした人間の影が煙の中に浮かび上がった。しなやかな曲線を描くそれを見るに、無事年相応の女に化けられたのだろう。

 煙が消えていく。やはり、そこには人間の少女に化けた青藍がいた。刑部は「ほう」と感心した。

 欲張りなうわ言は全部盛り込まれたらしい。腰まで伸びた青藍色の髪、陶器のように白い肌、二重の目は明るく睫毛は長い。輪郭は天狗姿と比べやや丸いが、ほんのりと朱のさした頬は愛嬌がある。鼻筋の通った顔立ちは、西洋の人形を思わせた。

 器量の良い狸は自然と整った顔立ちの人間に化けられる、というのは大正の時代から生きる彼女が実感としていることの一つだ。青藍の化け姿はある種の道理だと刑部は感じた。随分時間はかかったが、この娘はようやく化けるべき姿に化けたのだ。

「できました……やっと」

 天狗よりも高く澄んだ声は、微かにうち震えていた。

「それがヒトとしてのそなただ、観音寺青藍」

「どうですか、刑部様?」

 青藍は照れくさそうに右手で左の腕をさする。「天狗と似ているようで、感覚が全然違いますね。これが人間なんだ……」

 夢みたい、と彼女は目を閉じて感慨に浸った。目から雫が一筋伝う。

 そのまま万感の思いにに浸らせてやっても良かったが、一言付け加えておくことにした。

「そなたは本当に面白い狸であるな、良くも悪くも」

「え?」

 刑部は部屋の隅にある姿見を彼女の前に置いてやった。


       11      


 この日、観音寺藍はろくに寝つけないまま朝を迎えた。今日は松山に行った娘が帰ってくる日だった。

 結局六時前にベッドから抜け、寝不足でぼおっとする頭をコーヒーとポッドキャストラジオでどうにか冴えさせた。

 小一時間ほどそうやって過ごしていると、夫と息子が欠伸を噛み殺しながらリビングに入ってきた。朝食は各々が食べたいものを用意するのが観音寺家の決まりだ。藍は息子が山盛りの丼飯を食べている間に、弁当と間食のおにぎりを準備した。前日に予約炊飯した米を、重箱のようなタッパーに限界までよそい、玉ねぎタレに漬け込んだ鶏胸肉や卵五個分の卵焼き、ブロッコリーなどを詰めていく。人間界の物価高騰に加え、上もよく食べるから、毎月の食費は馬鹿にならない。

 生徒数をもう少し増やさなければと思いながら、作った弁当を息子に手渡した。部活のオフ日である青雲は、「全速力で帰ってきます」とだけ告げ、らしくもなくそわそわしながら出かけていった。

 夫に至っては上の空だった。魂の抜けたような顔で何も塗っていないトーストをボソボソ食べ、逆さまになった新聞紙を広げ、挙句膝に紅茶をこぼした。

「あなたねえ」

 藍は呆れながら夫に布巾を放った。「結婚相手を連れてくるってわけでもあるまいし」

「いや、あいつもついに化けられるようになったんだなと思うと、つい気が抜けて……」

 膝を拭いながら三郎は苦笑した。「にしても、隠神百鬼夜行衆に勝利か。信じられんな」

「刑部様も無茶をなさるわ」

 親としてはすごいことを成した喜びよりも、過酷な修行に身を置いていたことに肝を冷やす。よく眠れなかったのは昨日だけの話ではない。

「……どんな化け姿なんだろうな」

「わたし、少し見るのが怖いわ」

「大丈夫さ。君に似た美人に決まってる」

「そうじゃなくて」

 言葉を切った。気持ちを宥めるために今日二杯目のコーヒーを啜った。黒い液体を見つめながら呟いた。

「夢みたいなの」


 夕方の京都駅はさも当然のように混雑していた。サラリーマンが大勢行き来する中、スーツケースを引く外国人観光客の数に舌を巻く。ここに比べたら、滋賀は随分と平和なものだ。

 大津駅でなく京都を迎えの場所に指定したのは、客人である刑部に手間を取らせないためもあるが、本音は弩級の箱入り娘と大正生まれの老婦人に乗り換えをさせないためでもあった。間違えて姫路方面に行かれたら目も当てられない。

 出迎えには観音寺家の三人が行くことになった。夫曰く、隠神刑部が来るということで当初は一門総出で歓迎しようという話も出たが、「大仰な出迎えは不要」と先方から連絡があり、結局頭領とその家族が迎えにいく形で落ち着いたらしい。

「もうそろそろのはずだが」

 夫はしきりに腕時計を覗く。藍も釣られるようにスマートウォッチを確認した。午後七時十分前。時刻表通りなら、五分前には「のぞみ」が到着しているはずだ。

「三郎」

 藍は低い声で囁いた。「頭領らしく」

「あ、ああ……そうだな」

 彼はそわそわとネクタイの結び目に手をつけたが、なってない。藍はさっと直してやった。

「あっ」と青雲が何かに気づき、つま先立ちになった。

「母上、あちらでは?」

 人混みの中に、埋没しようにもしきれない個性的なトリオがスーツケースを引いて改札に向かっているのが見えた。

 中央の一人は白髪を結い、黒の着物に身を包んだ艶やかな女性、その右に青雲と同じくらいの年恰好をした少年。まだ五月だが半袖だ。

 もう一人――藍色(インディゴ)のロングヘアを靡かせる少女が、周囲を興味深そうに見回しながら歩いていた。高校生にも大学生にも見える。明るい水色のワンピースと白いジャケットが爽やかな印象を与える。グレージュのパンプスを履いて歩く姿はややぎこちない。

 藍は立ち尽くした。心臓が耳のすぐ後ろで鳴り響いているようだった。今見ているこの光景が夢としか思えなかった。そのくせ、あのワンピースならキャメルやグレーのトップスも似合うだろうとか、髪色に合わせて藤色や茜色も面白いかもしれないと、妙なことを考えている。

 娘とブティックを覗いて、ああでもないと言いながら服を選ぶ――固まった思考の中で、心の奥にしまいこんでいた夢が蘇っていた。

 三人はさして問題もなく改札を抜けると、こちらに近づいてきた。

「刑部様、ご無沙汰をしております」

 三郎が低頭した。声が震えなかったのは上出来だろう。

「この度はわざわざのお越し、誠にありがたく存じます。我ら近江狸一門、心より歓迎の意を表します。何卒ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます」

「久しいな、龍よ」

 刑部は少年に顎をしゃくった。「曾孫だ。一番戦力になるのを連れてきた。いくらかは役に立とう」

 少年が頭を下げる。

「……勝山蒼星です」

 三郎は彼に右手を差し出した。蒼星少年がそれに応える。

「よろしく。娘から話は聞いているよ、色々世話になったね」

「とんでもありません」

「刑部様」

 藍は青雲と共に一歩進み出た。

「妻の藍と申します。この度は娘が大変お世話になりました……こちらは息子です」

 青雲が挨拶をする。刑部は軽く頷いた。

「そなたら、随分化けるのが上手いな。人の姿が様になっておる」

「故あって、普段は人として暮らしておりますので」

「板についておるようだが、狸であることを忘れずにな」

 刑部は少し微笑んでから、後ろに顎をしゃくった。

「……まあ、娘もなかなかのものになったぞ」

 彼女の斜め後ろで、藍色の髪の少女が歯にかんだ。

 また脚が動かなくなった。その隣で、息子がフラフラと吸い寄せられるように歩いていく。

「……姉上ですか?」

 青雲の声はうわずっていた。口がわなないている。

 いきなり少女が走り出し、彼に抱きついた。通行人が何事かといった様子で二人を見た。

 隣から嗚咽が聞こえてきた。聞こえないふりをして、藍は子供たちを見守った。

 

「今までありがとう」

 ぎゅっと弟を抱きしめながら青藍はいった。「姉ちゃん、あんたの言葉にずっと励まされてきたよ」

「信じてましたから」

 青雲は肩をふるわせている。今日ばかりは、生意気なこいつも素直だなと青藍は思った。

 それにしても、これがハグというものか。互いの体温が伝わり、温かい気持ちがお腹の辺りからふつふつと湧いてくる。生まれた時からこれをできる人間のなんと羨ましいことか。

 弟を離した。彼はぷいと背を向けると、静かにハンカチを目に当てた。見て見ぬふりをしてやることにして、父に近づいた。

「青藍、良かったな……」

 父は決壊したダムのようだった。精一杯笑顔を浮かべているが、条件反射で涙と鼻水が溢れてきている。あまりにあんまりな姿に、でかけた涙が引っ込んでしまった。

「父様、今までご迷惑をおかけしました」

「いいんだ、いいんだ、そんなこと……」

「今までの分、これからは父様のお役にきっと立ちますから」

 父は何度も首を振った。涙がポタポタ地面に落ちる。服が汚れないよう控えめにハグを交わすと、隣にいる天敵と向き直った。

 不思議な感覚だった。見上げるしかなかった母と今、同じ目線で見つめあっている。

 恐さはない。もちろん本気で怒ると恐ろしいなんてもんじゃなかったが、やっぱり自分が必要以上に恐れていただけだったのだろう。

 そんな我が母は、この期に及んでも表情を崩さないでいた。香水は控えめだった。かすかに狸の――母の匂いを感じた。

「おかえりなさい、青藍」

 小さく母はいった。微かに口角が上がっている以外は、喜んでいるのか、特に何も感じていないのか、表情が読み取れそうで読み取れない。

「ただいま帰りました、母様」

 まだ慣れない髪をかき上げる。「いかがですか、この化け姿?」

 母の視線が上から下に動いた。

「……膝丈が短いのではない?」

 ワンピースは大腿の半分ほどしかなかった。青藍は「ですよね」と肩をすくめて、裾を摘んでみせた。

「実はこれ、本物の服なんです。ジャケットもパンプスも、全部彼のお母さんに頂きました」

 蒼星の方に目をやった。同年代同士、青雲と何かを話している。

「どうにか人には化けられるようになったんですが、今度は服を再現できなくて……ほんと不器用ですよね、わたしって」

 初めて化けた日の夜、服込みで化けられないと聞いた玲子が、洋服と下着を持って客間に駆けつけた。いろんな雌狸も顔を出し、ちょっとしたファッションショーが始まった。とはいえ、人に化ける時は服ごと化ける者ばかりだそうで、衣服の殆どは玲子がお洒落に情熱を注いでいた九十年代の物ばかりだった。「若い子に着てもらった方が服も喜ぶから」と、今履いているパンプスはもちろん、未着用だという下着からイヤリングまで譲られた。

「じゃあ、服を買いに行かないと。一張羅ってことなんでしょう?」

「いいんですか?」

「必要なものは買わないと」

 顔が綻ぶ。お店で買い物――ずっと夢だった。近くには大きなショップモールやアウトレットもある。

「楽しみにしてます。母様とお買い物するの」

 母は意外だという顔をした。

「無理しなくていいのよ。青雲や父さんと行ってもいいし」

「下着売り場に男を連れて行けますか?」

「それはそうだけど……」

「それに、無理とかじゃないんです。母様と行きたいんです。だって……」

 本当は母様に憧れてましたから――そこまでは素直になれなかった。

「もう母様に持ち上げられることはありませんから」

 代わりの言葉が口をついて出た。

 唐突に母が手を伸ばしてきて、首の後ろに手を回してきた。うなじを触られる。

「本当、もうつまめないわ」

「なんですかそれ」

 何かいってやろうとしたが、すぐに思考が吹き飛んだ。

 母が笑った。こんな顔をして自分に笑いかける母を、本当に、久しぶりに見た。

 彼女の細くなった目の隙間から、一筋光るものが溢れた。

 身体の中で何かが爆発した。

 ワッと抱きついた。ずっと冷たいと思っていた母は、随分と温かいものだった。

 背中を撫でられた。青藍は泣き出した。

 消え入るような声――謝罪の言葉だった。青藍は首を振った。幼児のように泣き続けた。

第一部完となります。ここまでご覧いただきありがとうございました。

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