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#4 I can do better

       5


 三日後。

 体がふわりと浮く感覚で目が覚めた。アナウンスが目的地に着いたことを知らせてくる。ボストンバックの隙間から覗き見ると、駅のプラットフォームと停車中の特急が見えた。

 佐和山絵理が自分を運びながら、階下へ降りていく。

「着いたっぽいね」

 青藍は小さな声でいった。

「流石に長旅だったね。ヒメ、大丈夫? 酔わなかった?」

「平気、たっぷり眠れたから」

「あはは。さすが近江の眠り姫」

「絵理姉までそんなこといって」

 しかめっ面を作るとと、絵理はカラカラと笑った。

「褒めてんだって。どこでも寝られるのは羨ましいよ、あたしなんて、自分の枕がないと眠れないタチだし」

 もういいだろう、と思って顔を出した。左を見上げると、いつもの女子大生風に化けた絵理がにこりと微笑んでいた。明るい茶髪が似合っている。

「顔出しといてなんだけど、怪しまれてない?」

 きょろきょろしながら訊いた。周りの人間の多くはスマホに目を落としている。

「全然。犬にしか見えんよ」

「失敬な」

 軽口を叩きつつも、付き添いが絵理で良かったと思った。いわゆる近所のお姉さんである彼女は、数少ない青藍の狸の友人でもあった。あっけらかんとして細かいところを気にしない性質はリンと共通する。だから化けられない青藍でも気にせず、内面を見てくれるのだ。「ヒメ」というあだ名はちょっとやめてほしいが。

 改札を抜けると、すぐに出口があった。正面はタクシー乗り場となっており、白タクが数台列を作っている。

 青藍は周りを見回した。四国はもちろん生まれて初めてだ。匂いを嗅ぐと、地元とはどことなく違う空気を感じる。知らない街に来たんだという実感が急速に湧いてきた。

「ええと、迎えが来るって話だけど――」

 絵理はバス乗り場の方へ向かった。乗り場を避けるように、黒のミニバンが一台ハザードを焚いて停まっていた。傍で髪の長い女性と背の高い少年が佇んでいる。

 女性の目が自分を見とめた。彼女は「あっ」と口を開いた。それが互いが互いの目的の人物だと知る合図になった。

「勝山さんですか?」

 絵理が訊く。女性は頷いて、

「隠神一家の勝山玲子です。ようこそ松山へ」

 二人は丁寧に頭を下げた。親子なのだろう、纏う匂いがなんとなく似ている。

「息子です。ほら、挨拶なさい」

「……ソウセイです」

 少年は、ギリギリ聞き取れる声でボソリといった。まだ五月だが、カーゴパンツにシャツ一枚の化け姿は陽に焼けてがっしりとしている。年恰好は青雲くらいか。

「へえ、ソウセイ君。どういう字を書くの?」

 エリが微笑みながら訊ねた。

「……草冠に倉、夜空の星」

 どうやら蒼星君はあまり口数は多い方ではないらしい。玲子が苦笑して頭を下げる。

「蒼い星かあ、かっこいいね! あたしはフッツーの名前だから羨ましいわ」

「あなたが付き添い人の方かしら?」

「はい、近江狸一門の佐和山絵理と申します。そしてこっちが――」

「観音寺青藍です。この度はお世話になります」

 ボストンバックから身を乗り出して会釈をした。玲子は身を屈めて青藍と目線を合わせた。手を差し出されたので右の前脚を出すと、ふんわりした手のひらに包まれた。

「あなたが青藍さんね。家中でもあなたの噂で持ちきりなのよ。天狗に化ける狸が現れたって」

 玲子は上品に微笑む。母とは違う歳の重ね方をしているなあ、とわけもなく思う。

「立ち話もなんですから、早速行きましょう。どうぞ、お乗りください」

 玲子はミニバンのドアを開けた。


 本通りの真ん中を路面電車が走り、前方には松山城を戴く城山がそびえている。

「まさに城下町ね」

「街のど真ん中に山と城があるなんて」

 青藍と絵理は口々に感想を述べた。

「皆さんは、今もあの山に住んでおられるのですか?」

 絵理が運転席に向かって訊いた。

「まあ、隠れてね」

 ステアリングを操作しながら玲子が答える。「それこそ初代の時代はね、狸まんまの姿で堂々街にも出てたみたいだけど、今は化獣を知る人間なんていないし、それにほら、外国の人は狸自体が珍しいじゃない」

「ああ、うちもそうです。特に京都は観光客との間で苦労が多いみたいで」

「京都は大変でしょうねえ……」

「愛媛といえば、あたし、石鎚山に登ってみたいんですよねえ」

「あら、天狗岳に?」

「はい。一応登山道具も持ってきたんですよね」

「相変わらず山好きだね」

 口を挟むと、絵理は快活に笑った。

「良いもんだよ。しんどいのを乗り越えた先に見れる絶景と澄んだ空気ってのは」

 取り止めのない話をしながらミニバンは市役所を通り過ぎ、やがて山の隙間を縫うような路地へ入った。

「東雲口っていうメインの道があるんだけど、あそこは観光客がすごいから、随分前から使わないようになってるの。狸用はこっちから」

 ミニバンは駐車場を通り過ぎ、車線のない公園と山の間を貫く細い道を進んだ。やがて人気のない場所までくると、玲子はガードレールの傍に車を停めた。

「ここですか?」

「ええ。一旦降りていただける?」

 いわれるまま、絵理と青藍は車から降りた。周りは柵で区切られた空き地があり、ガードレールの先は生い茂った雑木林が人の行手を阻んでいる。よく晴れているにも関わらずどことなく感じる薄暗さは、まさに狸のねぐらを想起させた。

「人間はなし……今よ」

 玲子があたりを見回してうなずくと、化煙がもうもうと立ち上った。

「うわ」

 ミニバンが消え、代わりに右目に傷のある雄狸がふうと息を吐いた。

「運転が荒いぞ。客人を乗せているんだから」

「うるさいわね」

「ば、化けてたんですか?」

 青藍に気づいた狸はぺこりと頭を下げた。

「これは失敬、隠神一家の勝山次郎と申します」

 いって、玲子を見やった。「こいつの兄ですわ」

「偽汽車ならぬ偽自動車ってわけね。すごいなあ」

 絵理が嘆息すると、勝山次郎は誇らしげに胸を反らした。

「これも隠神流化術の成せる業。青藍殿もご滞在中に、ぜひ磨いていただきたい」

「ここからは少し歩くわ。もう少し辛抱してくださいね」

 皆化けの皮を剥ぎ、草木の隙間に分け入った。玲子を先頭に計五頭の狸が、のそのそとトンネルのようなけもの道を進んでいく。なるほど、これなら人間は物理的にも精神的にも入れない。息を吸い込むと、濃密な自然のにおいが鼻腔を満たした。

「こんなとこで聞くのもなんだけど、滋賀は今のところ大丈夫ですか?」

 玲子が振り返らずに訊いてきた。「突然狐に襲撃されたとか」

「はい。今は特に何もないんですけど」

 あれからもう二週間以上が経つが、狐に襲われた時の記憶は少しも色褪せることがない。

「うちでも噂になっております。口さがないものは『令和の狐狸合戦が起きるんじゃないか』と申す者もおりますわ」

「流石に戦争にはならないと思います。父も、向こうの頭領も戦を望むような者ではありませんし」

「しかしそれとは別に、もし大事になった時のことを考えて君をここに来させたと」

 最後尾を歩く勝山次郎が口を挟む。

「わたし一匹鍛えたところで、どうかなるとは思えないんですけどね」

「天狗に化けられるわけでしょう。うまくモノにすればそれこそ一騎当千だ」

「わたしは戦争なんて起きてほしくないです」

 きっぱり答える。「狐には友達もいますから」

「……狐に友達が?」

 ボソリとした声が前から聞こえた。

「うん、とてもいい子なんだよ」

 天狗に化けてリンと喧嘩――そんな未来が待っているなら化けられない方がマシだ。

 やがて、あたりがパッと明るくなったかと思うと、四方を森に囲まれた広場に出た。青藍は思わず面食らった。

 開けた場所にいきなり大名屋敷のような館がでんと鎮座していた。正面には詰所があり、奥には櫓まで建っている。どこからが庭でどこからが森なのか境界線が曖昧だ。縁側や庭で、化けている狸やそのままの狸が思い思いに過ごしている。

 ここ全体が、狸の縄張りと住処なのだ。宇佐山とはスケールが違う。

「ここは初代が松山藩ご当主から頂いたお屋敷でね、隠神一家の大半はここに住んでいるのよ」

「増改築を繰り返してちょいと不格好なのが玉に瑕だがな。まあ中は広くて快適だ。小松島の金長神社に並ぶ四国狸の砦だ」

 再び人間に化けた二人の口ぶりは誇らしげだった。

「兄さん、絵理さんを客間にご案内して。わたしは彼女をお祖母様の元に連れて行くから」

「ああ……では佐和山さん、こちらへ」

「じゃあ青藍、またあとでね」

「うん、ありがとう」

「どういたまして」

 二人を見送ると、玲子が振り返った。

「青藍さん、早速だけどうちの主に会ってもらえるかしら? きっと首を長くしているだろうから」


 板廊下を歩きながら、あの夜の記憶が蘇ってきた。

 家族で焼肉を平らげた夕食後、青藍はリビングのソファで父と向き合っていた。父はどこか硬い表情で焼酎の入ったグラスを握り込んでいた。

「青藍、隠神刑部を知っているな」

 もちろんです、と首肯した。隠神刑部を知らない狸は存在しない。日本三名狸の一角にして、屈指の大妖怪。松山八〇八狸の総大将。

「おまえが天狗に化けたことを書いたら、興味を持ってもらえてな。修行をつけてやるといってくださった。あの人がそんなことをいうなんて珍しい。化け術を磨く、またとない機会だ」

「その修行をこなせば、わたしでも化けられるようになるのでしょうか?」

「二代目は狸の生き字引だ。きっとなんとかしてくださる」

 父は力を込めていい、ごほんと空咳をした。「実は、行ってほしい理由はもう一つあるんだ。二代目には助っ人をお願いしていてな」

「助っ人?」

「あの人は戦争を知る数少ない狸だから、うちの若いのに指導をして欲しいと頼んだんだ」

 戦慣れしていない今の狸たちに、戦い方と身の守り方に関する化け術を教えたい、と父は話した。

「返事はなんと?」

「天狗がどれほどの力を持つか見てから決めたい、と書いてあった」

「わたしに力がなければ手は貸さないと?」

「自分の認める者以外には付き合わない……そういう人なんだ」

 すなわち、自分にかかっているらしかった。途端に不安が押し寄せてくる。

「父様はあの人とはお知り合いなんですか?」

「若い頃に、一度な」

 父は不器用に笑うと、グラスを傾けた。氷が鳴る。

「……今は狐も動きはないが、今後どうなるかはわからない。正直、化けられない狸は危険だ。だが松山なら連中も手出しはできない」

 つまり、一触即発の滋賀に留まるより、松山に居ればその間の安全は担保される。その上で化け術を身につければ、自分の安全も守れるようになる。父は二重三重の考えのもと、この話を持ちかけたのだ。それが分かれば、断る道理はなかった。

「わかりました」

 青藍は背筋を伸ばした。「行ってきます。隠神刑部を満足させられるかは自信がないですけど」

「心配するな」

 父はグラスを置き、娘に笑いかけた。

「おまえは現に化けたんだ。しかもあの天狗サマだ。おれだって真似できやしない。青藍、おまえは絶対に大丈夫だ」

 決まってからは早かった。世間がゴールデンウィークを迎える中、青藍は旅行客に混ざってこの松山に足を踏み入れた。 

 生来、一門や家のために何もできることがなかった自分にも、ようやく務めなければならない時が来たということだろう。その果てに念願の力を手にすることができるのであれば、それは自分にとっても願ったりな話だ。

 やり抜こうと心に決めた。自分のため、そして送り出してくれた父のために。

「さあ、どうぞ」

 促され、だだっ広い広間に通された。青畳の匂いがほのかに香る。

「刑部はすぐに参ります。そちらに座って待っていてね」

 青藍はいわれるまま、下座の方にちょこんと座った。太秦の撮影所に入り込んだかのような気分に襲われる。この空間だけ、時が江戸時代から止まっているようだ。

 青藍はキョロキョロと室内を見回した。主上座には「千変万化」と書かれた掛け軸と刀置き、肘置きが置かれている。年季の入った柱や畳からは時の流れを想起させるが、部屋は塵と抜け毛一つなく、ピカピカしている。掃除が行き届いているのだ。

 刀掛けの奥の壁は屏風絵になっていた。岸壁に立った銀狼が月に向かって吠えている。今にも飛び出してきそうな迫力だ。

 見惚れていると、襖の開く音がした。青藍は咄嗟に平伏した。衣擦れの音が止み、誰かが座る音がした。

「畏まらずともよい、おもてをあげよ」

 ハスキーな女性の声が告げた。青藍は息を吸い込んだ。

「近江狸一門、観音寺家が長女、青藍と申します。此度は、かくも名高き隠神刑部様にお目通叶い、光栄に存じます」

 事前に練習した挨拶を一息にいった。顔を上げる。

 襦袢に暗い色の羽織を着た女性が、胡座をかいてこちらを見据えていた。腰まで届く髪は老婆のように真っ白だが、容貌はせいぜい四十代にしか見えなかった。皺は目立たず、肌にはしっかり張りがある。神通力も強すぎると老化にまで影響を及ぼすらしい。

「隠神一家二代目、隠神刑部である。長旅、ご苦労であった」

 鋭い目に引き締まった体躯、狸というより狼のような女性だ。

「お招きにあずかり、ありがたく存じます」

「父は息災であるか?」

「おかげさまで……父とはお知り合いだったみたいで」

「律儀な男だ。たった一度出会っただけだが、盆暮の挨拶は必ず寄こす」

 刑部は鋭い目で青藍を観察する。「あまり父には似ておらぬな」

「よくおわれます」

 曖昧に笑う。親戚には「耳の形がお父さんそっくり」とかいわれることもあるが、耳の形などみんなだいたい同じだ。

「ことの次第はだいたい把握しておる。天狗に化けたそうだな」

「一度きりですが」

「どうやって化けた?」

「わかりません、無我夢中だったもので……その時は、ライオンに化けた狐に襲われて、咄嗟に思い浮かんだのが天狗だったんです」

 刑部の目の奥が光った気がした。

「天狗を見たことはあるのか?」

「あります。皆信じてはくれませんが、間違いなく」

 刑部は小さく唸り、肘掛けに置いた右手を顎に当てた。

「我も久しく天狗は見ていない。張りぼてでももう一度見られるなら、僥倖というものだ」

 そういって、彼女はすっくと立ち上がった。中々の長身だった。

「ついてこい」


 屋敷から歩いて五分ほど、森の中に大きな広場があった。長方形の白土の広場が山林の中にぽっかり広がり、周囲を竹柵が取り囲んでいる。広場の左手には庵があった。扉はすべて開け放たれており、畳部屋が見える。

「ここは我が一家の修練場だ」

 刑部がいった。「その昔、隠神一家は久万山の岩屋に住んでいた。我らは代々の松山藩主と盟約を結び松山城を守護していたが、御家騒動で我が父と八〇八の子分は山に封じ込められた」

「『松山騒動』ですね?」

 刑部はこちらを見ずに頷く。

「封じられた父と眷属を、生き延びていた我が救った。その後跡目を譲られ、戦える集団を作ることにした。二度と封印の憂き目に遭わぬようにな」

 修練場の中央で、蒼星が待っていた。彼は刑部に紙の包みを渡すと、庵の方へ小走りに去っていった。

「今すぐ天狗に化けられるか?」

 化けられそうな気配は微塵もなかった。正直に伝えると、彼女は「で、あろうな」と呟いた。

「長いこと化けておらぬと、身体が化け方を忘れる。ままあることだ」

 何かを思い出すように遠くに目をやる。

「化けるのを煩わしく思った者がいつの間にか化け方を忘れたという例もあれば、特定の物に化け続けた結果、戻れなくなったという話もある。よって、まずは変化へんげを身体に覚えさせることから始める必要がある」

 刑部は包みを開くと、しゃがんでそれを青藍に渡した。

「これを食え」

 草団子を思わせるものが一つ、彼女の掌の上に乗っていた。

「我が拵えた丸薬だ。一時的にだが、変化の力を増大させる効果がある。まともに化けられる者なら、意図せずして化けてしまうほどにな」

 においを嗅ぐ。無臭だった。前脚で受け取る。

「……いただきます」

 一口齧った――途端に涙が出てきた。味蕾が拒否反応を示した。

「ぼえっ」

 おぞましいほど苦い。挙句半端ないエグ味が飲み下すことを躊躇わせる。好き嫌いはないが、たった今嫌いなものができた。それぐらい不味い。

「不味いは承知、化けたくば全部食え」

 皿に乗った残りの丸薬と数秒見つめ合い、覚悟を終えて一息に口に入れた。噛み潰した瞬間に猛烈な苦味が涙腺を刺激した。すぐ飲み込む。

「食べました……」

 涙が出そうだ。甘いカフェオレで口の中を洗いたい。

「よし。すぐ変化が訪れるであろう」

「そんなにすぐ効果が出るのですか?」

 すると、今まで感じたことのない感覚が起きた。体の内側がポカポカというか、ムズムズする。心臓が鼓動を早め、ちっぽけな身体が瞬く間にエネルギーで満たされる。感覚が指先まで鋭敏に研ぎ澄まされている。

 今なら化けられる――本能がそう告げていた。

 深呼吸した。何度か繰り返し、最後に息を大きく吸った。一気に吐きながら右前脚で地面を踏んだ。

 一瞬意識が途切れた。気がついた時には、煙の中に佇む天狗がいた。青藍は変わり果てた己を見つめた。

 五本指の手。爪は切らずに数ヶ月放置したかのように長く、鋭利だ。右手に持つ羽扇からも不可思議な力を感じる。着物から覗く脚は雪のように白く、白足袋に高下駄を履いている。ほっそり引き締まった美脚だが、蹴り一つで土煙を起こせそうな気がしてくる。

 両手を握り込んだ。全身に力が漲っている。

「刑部様、顔を確認してみたいんですが……」

 刑部は懐から小さな手鏡を出した。礼をいって受け取り、鏡面を覗く。

「……これ、天狗なの?」

 一般に天狗といえば、赤ら顔に長鼻のイメージだが、鏡に映ったその女はショートヘアが涼やかな美女だった。どことなく母っぽくてむず痒い。鼻は高く筋が通ってこそすれ、ピノキオとは程遠い。

 後ろでばさりという音がした。振り向いたが、何もない。また後ろから羽ばたき。何度か間抜けな動作を繰り返し、ようやく背中にカラスのような翼があることに気づいた。どうやら天狗には違いないらしい。

「そなた、どんな天狗を見た?」

 刑部の口ぶりは若干呆れていた。

「幼い頃、遠くに見ただけですから……」

 あの時見た天狗の影――肩幅は狭く、くびれがあった。天狗と一口にいっても色々いるが、女天狗でも見たのだろうか。

「まあよい。試しにその羽扇を我に向けて仰いでみよ」

「え?」

「そなたの力がどれほどのものか、直に確かめてみたい。はよう構えよ」

 青藍は躊躇いつつ、数メートルほど下がって間合いをとった。扇を掲げる。

「いきますよ?」

「本気で参れ」

 刑部の目が鋭い光を放った。

 青藍は息を吸い、叫びながら扇を目一杯振るった。

 ごう、という音と共に突風が扇から発生した。後ろの木々が大きく揺れる。細枝は折れ、葉が落ちた。

 信じられなかった。今のを自分がやったのだ。

 しかし、もっと信じられないものを青藍は見た。

 刑部はまるでそよ風を受け止めるかのように、涼しげに突風の只中を立っていた。和服の袖と裾、髪が風で豪快になびいているが、身体は微動だにしていない。

 やがて、風が吹き止んだ。刑部はゆっくり眼を開けた。

「成りきれてはおらぬが、成程……悪くはない」

 そして、庵の方に向かって声を張り上げた。「ソウ、予定通りアレを行う。用意をするよう皆に伝えろ」

 遠目に、蒼星が屋敷の方へ駆けていくのが見えた。

「あの、アレとは?」

「急くな。いずれ分かる」

 なんとなく嫌な予感がするのは気のせいだろうか。


 賑やかな声に振り返った。数十匹の狸がわいわい喋りながら修練場の方へ入ってきた。老若男女様々いる。

「おうおう、本当に天狗サマがいらっしゃるよ」

「近江の龍の娘らしい」

「なるほど、匂いはあまり似てないが」

「そりゃ娘だから母似なんだろう」

「にしても天狗に化けられる狸にお目にかかれるとは」

「比叡山法正坊っていうらしい。さっきスマホで調べた」

「あれが? えらい別嬪じゃないの」

「天狗といえばひねくれジジイと相場が決まってるんじゃないのか?」

「それはおまえ、固定観念というやつだ。天狗サマにも老若男女さまざまいたって話だぞ」

 狸たちはやいのやいのいいながら青藍を取り囲んだ。中には尻を触ろうとするセクハラ親父もいる。

「こちらの方々は……?」

「隠神流化術の使い手たちよ」

 刑部は誇らしげに腕を組んだが、すぐに眦を吊り上げた。

「女子に気安く触るな、離れろ馬鹿どもっ」

 皆が一喝にビビって庵の軒先まで引っ込んだが、一匹だけ場に残った。ミニバンに化けて自分達を運んでくれた勝山次郎だった。

「知っておろうが、我はそなたの父から頼まれた。まず、娘を化けられるようにすること。そして有事に備え我に参って欲しいこと」

「はい、わたしからもお願い申し上げます」

「頼むのは好きにせよ。我は己が認める相手にしか手を貸さぬ」

 彼女は指を一本立てた。「青藍。ひと月で我が隠神家の修行を完遂せよ。それが唯一絶対の条件である」

 いきなり本題に入ったのだ。羽扇を握る手に力がこもる。

「――承知しました。必ずや、乗り越えてみせます」

「うむ、その意気やよし……一番手、前へ!」

 勝山次郎と向かい合った。車に化けていた頃の鷹揚な雰囲気はなく、傷のある顔が剣呑さをより醸し出している。

「かつてこの国には、数多くの妖怪が存在した。そなたが今化けておる天狗は、その頂点に君臨する存在だった」

 刑部がいう。「今、妖怪は我ら化獣を除いて滅んだが、我らは懐かしき連中の再現ができる」

 その言葉と共に、勝山次郎は印を結ぶかのように前脚を合わせた。

「隠神百鬼夜行衆一番手、唐傘の二郎、いざ参る」

 途端に化煙が満ち、次の瞬間には目のついた巨大な唐傘お化けがヒヒヒと長い舌を出していた。天狗となった青藍の背丈より遥かにでかい。

「えっ?」

「これが隠神一家の修行、『隠神百鬼夜行組手』である」

 刑部は重くいった。「観音寺青藍。我らが誇る『百鬼夜行衆』と戦い、見事百人抜きを達成せよ。さすれば、我がそなたを必ずヒトに化けさせてやる」

 その言葉が合図だったかのように、傘のお化けがぴょんと飛び上がった。宙返りをしたかと思うと、人に向けてはいけない部分を向けてミサイルの如く突っ込んできた。

「え、ちょ、ちょっと待って!?」

 慌てて飛び上がった瞬間、傘が激しい音と共に地面に突き刺さった。

「承知しましたとはいったけど、いくらなんでもいきなりすぎるってっ!」

 いいながら、飛んでいる自分に気づいた。後ろで翼が羽ばたいている。だがどうやって動かしているのか。広げ方も畳み方もわからない。

 あっちへふらふら、こっちへふらふらしながら刑部に向かって叫ぶ。

「あの、わたし戦ったことなんてまともにないんですよ! せめて戦い方の指南とか、あとあれ、基礎練習とか大事っていうじゃないですかっ」

「我は狸ゆえ天狗の鍛錬など知らぬ」

 刑部はにべもない。「それに戦いとは実戦の中でこそ磨かれるのだ。天狗よ、思うさま戦ってみせよ」

「わたしは青藍です!」

 飛び立ての若鳥のように覚束ない翼を揚々動かし、青藍はぐらぐら宙に浮きながら羽扇を振るってみた。突風が地上に吹き荒れ、突き刺さった唐傘が地面から引っこ抜かれた。その身が開かれ、パラシュートのようにゆっくり落下しながら笑う。

「傘は水にも風にも強いぞ。どう戦う天狗よ」 

 不意に、傘の周りに赤い火が現れた。「狸火」だと理解した瞬間、無数の火の玉が青藍に向かって飛んできた。扇を振るって炎を掻き消すが、一部の火の粉が服にまとわりついた。

「あっちっ」

 火の粉を払っていると、だんだんと身体が重くなってきた。天狗風と飛行、どちらも今の自分には燃費が悪いらしい。

「風がダメなら――」

 青藍は思い切ってその場を蹴った。身体が勢いよく前に進んだ。腋を締め、肩甲骨を寄せてみる。翼が折り畳まれたような気がした。降下する鳥のように青藍は飛んだ。

 自分の体が空を滑っている。痛みも恐怖もない。当たり前かもしれない。天狗は空を統べる妖怪だ。それに化けている以上、今の自分には飛ぶために必要なすべてが備わっている。

 そんな気がしてくる――いや、そうだ。わたしは今、天狗なのだ。

 青藍は脚に力を込めた。気合いの言葉を発しながら、唐傘の胴に渾身の蹴りを見舞った。


       6


 修練場に陽が落ちていた。青藍は大地に伏せて、オレンジに染まった景色をぼんやり眺めていた。綺麗だが、感動する体力すら残っていない。

「起きろ、青藍」

 顔だけ上げると、刑部が自分を見下ろしていた。

「すみません、全く動けなくて……」

 精根尽き果てている。今できることは苦笑い以外ない。「お腹減った……」

「しょうのないやつだ」

 刑部は青藍の首の皮を摘み上げ、すたすた屋敷へと歩き出した。

「初日は十人抜きか」

 十一人目を迎えたところで唐突に変化が解け、その場から動けなくなってしまった。神通力を最後の一絞りまで使い切ってしまったらしい。

「明日は十一人目から始めるとする」

 しかし、と刑部は付け加える。「今のままでは、たとえ百日かかったとしても五十にもたどり着けぬな」

 青藍は奥歯を噛んだ。彼女のいうとおり、一一番目で終わったのは体力がないからだけではない。一〇番目の女郎蜘蛛は一段違う強さだった。その巨躯は天狗風を容易く受け止め、空中からの蹴りにもびくともしない。その上、口から粘着性の糸を吐きつけて機動力を封じてくる。下から天狗風を撃って身体をひっくり返し、柔らかいお腹に蹴りを入れるという咄嗟の思いつきがなければ、まず負けていただろう。

「どうすればいいですか?」

「強くなるには修行しかなかろう」

 当然だとでもいうように刑部はいった。

「ですよね……」

 青雲なら強くなるためにどう努力すればいいかを今からでも考えるに違いない。あいつなら、努力して成果を出すことに慣れている。自分は違う。がむしゃらにやってきては裏切られるを繰り返してきた。努力というものを信頼できない。

 屋敷まで戻ってくると、絵理と一緒にまず風呂を浴びた。男女分かれた総檜の浴場は檜がたっぷり使われ、この上なく贅沢だった。絵理に身体を洗ってもらったあと、大きめの風呂桶に湯を入れてたっぷり浸かった。テント暮らしではおよそ叶わない「湯に浸かる」という快楽に、しばしの間なにもかもを忘れた。

 風呂に入ったあと、玲子に客間へ案内された。一〇畳ほどの和室で、濡れ縁からは見事な庭園が見える。築山に灯籠、池には錦鯉が数匹のんびり泳ぎ、縁の岩では大きなイシガメが石のようにじっとしている。アカミミガメ以外の亀を久しぶりに見た。

「祖母からあなたをよくもてなすように、と言われているの。なんでもおっしゃってね」

「すみません、お世話になります」

 三人で食事ということになった。運ばれてきた膳には、ごはんに味噌汁、煮物、刺身、数種類の小鉢が盆狭しと並んでいる。純和風のご馳走。腹がぐうと鳴った。

「そういえば、絵理さんはお酒はどうなの?」

 玲子が絵理に訊く。

「まあまあってとこですかね」

「それは良かったわ。あとで松山の地酒を持ってくるから、二人で一杯やりましょう」

「そりゃ最高っすね、いただきます」

「日本酒、いいなあ」

 父も母もそれなりには飲む。血を考慮するなら、一口飲んだらひっくり返るほどではないだろう。

「あんたはまだだめ」

 物欲しそうな顔をしていたのか、絵理が釘を刺してきた。

「人間ならまだ高校生みたいなもんでしょ」

「みたいなもん、だから厳密にいえば違うって」

「あんた変なところで不真面目なんだから」

 その後もやいのやいのとごねたが、百人抜きを達成したらという玲子の提案に折れた。

「あ、そうそう」

 玲子が懐から包みを取り出した。顔をしかめる――あのクソまずい丸薬だった。

「天狗でも良いから、とにかく人の姿で食べなさいって」

 運ばれた膳は当たり前だが人間用だ。立派な膳に向かって犬食いをするのは流石に気が引けた。

「やってみます……」

 生のキノコを無理やり飲み下すような気持ちで丸薬を食べた。途端に身体がムズムズしてくる。

「人間か……」

 ヒト――基本の基本の化け姿。どんな姿がいいだろう、どんな姿をとるべきだろう。

 あれこれ考えているうちに、背中から羽が生えて天狗になっていた。

「考えすぎじゃない?」

 絵理が少し呆れたようにいった。「まあ、その姿もイケてるけどさ。羽以外」 

「絵理姉はどうやって人に化けてるの?」

「そんな考えてないよ。もし自分が人間なら、こんな感じのオンナだろうなぁってのを頭に思い浮かべるだけ」

「スリーサイズも?」

「本物でもナイスバディの自信あるし」

 絵理は座りながらモデルポーズをとった。

「いまいちわかんないなあ」

「人に化けるコツはね、難しく考えないこと。何も考えず化けたら、なんか自分に合った姿になってるから。ねえ、玲子さん?」

「わたしも最近はすっかりおばさん顔になってしまうのよ。でも、その通りなんだからしょうがないわね」

 釈然としないまま、その日は結局、天狗となって飯を食った。

 それにしても、生まれて初めて扱う箸の、なんと扱いにくいことか。食事に文句はないが、食後は好物が頭の中をしばらく回転していた。ハンバーガー、ピザ、ホットドッグ、サンドウィッチ――箸を使わないやつなら、なんでもいい。


 翌日。朝から刑部に案内されて屋敷の地下にやってきた。地下があること自体は驚かなかったが、内装には呆気にとられた。

「すごい、プライベートジムだ……」

 和風建築のベースメントとしてはおよそ似合わない、コンクリート打ちっぱなしのトレーニングルーム。ラックにずらりと並んだダンベル、ベンチ台、マシン類、ランニングマシンまである。そのどれもが金属的な鈍い光を放って、訪れた青藍を静かに威圧した。

「肉体を鍛えることは全てに通ず」

 刑部は四十四ポンドのダンベルをひょいと持ち上げてみせた。「筋力は化けた先の肉体にも影響し、体力は変化の維持に直結する。そなたの化け下手は運動不足もあるだろう、実践と並行して肉体も鍛えるべきと思うてな」

「はあ……」

 正直わかるようなわからないようなだが、自分が運動不足なのはいうまでもなかった。頼んでもいないのに付いた皮下脂肪がその証明だ。

「現に、我は鍛錬でなんとか化け力を保っている。止めたら最後、ただのばばあになってしまうであろうな」

 刑部は何度かダンベルを上げ下げすると、ラックに戻した。「いつでも自由に使え。天狗に化けつつ鍛錬を行えば、多少の負荷がかかっても容易に剥がれない化けの皮になるであろう」

「トレーニングって、実際どういうふうにやればいいんでしょう?」

「蒼星に聞け。あやつはここに誰より入り浸っておる」

 噂をすれば、タンクトップに短パン姿に化けた蒼星が入ってきた。なるほど、肩から二の腕にかけての盛り上がりや背中の広がりはムキムキと表現して差し支えない。下半身は青雲の方が大きいが。

「ソウ、青藍に鍛え方を教えてやれ。とりあえずは基本をさせればよかろう」

「承知しました」

「今日の百鬼夜行組手は夕刻より行う。それまで準備を怠るでないぞ」

 刑部はそういって去っていった。青藍は見送ってから、

「じゃあ蒼星くん、悪いけどよろしくね……ええと、筋トレってまず何すればいいの?」

 蒼星は「そこからか」という顔をした。「……まず化けてくれ」と低い声でいう。

「あい」

 予め渡されていた丸薬を飲み、天狗に化けた。早くも慣れてきた、良くも悪くも。

「まだ人には化けられないのか」

「自分でもやになっちゃうくらい不器用で」

 肩をすくめる。昨日、寝る前に鏡の前で奮闘してみたが、気がついたら布団の上で朝を迎えていた。

「まあ、人間の形をしていればそれでいいが……」

 彼は自分を納得させるように呟いた。「ヒトの身体大きく六つの部位に分けられる。大胸筋、背筋、肩、腕、腹筋、そして下半身だ」

「あの、いいにくいんだけど」

 説明を始めた蒼星を右手で制す。「狸が筋トレして本当に効果ってあるの?」

 ガリガリの狸がボディビルダーに化けることもできるのが化け術なのだ。

 蒼星は何かいう代わりに、突如狸に戻った。そこには狸とは思えない、がっしりした若い雄が立っていた。狸というよりロットワイラーやピットブルを思わせる。

「……なるほど、了解」

 理屈はわからないが、考えないことにした。蒼星はまた人間に戻った。

「初めてなら、まずコアを鍛えていくべきだろう」

「コア?」

「筋肉量の大きい部分だ」

 胸筋と背筋、そして脚がそれにあたるという。

「木でいうなら幹の部分だ。何事も芯を鍛えなければ始まらない」

「あんまりムキムキにはなりたくないんだけどな」

「筋肉は簡単にはつかない」

 蒼星は腕を組んだ。鍛えられた腕が強調される。「筋肥大したくないなら、高重量ではなく軽い重さで回数をこなすといい。なんにせよ、脂肪は燃えて身体は引き締まる」

 青藍は女天狗の腹の肉をつまんでみた。ぷにっとした贅肉を確かめて、諦めがついた。

「……やるよ。やるやる」

「じゃあ、スクワットからだな」

 でた――。家で弟がやっているのをみたことがある。筋トレ界のBIG3と呼ばれているはずだ。

「あの、バーベル担いでしゃがむやつ?」

「それもいいが、いきなりは大変だからな」

 蒼星はラックから小さめのダンベルを取った。傍にあるトレーニングベンチの前で靴を脱ぐと、左足の甲をベンチに置いて片脚立ちになった。息を吸い、跪くような体勢になるまで左の膝を地面に向けて落とした。息を吐きながらゆっくり戻る。これを三回繰り返してみせた。

「――ブルガリアンスクワットだ。椅子さえあればどこでもできる。とりあえず自重のみで、限界まで」

 青藍は彼を真似て脚をついた。ぐっと下半身に力を込めて片足を沈み込ませる。

「あだだだだっ」

 たったの一回で腿の裏と尻が悲鳴をあげた。

「もう少し深く」

 蒼星は静かな口ぶりだが容赦がない。「曲げる脚の膝がつま先より前に出ないように」

 五回を過ぎてから露骨に片方の腿が悲鳴をあげた。蒼星は浅く沈んだらカウントしてくれなかった。この鬼め。

 なんとか一二回をやり終えたらよろめいた。心臓が早くもドクドクいっている。

「これ、マジで初心者向けなの……?」

「次は右脚」

「嘘でしょ?」

「片脚だけなわけないだろう」

 泣きたくなりながら同じ動きを反対側の脚でやった。十二回後、思わずベンチに腰掛けた。息が切れ、翼は伸ばす元気もなく萎れ、背中を汗が伝っている。

「……二分後に二セット目だ」

 青藍は天を仰いで、シーリングファンの回る天井を睨んだ。わざわざ金を払って身体を苛める人間とは一生分かり合えそうにない。自分はドMではない。


 二セット目は八回ずつでギブアップした。トレーニングベンチに腰掛け、絶え絶えの息をただ吐く。脚が痺れて立ち上がれない。尻を引き締めていないと尻尾が出そうだ。

 戻ってきた蒼星が無言でシェイカーを差し出してきた。緑色の液体が透明な容器の中でいる。

「これ、プロテイン?」

 蒼星はかぶりを振った。

「必須アミノ酸とクレアチンだ。血中アミノ酸濃度を高め、運動中の筋肉の分解を防ぐ……狸に効果があるかは知らんが、おれはずっと飲んでる」

 飲んでみると、なんとも人口的な味が広がった。青リンゴ風味といえなくもない、よく冷えた液体が身体に染み渡っていく。

「蒼星くんって物知りなんだね。うちの弟みたい」

 青雲のキリッとした顔が思い浮かぶ。「あいつも色々取り寄せては飲んだり食ったりしてるな。必要な栄養を摂るのが第一って感じ? 好きな野球選手の真似でもしてるんだろうけどさ」

「模倣は悪いことじゃない。おれも大婆様を常に手本としている」

「あんたら気が合うかもね」

 ドリンクを飲み干した。「次は?」

「レッグプレスを二セット、あとは軽いランニングで心肺機能を高める」

「あ、それだけでいいんだ」

 あと四、五種目はやらされるのかと思っていた。そうなったらリアルに泣いていただろう。

「組み手が控えているからな。やりすぎるとオーバーワークになる」

「なるほど」

 そのレッグプレスは、乳酸の抜け切らない脚によく効いた。二セットやり終えた頃には下半身が笑い出した。

 ストレッチエリアに脚を投げ出した。壁張りの鏡に汗みずくの天狗と無表情でシェイカーを振る蒼星が映っている。とりあえず、次からは着物で筋トレなんてしない。暑苦しいし、袖は邪魔だし、胸も痛い。 

「……プロテインだ」

 蒼星がシェイカーを差し出してきた。

「いいトレーナーになれるよ、マジで」

 皮肉混じりにいった。渡されたプロテインは、安っぽいカフェオレの味がした。不味くはないが、本物が飲みたい。布団とご飯が恋しい。

 蒼星は珍妙なものを見る目で青藍を凝視した。

「……何よ?」

「……天狗が脚トレでへばって、プロテインを飲んでる」

 口元がほんのわずかに緩んでいる。

「ウケてんの?」

「少なくとも初めて見る」

「あんた、無口と思えば結構普通に喋るよね」

 プロテインを飲み干す。タンパク質混じりの液体が喉から下へとおりていく。

「蒼星くんもやったことあるの? 百鬼夜行衆の百人抜き」

 手の甲で口を拭いながら訊くと、蒼星は「いや」と首を振った。

「おれの歳ではまだ挑戦させてもらえない」

 十八からだ、と彼は付け加えた。

「そうなの?」

「組み手に挑戦する者が現れること自体、おれは初めて見た。わかるだろうが、危険な試合だ。過去には組み手が原因で亡くなった狸もいたらしい」

 背筋が寒くなった。たしかに、いずれの対戦相手も加減というものを知らなかった。本気で青藍を――天狗の首を獲ってやるという目をしていた。あの目を思い出すたびに背筋が寒くなる。

「だから、客人に挑戦させることはまずない。それでも大婆様が青藍を挑ませたのは、短期間で化け術を磨くのと――」

 彼は言葉を切り、ストレッチエリアに放ってある羽扇を手に取った。化けると勝手についてくるのだ。

「天狗の強さを見込んだからだろう」

「百人抜くほど強くなればそれでよし、だめならそれまでってことね」

 笑ってしまう。自分には荷が重すぎる。

「初日で十人抜きは中々できるものじゃない」

 蒼星は慰めるようにいった。

「優しいじゃん」

 翌朝、臀部から後脚にかけて猛烈な筋肉痛が青藍を襲ったことはいうまでもない。


 松山にきて二週間が過ぎた。

 午前中は一つの部位に絞っての筋トレとランニング。昼食を挟んで昼寝をし、夕刻から百鬼夜行衆との組み手。食事は高タンパク、低脂質。組み手中の栄養補給にと、玲子がくれるおはぎや卵焼き入りのおにぎりが一番の楽しみになっている。

 変化――体重が一キロ落ちた。たかが一キロかもしれないが、これは狸としてだから人間とは重みが違う。そして丸っこかった体が少しだけ細くなった気がした。

 更に驚くべきことに、筋トレが天狗特有の妖怪的膂力を目覚めさせたのか、ベンチプレスはたった二週間で一五〇キロ、デッドリフトは二百キロ、スクワットは二四〇キロに達した。これには蒼星も目を丸くした。

 そして一番の変化は、化ける際に丸薬を服薬する必要がなくなったことだ。集中し、脚で地面を踏みつければ、天狗にはほぼいつでも化けられるようになり、燃費も着実に向上した。人間のイメージはまだ掴めないが、「化けずの青藍」と呼ばれていたことを考えれば驚くべき進歩だった。

 昨日は家族と電話をした。百鬼夜行組み手の三〇人目まで勝ったことを伝えると、父は「もうおれなんかより強いかもな」と冗談を飛ばした。

 滋賀は変わりないという。狐は不気味なほど動きがなく、消息もつかめない。リンがどこへいるかも分からない、と母はため息まじりにいった。

 家族全員から「無理はするな」と言葉を投げかけられた。「あともう少し頑張る」と返しながら、その言葉を自分に言い聞かせた。

 毎日が同じことの繰り返し。筋トレ、組み手、負けた相手の対策。休養日は持ってきたタブレットでカンフー映画を見る。李小龍、周星馳、成龍のアクションに心を躍らせながら動きを頭に刻み込み、庭で技を素振りする。空中蹴り、飛び上がっての踵落とし、風を切るサイドキック――。

 長い脚を活かした蹴りには刑部も「悪くない」と頷いた。褒美かは知らないが「狸火」の使い方をレクチャーしてもらった。

 化け狸も化け狐も、変化の他に「鬼火」という能力を持つ。普段は指先に灯して煙草に火をつけるくらいしか使い道はないのだが、我が曽祖父・観音寺藍蔵は龍に化けた際、狸火を応用して口から火を吹いたという。

 最初は発火自体に苦労したが、化けるよりは楽に会得できた。コツは変化と同様、火を起こすにもトリガーがあることだ。羽根に火を纏わせ、勢いよく放つ熱風は並の妖怪なら一撃で倒せるようになった。

 勝てなかった相手を少しずつ越えていく。四十番手、塗り壁の硬い体を突破するため、地上で地面を蹴り、弾丸のように突っ込む方法を編み出した。勝ったのはいいが、蹴りが強過ぎて相手のあばらを数本折ってしまった。

 百鬼夜行衆もレベルが上がってきた。昨日は五十番手と五十一番手、牛頭馬頭に敗れた。巨体二頭を相手取って隙なく打撃を与える方法を考えなければならない。連敗をすれば到底、約束には間に合わない。

 絵理は専門学校の授業に出るため、三日目に滋賀に帰った。蒼星を捕まえて話す機会が増えた。対策を一緒に考えてくれるし、勿論筋トレにも付き合ってくれる。なにより口の少ない男は気が楽でいい。


「青藍の主軸は、どう考えても天狗だ。天狗は飛ぶ。ならば余計な体重は邪魔になる」

 蒼星は真面目な少年だった。どうすれば青藍が天狗としてもっと強くなるかを真剣に考えてくれる。だからもっと軽やかに飛ぶために、食事を見直せという。

「うまく化ければ関係なくない?」

 食べたいものを食べるな、なんて死刑を宣告されるようなものだ。毎日これだけ頑張っているのだから食事だけは好きなものを食べたい。

「元の身体が化け術にある程度影響を与えるのは知っているだろう」

 青藍は「アイノーアイノー」と口を尖らせた。天狗姿で斜め(インクライン)にしたベンチに椅子のように腰掛けて脚を組む。

「てか、体重ならちゃんと落ちてるし。見た目も結構変わってきてるでしょ?」

 二日目から、臍出しのトレーニングウェア、パンツはスパッツに着替えている。彼の母が用意してくれたものだった。

 蒼星は真顔で青藍を眺めてきた。「エッチ」といってやると、顔を赤らめて目を逸らした。

「ごめん、冗談……てかさ、うちの弟、今小松島にいるんだって」

 話題を変えた。ただでさえ疲れているのだ、真面目な話はしたくない。

「……金長か」

 松山の隠神刑部、屋島の太三郎に並ぶ日本三名狸の一角。小松島の金長狸は一言でいえば、狸界の大スターだ。青雲は父の名代として、スターのおわす徳島にいるらしい。母も他の名のある狸を訪ねているそうだ。

「あいつは人間の女の子と付き合ったことがあるよ。どういうわけかヒトにモテんだよね」

 蒼星は信じられないというように目を見開いた。

「狸がそんなことをしていいのか」

「いいんじゃない? 化けの皮を剥がさないのが前提だけど、お互いが好きならそれで」

「人間と狸だぞ?」

「わたしら、人間になれるじゃん」

「なれると化けるは違うだろう」

「ほぼ変わらないじゃん、言葉だって通じるし」

「種族が異なる。子だって成せない」

「異種族間の恋って素敵だと思うけどな」

 蒼星はゆらゆらと首を振った。

「……青藍も、人の方がいいのか。狸ではなく」

 伺うように彼はいった。

「わたし、狸は嫌い」

 反射的に口から言葉が飛び出る。「想像してみて。隠神一家の中に、まったく化けられない狸がいたらどう思う? おかしなやつ、と思ったりしない?」

「……わからない、その時おれがどう思うのかは」

 そう、化け下手はまだしも、化けられない狸など想像の範囲外のことなのだ。だから自分の存在は前代未聞として扱われてきた。もちろん悪い意味で。

「絵理姉とか、偏見なく仲良くしてくれたのはほんの一握り。後の連中はほとんど、わたしをからかったり、いじめた。だからわたしは狸が嫌い」

 蒼星は言葉を探すように虚空を睨んだ。

「……おれたちのことは?」

「好きだよ。ここに住んじゃおうかって思うくらい。刑部様は厳しいけど」

 そういってウインクすると、彼の口元にも不器用な笑みが浮かんだ。

「なら、いい。隠神一家は青藍の味方だ」

 青藍は天狗の顔で微笑んだ。年下は対象外だが、蒼星はいい男だと思う。


       7


 羽扇に念を込めると、羽根が重なり合って束になった。しなやかだった羽根は硬質化し、羽先に触れると指から血が滲んだ。サッと薙ぐと空気の切れる音がした。斬り込んでくる鎌鼬を逆に斬り返して六二番目を突破した。

 焦燥感に苛まれる。焦りは隙を生む。

 六三番手――人魚には通用しなかった。鱗で刃を跳ね返され、尾鰭の一撃をしたたかにくらい、気がついたら客間の布団にいた。

 半分を越された百鬼夜行衆の目は明らかに鋭くなってきている。彼らにもプライドがあるのだ。

 一日の大半を天狗として過ごし、夕食を摂った後は泥のように眠る。

 あと五日で百人抜きを達成しなければ、刑部の援助は得られない。人に化ける方法も教えてもらえない。

 出てくる妖怪もどきたちのレベルは格段に上がっている。ここ数日は数人を倒すのがやっとだった。

 アラームが鳴った。午前七時――今日もトレーニング。夕方からは組み手。

 のそのそ布団から這い出て、襖を開いた。曇り空だった。昨日見た予報通り、今にも雨が降り出しそうだ。

 濡れ縁から下りて庭に出る。右脚を上げ、苛立ちを乗せて池の縁を踏みつけた。真ん中の池でじっとしていた亀が水にぽちゃんと飛び込んだ。

 天狗になると余計に癇癪が爆発しそうになる。何度も深呼吸を繰り返していると、灰色のどんよりした空が目に入った。

 このまま滋賀まで飛んで帰ろうか。今のわたしなら四国を渡るくらいできるだろう。

 首を振る。そんなことはできない。父がわざわざ設けてくれた機会を、受け入れてくれた松山の皆を裏切ることはできない。

 だから頑張るしかない。今までどれだけ怠けてきたと思っている。考えてみろ、わたしが惰眠をむさぼっている裏で、青雲はどれだけ努力してきた?

 鳩尾のあたりが痛み、思わずしゃがみ込んだ。顔をしかめる。人魚の尾鰭チョップがまだ尾を引いている。もしかしたら骨がいかれてるのかもしれない。でも、治していたら期日に間に合わない。

 池の水面に天狗の顔が写った。自分であって自分でない顔は疲れ切っていた。餌をもらえると勘違いした錦鯉が口をぱくぱくさせながら数匹寄ってきた。

「きついなあ」

 弱音が漏れる。当然だ。つい先日まで化けられなかった出来損ないなのだ。苦労や痛みなど経験したこともない。弟みたいな才能も努力を重ねられる根性もない。気力などとうに使い果たしている。

 わたしは何をしているのだろう。なぜこんな痛い思いを毎日しているのだろう。

 そう思った瞬間、力が抜けた。気の抜けた音と共に、池に泣きそうな狸が映っていた。

 水面が揺れた。雨が降ってきたのかと思い、顔を上げる。まだ空は泣いていない。

 また雫が落ちる。泣いているのは自分だった。


 すべてを休むと告げた。化ける気力もなく、客間でただただ横になった。目を閉じても眠れない。様々な考えに脳を支配されて意識を締め出せない。こんなことは初めてだった。眠れないまま、青藍はただ横になっていた。

 今日を過ぎれば残りは四日。百人抜きまであと三十八。脇腹はまだ痛む。

「無理じゃん……」

 暗い部屋で一人嗤った。

 父は別に責めはしないだろう。頭領として第二第三の策を考えているはずだ。

 周り――期待に応えられなかった青藍を責める目が容易に想像できる。「やはりダメだったか」「化けずの青藍にしてはよくやったんじゃないか」――悪い想像が頭の中で青藍を詰る。

 悔しい。許しがたい。もしそんなことを本当に言ってきたら、地球の裏側まで吹き飛ばしてやる。

 ドロドロした感情に苛まれる。天狗に化け続けているうちに、心まで天狗になりつつあるのかもしれない。

 自分がおそろしかった。

「いるか、青藍」

 刑部の声――反射的に飛び起きた。脇腹に痛みが走った。

「はい、おります」

 顔をしかめながら答えた。襖が開く。一升瓶と盆を持った刑部が立っていた。濡れ縁に来るよう促される。あぐらを掻いた刑部の隣にちょこんと座った。

「ようやく雨も上がったな」

 相変わらず雲は多いが、その隙間から丸い月が覗いていた。月光を受ける彼女の白髪が輝いて見える。

「孫が作った。食え」

 盆にはおはぎの乗った皿があった。

「いただきます」

 化けないまま、口を伸ばして一口で食べた。おはぎは甘く、美味かった。刑部は酒瓶の蓋を開け、小さなグラスと漆塗りの盃に透明な液体を注いだ。

「お酒ですか」

「松山のだ。ちょっとやってみろ」

 前脚でなんとかグラスを持ち、くんくんと匂いを嗅いだ。そっと一口飲んだ。思ったより飲みやすい。甘すぎず、後味はすっきりしている。くっと飲み干すと、おはぎで甘くなった口を洗い流してくれた。

「美味しい」

 刑部はうなずいて盃をあおった。手の甲で口を拭ってから、

「辛いか?」

「……こういうことに、慣れていませんから」

「にしては、中々やる」

「ですがこのままだと、あと数日で百人抜きなどできそうもありません」

「そなたが天狗になりきれば、二日も要らぬ。一日で九十九匹を倒した者も知っておる」

「それは一体……」

 刑部は答える代わりに、グラスと盃に酒を注いだ。「そなた、迷っておるな」

「……刑部様にはお見通しですか」

 日本酒を飲んだ。ほんのり体が温まる感覚があった。

「自分を信じられないんです。長い間化けられなくて、周りからは馬鹿にされ続けてきて。そんな自分が努力したところでなんになるんだって。現に、天狗にしか化けられないですし」

 盃を飲み干す。いっそすべてどうでも良くなるくらい酔ってしまいたかった。

「そのわたしを馬鹿にしてきた連中が、今頃滋賀でのうのうと暮らしている中で、わたしは痛い思いして頑張ってるのを考えると、なんなんだろうって思っちゃうんです」

 前脚で目尻を掻く。「ごめんなさい、こんなによくしていただいているのに」

 刑部は月を見ながらただ酒を飲んだ。青藍は黙っておはぎを食べる。しばらく沈黙が二人の間を包んだ。

「そなたに天狗は似つかわしくない」

 彼女がポツリといった。「普通、ヒトにも化けられぬ小娘が天狗など化けられるはずもない。しかしそなたは息を吐くように化ける。それはなぜか」

「なぜですか?」

「わからぬ」

 咽せた――わからへんのかい。

「……わからぬが、素質を語るには十分であろう。ないとはいわせぬぞ」

 低い声に、青藍はごくりと唾を飲んだ。

「化ける肝は、まず心をそれに寄せることだ。天狗ならば天狗に、龍ならば龍に」

「ヒトにもですか?」

「あらゆるものだ」

 刑部は盃をあおった。「化けるとは成り切ること、我は父からそう教わった」

「成り切る……」

 噛んで含めるように呟いた。

「周りの狸どもが憎いか?」

「憎いまではいかないですけど……許せる気もまだないというか」

 雑音、フラッシュバックする苦々しい記憶。嫌な思い出ほど、どう振り払おうとしてもしつこくついて回る。それらはまだ過去のものではない。現役の苦しみとして青藍を苛んでいる。

「わたしって心狭いですかね?」

「知らぬ」

 刑部は鼻を鳴らす。「我らは人間とは違う。獣において敬われるべきは強き者、蔑まれるべきは弱き者よ。今のそなたは何だ? 何に化けられる?」

「天狗です」

「天狗ならば、口だけの者どもなど吹き飛ばしてしまえばよかろう」

 最も強い者が群れを統べるのが獣である、それに歯向かう者などけちょんけちょんにしてしまえ――サバンナなら道理だろうが、ここは日本で、自分たちは人間に片足を突っ込んでいる。

「隠神百鬼夜行衆は我が直々に鍛えておる精鋭、並の者では一番槍すら勝てん。それをそなたは最初で十人抜いた。だから鍛えてやる気になったのだ」

 少し気恥ずかしくなり、青藍はもじもじとした。別に、ただがむしゃらにやっていただけだ。こんな自分を信じて、エールを送ってくれる人たちがいる。その人たちに報いたかっただけだ。

「人魚の弱点はなんだ?」

 不意に刑部がいった。

「電気ですか?」

 思いついたことを答えると、彼女は初めて口を開けて笑った。

「おかしなやつめ。だが、天狗ならば電気くらい起こせるであろうな」

「そう思いますか?」

「天狗に不可能などない。ゆえに、彼奴等は手強かった」

 刑部は月を見上げた。


       8


 朝からひどい雨だった。昼過ぎからゴロゴロと雷まで鳴り出した。普段は賑やかな屋敷も、今日はひっそりと静まり返っている。雨はともかく、雷を嫌う狸は多いのだ。

 二九日目の隠神百鬼夜行組み手は荒天のなか始まった。

 ビシャーン、と稲妻が轟いた。青藍は扇を掲げ、念じた。

 ただ化けるのではない。化けたものに、成り切る。

 天を操り統べるのが天狗である。天狗にできぬものはない。

 すなわち、今のわたしにできぬものはない。わたしの辞書に不可能はない。

 カッと目を見開いた。

 羽扇に電気がバリバリと走り、しまいこんだ尻尾がピンと立つ感覚が走った。

 力の限り羽扇を振り抜いた。身体中に痺れが走る。紫色の光が駆け抜けていくのが見えた。

 人魚は消えていた。代わりに毛を焦がし煙をぷすぷす上げる雌の狸が、「殺す気か?」という目でこっちを睨んでいた。


 六五番手、姑獲鳥。空中戦なら負けない。

 七〇番手、韋駄天。速さ勝負には乗らず迎え撃った。速い以外は大したことなかった。

 七五番手、土蜘蛛。虫には炎、熱風が効いた。疲労により今日はここまで。

 翌日、三〇日目。前日から続き雨。風やや荒らし。

 七六番手、蟒蛇。大口を開けた瞬間に天狗風を放つと、身体が風船のように膨らんで破裂した。幸先の良いスタートだ。

 八五番目、ぬらりひょん。捉え所がなかったが、向こうもこちらに対して決定打がなかった。

 九〇番目、雷獣。雷を放たれる瞬間、地面を風で巻き上げて砂塵を浴びせた。雷獣必殺の雷は目潰しで狙いがつかず、青藍のはるか後方の林を焼いて観客たちが消火に走ることになった。

 九五番目、死神。「アジャラカモクレン、コメ価格、テケレッツのパ」と唱えたら勝手に消えた。

 九六番目、雪女。華奢な見た目に反して強敵だった。ふりしきる雨を雪に変え、観客もろとも凍えさせる力を持っていた。極寒と吹雪で羽が縮こまり、飛行が鈍る。ならばと狸火で応戦するも、火力を上回る冷気に効果がない。

 吹き荒ぶ風と雪の嵐に女の哄笑が響く。青藍は震え、歯をカチカチ鳴らした。かじかむ手で羽扇を握りしめ、前方に狙いを定めようとして言葉を失う。

 目の前にいたはずの雪女が消えていた。辺りを見回す。ホワイトアウトした視界は白一色に染まっている。

 後ろを振り向いた瞬間、刺すような息吹に身体を貫かれた。「あっ」と思った時には全身が動かなくなった。視界が半透明になり、瞬きも呼吸もできない。凍りついたのだ。

 身体が急速に冷えていく。力が指先から抜け、手足の感覚が徐々に消えていく。体が弛緩し、眠気がやってきた。

 眠ったら死ぬ――いや負ける。朦朧と闇に意識が閉ざされていく中、視界の片隅にぼやけた刑部が見えた。凝視する。ゆっくり彼女が頷いた。

 折れるほどに歯を食いしばった。狸火を起こすコツは全身の筋肉を張ることである。自分自身を燃え上がらせるように力をこめる。ラスト一回、最後の力を振り絞ってバーベルを上げる時のように。

 冷え切った体温が少しずつ上がってくるのが分かった。まだ自分は死んでいない。心は凍てついていない。

 化けられなかった日々に比べれば、この程度、少しも寒くない。

 手足に感覚が戻ってきた。腕に力を込め、広げる。少しずつ、だが確実に。

 不意に、力が行き場を失った。大きな音がした。周りに氷塊が散らばり、全身が軽くなった。濡れそぼった身体から湯気がたちのぼる。

 狼狽した雪女を前方に捉えた。

 うっすら雪の積もった地面を蹴った。冷えた身体に炎を纏わせる。羽扇を掲げ、紅蓮の火を撃った。

 

 三十一日目。快晴。心地よいそよ風。

 清々しい青空が森を包んでいた。最終日の百鬼夜行組手は午前十時から――既に多数のギャラリーが集い、野球観戦でもするかのような賑わいを呈している。

 中央で刑部は腕を組んでいた。

「青藍、本日が最終日である。当初の約定通り、今日中に百番手を倒せば近江狸一門とそなたの悲願に協力しよう。だか達成できなければそれまでだ。良いな?」

「はい。よろしくお願いします」

「では……九七、九八番手、前へ!」と叫んだ。

 武術家のような雰囲気を醸した壮年の狸が二頭、青藍と相対してお辞儀をした。

 間合いをとる。

「はじめっ」

 二頭は顔を見合わせ、化煙に包まれた。煙が立ち消える、十メートル超の大百足と胡乱な目つきをした大柄の武者が姿を現した。

「うぇ、三上山の大百足じゃない」

 うねうねした脚とグロテスクな体躯に怖気が振るう。その後ろで武者が矢をつがえるのが見えた。青藍は両足で地面をトンと蹴った。

 百足が鎌首をもたげて一気に振り下ろした。後ろに飛んでかわす。空気の切れる音。咄嗟に羽扇で顔を隠す。滑るように飛んできた矢が羽根に突き刺さった。

 熱風を撃った。百足は節足動物のくせに獣のような呻きを発したあと、緑色の液体を吐き出してきた。一直線に放たれたそれをなんとかかわす。

「きたなっ、それかかったらどうすんの!?」

 二の矢を羽扇で受け止めると、青藍は怒りと共に矢を引っこ抜いて、より高く飛んだ。一旦静止し、矢の先端に唾をつけると降下した。

 猛スピードで空を滑る時、対照的に世界の速度は弛緩する。百足が液を噴こうと背を反らせる様が間延びして見えた。

 矢をぶん投げた。ストライク――百足の眉間に矢が突き刺さり、悲鳴と共に巨躯がよろめく。崩れ落ちる百足の背を、武者が駆け上り、頭を蹴って斬り込んできた。

 青藍は羽扇に力を込め、武者に向かって飛びながら斬り返した。

 着地――刀を振って扇の羽を広げた。具足が地面にぶつかる音で勝利を悟った。弾む息を整えて次に備える。あと二頭。


 その老狸は一見、戦う力を持っていなさそうだった。眼窩は落ち窪み、たるんだ顔にはいくつもの染みがある。

 しかし彼は不敵に笑うと、不気味な鎧武者に変じた。こんなにも心胆を寒からしむる化け姿を他に知らない。

「おじいさん、祟られるんじゃないの……?」

 鎧武者――平将門に化けた狸はニヤリと笑うと、音もなく踏み込んできた。刃がきらめく。束ねた羽扇で迎え撃つ。二の太刀が同時にぶつかった。

 鍔迫り合い。昏い目が青藍を覗き込む。底なしの黒い目が自分を呑み込もうとする。ゾッと肌が粟立ち、たわめた力が逃げていく。

 弾かれ、体勢を崩した。脚だけで踏ん張り、構え直した瞬間、足元から刀の切先が伸びてきた。背を反らしてかわし、ゼロ距離から天狗風を放つ。将門狸は刀を杖代わりにして突風をやり過ごした。

 青藍は翻って距離を取り、空から熱風を撃った。獄炎を自負する風も、効いている気配はない。

 しばらく睨み合った。本物でないくせに尋常でない怨嗟を感じる。相対するだけで身体が重い。心胆が萎縮する。

 これが「成り切る」というものだろうか。だとしたら、見習わなくてはならない。

 化獣から見ても「平将門」は恐ろしい。しかし、天狗ならば恐れないはずだ。

 地面を低く飛んだ。魚雷のように突っ込む。将門狸が居合の構えをとった。

 刃が光った瞬間に地面に両脚をつけ、背中の羽を目一杯広げた。急ブレーキ――強烈な負荷と共にスピードが落ちる。将門狸の刀は青藍の首手前で空振りした。

「隙あり!」

 猛然と左手を伸ばし、首を掴む。その場で飛び、急降下して地に叩きつけた。

 溢れ出た化煙を浴びながら、ゆっくりと首から手を離した。「それまで」という刑部の鋭い声が飛ぶと、急に力が抜けた。

「所詮は狸めの戯れです。どうぞお許しを……なむなむ」

 青藍は息を切らしつつ、東の方角に手を合わせた。

「案ずるな、お嬢ちゃん。将門塚には毎年参りに行っておるでの」

 振り返ると、老狸が穏やかな顔でこちらを見上げていた。

「恐れずに向かってくるとは実に天晴れ。さすが、ここまで勝ち抜いてきたのことはある」

 殺気の抜けた顔は、よく見ると意外にもふくふくとした愛嬌があった。青藍は「恐縮です」と頭を下げた。翁は目尻を下げると、ちらりと刑部を見てからいった。

「いよいよ次が百人目じゃな。姉上……二代目と共に見届けさせていただくとしよう」

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