#3 Home
瀬田川侑花は宇佐山をひとり登っていた。最後に来たのは中学の卒業前だった。もう一ヶ月が経過している。
侑花はこの春から高校生になった。滋賀県は未だ公立至上主義の面があるが、彼女は自ら志望して私立であるびわ高に入学した。ある程度服装や髪型が自由なのと、他の高校にはない開放的で明るい雰囲気が気に入ったのだ。自転車で通える距離というのも大きかった。
両親を説き伏せて、そして頭から湯気が出るほど勉強して入学した結果は今のところ、悪くはない。友達は既に何人かできたし、クラスの雰囲気もそこそこ良い。めんどくさい教師も今のところいない。担任は若い女性教師で、頼りになるかは別にして、性格はいい。
はたから見れば順風満帆かもしれないが、新米の女子高生に悩みは尽きない。
まず、授業のレベルが高い。特に英語は元々苦手なぶん、早くも先行きが不安である。親にいわれるまでもなく、なんとかする必要がある。もう二度とやりたくないが、受験はまだあるのだ。
そして、もう一つ――。これは侑花が人生で初めて直面する問題だった。しかも勉強とは違って、そっちは努力次第でどうにかなるものではない。頭に思い描くたびに、悩ましさに項垂れそうになる。
それら憂鬱な思考を、彼女はため息と共に吐き出した。山道を黙々と登る。この山は小学生の時から幾度となく通ってきた。別に登山が趣味というでもない。仮にそうならここは二、三度登ればもう十分だろう。
ではなぜか。
侑花は狸が好きだった。ものすごい好きだった。
宇佐山は、狸が多数棲息すると地元民の間ではそこそこ有名だ。夜の境内では狸が階段に腰掛けて明らかに月を見ている姿を写真家のカメラが捉えているし、山頂では彼らが景色を眺めにやってくるという噂もある。
そのことを知ったのは小学生の時だった。動物園で初めて見たあの毛玉みたいな動物に一目で心を奪われて以来、彼女はずっと狸に近づきたいと思っていた。
そして、そう思っているのは自分だけではないらしい。最近ではマップのレビューで、「ねぐらを探して山道から分け入ってみたが、行けども行けども気がつけば同じ道に引き返してしまう。なんだか化かされた気分だ」という口コミもあった。
侑花は無論、そんな真似はしない。家探しなんて迷惑にも程がある。人間と野生動物には、適切な距離感というものがある。
だが、会いたい。だから偶然出くわすことを信じて正規の道を辿り、半ばなし崩し的に山頂に向かっている。
乙女の静かな激情を心の奥に燃やしながら、彼女は己の体に鞭打って脚を動かした。背負っている小さなリュックの中には、ラップに包んだおにぎりを二つ入れている。いつ狸と会ってもいいように用意しているものだ。中には自分で焼いてほぐした鮭を入れている。
小学生から続けてきた狸のためのおにぎり作りは、今のところすべて侑花の胃におさまっている。
宇佐山の標高は約三百メートル。低山だが、その道のりは運動不足の女子高生にはかなりきつい。宇佐八幡宮という神社までは舗装された参道が整備されているものの、そこから先は狭くて急な勾配をひたすら進まねばならない。目印は木に巻きついたピンク色のテープと、地元の小学生が建てた看板のみ。
息が切れ、脚が悲鳴をあげる。『足元に気をつけて!』『がんばれ!』『苦労の先に絶景あり』――励ましてくれるのは手作りの看板だけだ。
きつくて、もう引き返そうかと思うたび、侑花は狸のことを思い浮かべる。会いたい、今回こそは――思いだけを原動力に登り続ける。
今回も時間をかけて山頂まで辿り着いた。背中は汗でぐっしょりと濡れている。広場に入り、無人なのをいいことに手を広げて深呼吸した。澄んだ空気が疲れに効く。髪留めを取り、ゆるくウェーブをかけた髪を揺らした。
丸太の椅子に座り、保冷ボトルに入れたお茶を飲みつつ景色を眺める。突き抜けるような快晴に、琵琶湖の下半分が青く映える。
小さくお腹が鳴った。侑花は鞄からおにぎりを取り出した。今日も二つとも食べることになるのだろうか――ぼんやり思う。そもそも野生動物に食べ物を与えるのは歴とした違法行為である。わかっているのだが、彼らが自分のおにぎりをもぐもぐ食べる様を想像すると、どうしてもそれだけは叶えたかった。
地元の友達には「なんでそんなに狸が好きなのか」と昔よく聞かれた。あの時は困った。馴染み深いものに対して、「なぜ好きなのか」を改めて言語化することはけっこう難しい。
それでも強いて語るならば、まず姿だ。フサフサしてずんぐりむっくりした、あの丸っこい身体。愛らしいという言葉が毛皮を纏って歩いているかのようだ。それからくりんとした優しい目、独特な毛の配色、短くつつましい尻尾。臆病でおとなしく、それでいて一生を同じパートナーと添い遂げる。推せるポイントはいくらでもある。
なんて彼らは愛らしいのだろう。それこそ今まさに自分の目の前にいる子のように――
「ってええええええっ!?」
ひっくり返りそうになった。
あれほど焦がれる狸が、唐突に、目の前にいる。心の中で暴風が吹き荒れた。
「た、たたたたたたたたた……」
なんてかわいらしい狸!!!!
うろたえ取り乱す侑花を尻目に、狸は丸い瞳でじいっと彼女を見つめている。どことなく、侑花が信頼に値する人間かどうかを見定めているようだった。
その視線が、隣に置いたリュックのある一点に注がれていることに気づいた。侑花はリュックを膝に置いた。ファスナーには、ストラップ付きの狸のぬいぐるみとデフォルメイラスト調のアクキーを付けている。アクキーはフリマサイトで購入したものだ。世の中は広いから、同好の士は一定数いるのだ。
「これに興味を……」
そんなまさかとは思う。しかし、その目には明確な意思と、そして知性があるように感じてならなかった。
侑花はぬいぐるみのストラップを外し、ゆっくり近づけた。狸は起き上がり、驚くことに前脚の汚れを払うようにお腹で拭ってから、ぬいぐるみを手に取った。鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
眩暈がした。信じられないような気持ちだった。侑花は慌ててスマホを取り出した。震える手でカメラを起動し、構える。
スマホに気づいた狸が、じろりとこっちを睨んだ。
「あ、ご、ごめんっ……」
思わず謝ってしまうほど圧のある目だった。気のせいではない。本当に「撮らないで」と言われた気がしたのだ。侑花はおとなしくスマホをしまった。
狸はアライグマと見紛うほどの器用な手つきでぬいぐるみを持ち替えては、いろんな角度から観察する。真剣な目つきは、感心しているようにしか見えない。
「それ、あたしが作ったんだ。本物より可愛くはないけど……」
自分の言葉に狸が目を見開いた――気がした。そして、侑花に向かって前脚を突き出した。ちゃんと返してくれた――信じられない。ともかく受け取ると、狸は慣れた様子で丸太に登り、侑花の鞄に鼻を近づけてくんくんやった。
もはや恍惚に近い感情に溺れそうになりながらも、侑花は脳裏に焼きつける勢いでその個体を観察した。
ふくよかな体つきからして、たぶん若いメスだろう。びっくりしたのはその顔だ。これまで動物園や写真でたくさんの狸を見てきたが、ここまで顔立ちの整った個体を侑花は生まれて初めて見た。まつ毛は長く髭はピンと張り、しゅっとした輪郭にぱちくりした大きな瞳は、狸界でも稀に見る美少女に違いない。毛並みもぴかぴかの艶々、今朝トリートメントを済ませてきました、というほどだ。錯覚に違いないのだが、ほのかに石鹸の香りまでする。
「あ、待ってっ」
侑花は鞄を開け、おにぎりを取り出した。ラップを取って狸に近づける。
「あの、これ……」
違法行為であることは自覚している。でも、この子ならいい気がしたのだ。ここまで人に慣れているのなら、おにぎりの一個や二個、変わらないのではないか。
その子はおにぎりの匂いを嗅ぐと、躊躇なく手を伸ばした。器用に両手に持つと、はぐっと食べた。かわいい顔して、一口がでかい。
食べた。夢が叶った――あっけなく終わった。彼女が一気に平らげたからだった。お茶碗一杯分はあるのに。
「お腹減ってる? それとも食いしん坊……?」
侑花は自分が一口かじった分も渡してみた。狸はそれも二口ほどで胃に収めてみせた。腹が膨れたのか、木に座ってあくびをする。図太いというか無警戒というか、野生動物の臆病さがまるでない。
「美味しかった?」
狸はこちらを向くと、目を細めて満足げな顔をした。口の横についていた米粒をとって舐める。その人間のような仕草に、侑花は目を瞬かせた。
「よかった。口にあったみたいで」
驚きと喜びが台風のように通り過ぎた今、残っているのはじんわりとした感動だった。愛すべき存在と心が通い合っている。侑花は首にかけたタオルで目を拭った。
「キミはめっちゃモテるんだろうね。顔も良くて、毛もツヤツヤのふわふわで……そのモテ力分けてほしい」
また錯覚が見えた。自分の言葉に狸が得意そうに微笑んだ気がしたのだ。
ワンッ!
どこかから犬の吠える声がした。侑花は驚いて振り返った。
「こんなところに犬?」
誰かが犬と一緒に登山でもしたのだろうか。そう思いを巡らしていると、狸がぴょんと丸太を飛び降りた。茂みの方へと歩いていく。
「え、帰るの?」
侑花は立ち上がり、口を開こうとした。だが、言葉が思い浮かばない。姿がどんどん小さくなっていく。
「あのっ、また会おうね」
ようやく思い浮かんだ言葉を叫んだ。
狸は一度足を止め、こちらに振り向いた。そしてすぐ、たったと茂みの中へ消えていった。
侑花には頷いたように見えた。
少し走ると、スーツ姿に化けた浅井が木に寄りかかって待っていた。「気晴らしに山頂に行く」というと彼がついてきた。あの事件からまだ日は浅いとはいえ、父は心配性なのだ。
「お待たせ、浅井さん」
「お嬢!」
浅井が声をひそめてたしなめる。「狸のまま人間に近づいてはなりません。おれが後で頭領に怒られるんですから」
「父様はそんなことで怒らないって。それより見た? あのぬいぐるみとアクスタ。あの子絶対狸が好きなんだよ」
ぬいぐるみは手作りだろう、不格好だが狸への並々ならぬ愛が感じられて嬉しくなった。
「ファンサくらいしなきゃ、写真はNGだけど」
浅井は呆れたように短髪を掻いた。
「奴らはこの世で最も油断ならん生物です。気を許したばかりに狸鍋になった同胞はごまんといるんですよ」
青藍は肩をすくめ、地面に置かれたボストンバッグにもぞもぞ入った。浅井がそれを抱え、歩き出す。
「弟は人間のガールフレンドまでいたことがあるのに、わたしは彼らと喋ったことすらないもの。だから友達が欲しいの。ああいう子ならいうことないんだけど」
「……まあ、あの少女はおれから見ても大丈夫だとは思いますが」
「でしょう?」
青藍はふふふと笑った。バッグから顔を出し、山頂の方に振り返った。
「おにぎり、ごちそうさまでした」
2
「しかしまさか天狗とは、まこと愉快じゃのう」
小谷はチビを診ながらいった。最初は大人しく診られることを拒み、老医師の手に噛みついたチビだったが、青藍が怒るとすぐ大人しくなった。本当に母親だと思われているのかもしれない。
ここは小谷の開業している動物病院だ。名前はそのままずばり『小谷動物病院』という。近江大橋に近い湖沿いの住宅街にあり、近所の飼い主からは頼られ、犬猫からは恐れられている。院長である小谷政次は、町の獣医師として人間社会に溶け込みつつも、狸社会では近江狸一門頭領の後見人を務める大狸でもある。
青藍は診察台の上にちょこんと座り、辺りを見回した。物心ついた頃から度々通う院内は年季が入っているが、清潔さは保たれている。
「先生、わたしあれから何度やっても化けられないんです。そもそも化けられるようになったんですかね?」
三日前のことはよく覚えていない。気がついたらテントで寝ていたのだ。自分の身体に変化があったという感覚もない。
「それは大丈夫じゃろう……どれ、ワクチンを射つかの。痛うはない、大人しくしとれよ」
小谷は手元のトレイにあった注射器を持ち、一息にチビに刺した。チビの身体がびくりと震える。ベテラン医師による注射はすぐに終わった。青藍は耐え切った彼の頬を舐めてやった。
小谷は注射針を抜き、手袋を外した。
「まだ変化がうまくいかんのは、状況が特殊であったことと、一度化けただけで身体が慣れておらんからじゃろ。化けはじめは誰でそうじゃ、あとは練習あるのみじゃて」
チビが縋るような目をしてくっついてきた。こんな母親に甘える態度も残雪のようなものだ。成獣になれば必ず牙を剥く。アライグマとはそういう生き物だ。今回は青藍の診察ついでにワクチン接種に連れてきたのだが、いずれは然るべき対応を考えねばならない。飼うわけにもいかない、野生に還すわけにもいかない――これが人間の定めた「特定動物」という存在だ。
「……さて、少し聞かせてもらおうかの」
小谷は長椅子に腰掛けた。「今まで化けられなかったおまえさんが天狗に化けた。いち化け術研究家として、この事象は実に興味深いのでな」
「あまり覚えてはないですけど」青藍は母の方に振り返った。「母様は、何か覚えておいでですか?」
「あの時のあなたは――」
母は記憶を手繰るように眉根を寄せた。「かなり集中している様子だったわ。それから、前脚で地面を踏みつけた。その瞬間に変化が始まったわね」
「踏みつけとな……おまえさん、覚えあるかね?」
青藍は首肯した。脚を振り上げたところまでは映像として記憶に残っている。
「前に弟に聞いたんです、身体にスイッチを入れろって」
いうと、小谷は「なるほど」と顎鬚を撫でた。
「中国拳法の『震脚』のようじゃな。大地の反動を利用したわけか」
「それがたまたまトリガーになったってことですか?」
「そう見るしかないのう。なにせ、化け術なんてのは殆ど何もわかってないんじゃ」
「ケッタイな能力」
眉間に皺を寄せると、小谷は「まあそう怒るな」と苦笑した。
「……分かっておることは、まず化ける対象を思い浮かべる必要があること。そして、わしらの身体には脳とは別の神経の束のようなものがあって、それが細胞変化に関わっておる――のではないか、ということくらいじゃ。わしは仮にそいつを『変化器官』と呼んでおる」
小谷はペン立てから鉛筆を取り出し、くるくる回しながら脚を組み替えた。
「これはわしの憶測にすぎんが、おまえさんはその変化器官が今まで眠っておった、あるいは未発達だったかもしれぬ。だから普通の練習ではうんともすんともじゃったが、命の危険に晒されたことでついに目覚めた……普通そんなことはないはずじゃがな」
小谷は腕を組んで考え込んだあと、顔を上げた。「まあ、天狗なんてもんに化けた以上、おまえさんには相当な神通力があることは間違いない。何度もいうがあとは練習次第じゃ」
そうまとめられると、「わかりました」という他はない。小谷でそこまでしか分からないなら、もうお手上げだ。
「あの、他に必要なことはありますか?」
「それは青藍、自信じゃよ」
小谷はきっぱりいった。
「自信……」
一番自分が持ち得ないものだ。自信は自己肯定感と直結する。これまでの人生では自己を否定してばかりだった。化けられない化け狸に、自信など生まれようもない。
「おまえさんたちに化け術を教える際、わしは常々ポジティブであれ、楽しい気分であれと伝えてきた。変化にはそういった気持ちが密接に関わってくるからじゃ。でもおまえさんはいつも自信がなく……そうじゃな、檻の中に入っているように縮こまっていた」
彼は立ち上がり、後ろにある本棚から分厚い本を取り出した。鈍器になりそうなほど分厚く重そうなそれを診察机に置く。
「『化術考』という本じゃ。あの初代隠神刑部が晩年に著した、我らの術に対する解説本だがな」
小谷は抽斗から老眼鏡を取り出し、本を開いた。指を舐めてページを捲る。
「『化け術は、己を化かすことから始まる。即ち自らの可能性を無限とし、いかな森羅万象も我が心の宇宙の裡にあるとすれば、この世に化けられぬものはなし。山でも海でも化けてみせようという気概こそ肝要である』……要は、何にでも化けられると思いこめってことじゃな。根拠がなくても構わん、そいつは後からついてくる。そもそも我々妖怪に生物学的な根拠なんかないであろう?」
今まで「もしかしたら化けられないのでは」とずっと思ってきた。それがあの時は違った。「化けてやる、化けてあいつを吹っ飛ばしてやる」とひたすらに念じていた。
小谷は「そうじゃ」と呟くと、立ち上がって白い顎髭を撫でた。途端に煙が溢れる。そこには白衣を着て聴診器を付けた白ヤギがいた。チビが叫んで部屋の隅に飛び退いた。
「化け術とは面白い。こうすれば、この世から食い物が消えたとしても、草を食めば生き残れる。究極の適応であるな」
ヤギはメエと鳴いて、机の横に置かれた観葉植物の葉を一枚齧った。
「うむ、中々イケる」
「思いの強さが原因だったのなら、わたしってすごい遠回りをしてきたんでしょうね」
自嘲すると、白ヤギはゆっくり首を左右に振った。
「おまえさんは『突然』化けられるようになったと感じているだろうが、今までの練習や努力の積み重ねが結びついたのではないかとわしは考えるがね。ええと、英語でなんといったかな――」
小谷が母を見ると、彼女の口から "Break through" という言葉が出た。
「そう、それよ。なんにせよ、急成長の瞬間は人それぞれで、積み重ねあってのものだ。わしは、諦めなかったおまえさんの勝利だと思っとるよ」
そういって、ヤギに扮した老医師は横長の目を細めた。
「藍さんも三郎も、ようやく夢叶ったな」
振り返る。母は俯き加減に長い睫毛を伏せていた。
「……娘には、ずっと悪いことをしました。自信をつけさせるべきだったのに、追い込むようなことをして」
「まあまあ、気に病まずともええ。結果オーライじゃ」
「許して差し上げますよ、わたし、心広いですから」
ニヤリとすると、不意に身体が宙に浮いた。
「……何するんですか」
首根っこを摘む母を軽く睨む。
「なんとなくよ」
彼女はほんの少し相好を崩した。あの後から人が変わったように優しい。しばらくそう思っていたが、すぐ、まったくそんなことはないことに気づいた。
この人が自分を怒るときは、必ずといっていいほど怠けたり、馬鹿なことをしたりした時だった。常にシリアスだったわけではない。冗談をいえば冗談で返してくれたし、人間や社会のことも誰より話して聞かせてくれた。周りが「化けられないのなら教えても意味ないだろ」といえば、彼女の夫が「もうそのへんで」と抑えるほどけちょんけちょんに言い負かした。
そんな母を、「怖い」とテントに逃げて敬遠していたのは、他でもない自分自身だった。
「……ところで藍さん。あんたほどの者に傷をつけた狐は、まだわかっとらんのかいの?」
小谷は低い声で母に訊いた。暢気な獣医師から一門を憂う長老に風情が変わっている。母もそうだが、人間と狸の身分を巧みに使い分ける者は、纏う雰囲気でさえ瞬時に切り替えてみせる。これこそ化けているようなものだと、青藍は時々思う。
「夫が色々頑張っているようですが、向こうの会長にすら連絡が取れないみたいです」
「わしらも人間も、どうして平和を守り続けられないんじゃろうな……」
二人は眉をひそめた。大人の間で深刻そうな会話が始まろうとする中、青藍はたまらず口を挟んだ。
「あの、とりあえず下ろしてもらえます?」
3
「新入りか?」
後ろから声をかけると、坊主頭の少年は「はい」と答えた。声がわずかに震えている。
板間の突き当たり、襖の前で立ち止まると彼の背中を軽く叩いた。
「ここは中々厳しいが、続ければ得るものはある。頑張りなさい」
小声でいうと、少年は大きく頷いた。まっすぐに自分に向ける黒い瞳は純粋さに溢れている。彼らのような若者のためにも、おれが気張らなくちゃいけない――三郎はフッと息を吐いて気を引き締め直した。
少年が息を吸い込み、「頭領のお入りです!」と声を張り上げた。
襖が開かれる。三郎は座敷に足を踏み入れた。三〇人は悠々座れる宴会用の奥座敷に、人間に化けた近江狸一門の幹部らが一堂に介している。仏頂面を浮かべていた連中が、自分を見とめるなり立ち上がって頭を下げた。
三郎は彼らの背を横切り、上座に腰を下ろした。別の見習いが緊張した面持ちで湯呑みを三郎の前に置く。会議後には懐石が出てくる予定だが、喉の通りは悪いに違いなかった。
ここは市内にある料亭『割烹 高虎』である。百人以上の宴会にも対応できる、県下一、二を争う老舗の茶寮だ。数寄屋造の屋敷を構えて百年以上県人の舌を唸らせてきた懐石は、記念日などの会食はもちろん、近年では外国人観光客にも好評だという。その屋敷の広さを生かし、狸に限っては宿も提供している。近江狸一門は『高虎』を要人のもてなしや会議の場など、広く活用している。
なお、従業員は皆化けた狸だが、料理長及びメインの料理人は人間を雇っている。これは「人間ほど美味い飯を作る生物はいない」というオーナーの信条による。
「すまない、遅くなった」
三郎はざっと面々を見回した。一部の連中が射抜くような視線をこちらに向けている。人間で言えばまだ四十歳になったばかりの自分を陰で若造扱いしている年寄り連中だ。表向きは自分を立ててはいるが、きっと腹の裡では失策でもしようものなら自分が取って代わってやろうと考えているに違いない。
「皆、忙しい中集まってくれて感謝する」三郎は口を開いた。「三日前の緊急会議でも話した通りだが、狐が我らの縄張りである宇佐山を襲撃した。そのあとの調査で、この襲撃には同盟相手である江州妖狐会が関わっていると見て間違いないという結論が出た。したがって今後も何が起こるか分からない以上、我々の方針を決めておきたい」
三郎は茶を一口啜った。思ったよりぬるいが、その分飲みやすい。『三献茶』を思い出した。
「まずは改めて三日前のことだが――」もう一度湯呑みを傾ける。「アライグマ殺しについて、これまでも縄張り内で何度か同じようなことがあったそうだ。俺の耳に直で入ってきたのは三日前のやつのみだが、どれもかつての『狐狩り』を思わせる有様だったらしい」
左の一番手前に座る恰幅の良い男がフンと鼻を鳴らした。
「まるで戦の予行演習だな」
副頭領の佐々木がしゃがれた声で嗤い、煙草を咥えた。傍に控えていた若い付き人がライターを差し出す。スーツは白、腕時計は金無垢。狸はどんな時でも人間の真似をしたがる。
「害獣殺しはブラフよ。目立つ餌を用意してあんたを引きつけてる間に、奥方に化けてお嬢を攫うって寸法だ。くだらねえ狐の浅知恵だ」
「なぜ頭領の御息女を攫おうとしたのであろうな?」
向かいの席に座る長老格の男がオールバックにした白髪を撫でた。「高虎」のオーナーだ。
「そりゃ爺さん、人質がいれば戦が優位になる。その点お嬢なら申し分ねえだろ」
「我らの最大戦力を封じようとした、と。賢しらだが、危ういところであったな」
オーナーの言葉に頷いた。事実、相手の作戦は九割九分上手く運んでいた。青藍が土壇場で天狗に化けるという想定外も甚だしい奇跡がなければ、まず三郎の妻子は敵の手に落ちていたに違いない。
「敵は何匹か手勢を連れていたんだろ? とっ捕まえて吐かせられなかったのか」
佐々木の吐いた紫煙がゆっくり昇っていく。
「娘が全部吹き飛ばしてしまった」
駆けつけた時には狐の姿はなかった。傷ついた妻と気を失っている娘がテントの中にいただけだ。あの時ほど肝が冷え、怒りに震えたことはない。
マジの天狗だな、お嬢がいれば勝てるんじゃないか――部下がひそひそという。三郎は咳払いをした。
「皆、連中の行動に心当たりはあるか?」
誰もが小さく首を振った。そもそも狐と付き合いのある者が少数派だ。
「大方、この大津を奪い返してえんだろう」
佐々木は唇を歪めた。「元々は五〇年前のの大津合戦で、おれたち狸が勝利して得た縄張りだ。連中は諦めてなかったんだろう」
「だとすれば、なぜ今になって――」
「まあ頭領、そう気に病みなさんな。戦になれば勝利は見えてる。『狐七化け、狸八化け』の言葉通りよ」
「佐々木さん、戦争を起こすわけにはいかない。戦なんか誰も幸せにならない」
「だからってあんた、仕掛けてきたのは向こうだろうが」
そうだそうだ! イモ引くってんですか頭領!――副頭領派の野次が大きくなる。
「頭領、あんた怒ってないんすか?」
誰かがいった――聞き捨てならなかった。三郎は徐に立ち上がると、目を細めて声のした方を睨んだ。
「おれが怒っていないように見えるか?」
低い声を出すと、座敷が水を打ったように静まり返った。三郎は息を吐いて座り直した。こういう収め方はしたくないが、若造だから仕方ない。
「いざとなればおれも覚悟はする。だが、向こうのボスは戦争を起こすようなやつじゃない。何か裏があるはずなんだ」
右端に座る男に向かって声を張り上げた。
「小早川くん、坂本の動きはどうだ?」
少し頼りなげな男が弾かれたように立ち上がった。肩が上がり、背筋が丸まっている。彼は手に持った手帳を見ながら、おずおず口を開いた。
「ええと、湖北方面に探りを入れていますが、大きな動きはありません。日吉大社も西教寺も静かでした。虎姫光はどこかに姿をくらましている模様です」
日吉大社は昭和狐狸合戦に敗れる前から江州妖狐会の本拠地だ。「大津合戦」の後は、近江神宮を狸が守り、日吉大社を狐が鎮護することで湖国の化獣界は丸く収まってきた。
中でも西教寺は明智一族の墓所があり、光秀を敬する妖狐会の間では手厚く扱われている。会長である虎姫光は、殊更に光秀を厚く敬っていた。
ある日、三郎は光に呼ばれ西教寺に赴いた。呼ぶのはいいが、朝六時という時間には辟易した。寺に置かれた無数の風車が風に吹かれてくるくる回っていた。
その先、明智一族の墓所地に光はいた。屈んで一生懸命に墓石を磨いている様を、彼の言葉と共に今でも思い出せる。
わたしは光秀が好きだ。あの時代にありながら真面目で、妻を大切にし、民を想い、実直に主君を支えた。常々かくありたいと思うよ――。
考えれば考えるほど、あいつと戦争は結びつかない。
「ライオンに化ける女狐については、何かわかったか?」
「現在調査中です。あの、奥様によれば、そのライオンはちょっと灰色がかっていたということですよね?」
頷くと、小早川は「珍しい化け姿だと思います。その辺から探ってみますので」といった。
「ありがとう、引き続きよろしく頼む」
小早川はせわしなく一礼して座った。三郎は顎に手を当てた。
狐狸合戦の要因は、一も二もなく縄張りが絡む。昭和の戦いも、近江を巡る狸と狐の縄張り争いに端を発した。だが、今はもう違う。滋賀においては、狸も狐もそれぞれが安住の地を持って落ち着いた暮らしを営んでいる。縄張りがどうのこうのという時代でもない。
「本当に大津を奪い返したいからか……?」
ひとりごちる。五十年前、狸は狐に戦争を仕掛け大津を奪った。そのことを覚え、恨んでいる老狐もまだいるかもしれない。だが、なぜ今になってという疑問は払えない。
「なあ頭領」
思索に佐々木の声が割り込んできた。
「迂闊に事を大きくしたくねえ、というのは分かったよ。おれだって戦争は好きじゃあねえ」
渋い顔をして茶を啜る。「だがよ、仮にも頭領の娘が攫われかけたんだ。あんたはよくても、このままでは下のもんに示しがつかん」
「……つまり?」
「やる時はやらな、わしら滋賀狸の沽券に関わるということだ」
佐々木は挑むような目を向けた。三郎はまっすぐ彼の視線を受け止めた。
「じゃあ佐々木さん、戦争になったらあんた、おれと一緒に先陣切って戦ってくれるんだな?」
佐々木の顔から一瞬、血の気が引いた。しかし、彼は乱暴に湯呑みを置いて啖呵を切った。
「ああやってやるとも、おれぁこれでも『猛威牛』と呼ばれる男だぞ!」
近江牛の間違いだろう――声に出さず呟く。三郎は冷めた茶を飲み干した。
下座の方に座る男が手を挙げた。促すと、
「天京会に援軍を要請するのはどうですか?」と躊躇いがちにいった。
「京都か……悪くない案だが、あそこが出張ると事が大きくなりかねんからな」
化け狸の総本山たる「天京会」は、日本の狸の庇護者であるという考えが根強い。今回のことを奏上すれば血相を変え、福井や岐阜にも声をかけて四方から江州妖狐会を叩こうとするだろう。そうなると他県の狐も黙ってはいない。滋賀県内で済むはずだった小競り合いが、大戦争に発展する可能性もある。
「それに、仮に込み合うことになったとしても、あくまでおれらの問題だ。でかい組織の援軍を頼るようじゃそれこそ示しがつかん」
「たしかに、京都にでかい顔をされるのは勘弁ならんな」
さしもの佐々木も自分と同意見らしい。
「頭領」
高虎が目を向けてきた。「そもそも今の一門に、まともに戦える者がどれぐらいいるか。いくらあんたがいるとはいえ、あまりにも寡兵ですぞ」
もっともな意見だった。昔は一門も不意の戦に備えて兵隊を組織していたらしいが、それも先代が今の時代には不要と解散させた。
江州妖狐会が――光が本気で戦を考えているなら、用意周到なあいつは戦の準備を前々から整えているはずだ。戦争を想定している組織と想定していない組織がぶつかった場合、その結果は目に見えている。
まず戦を起こさせないこと――それを第一に動く。だが、この状況で有事を想定しないのは馬鹿のすることだ。最悪の事態も想定し、群れを守るための方策も練らねばならない。
三郎の頭の中に、ある顔がよぎった。この状況下でもっとも頼りになる者の顔だった――協力してくれればの話だが。
4
人間が浮気や不倫ばかりするのは、毎年パートナーを変えるオシドリを喩えて言葉を作ったからだ――そんな暴論をぶつ狸がいた。そいつは一夫一妻の代表格である狸で喩えとけば良かっただの、人間の性質は狐と同じで一夫多妻だから倫理で縛るのがそもそも無理なんだなど、好き勝手にぐだぐだ言い続けた挙句、働かない一人暮らしを一年も続けた。
最近、人間界は少子化で大変らしいが、狸は令和の御世も順調に産み増えている。子供は宝であり、他人の子供も積極的に面倒を見る風潮が根強い。それに加えて適齢期になれば、周囲の大人がどこからともなくおせっかいを焼いてくる。ぼーっと口を開けていても若者は大抵結婚にありつけるので、それが出生数の維持にも繋がっているのだ。
もっとも、青藍は絶対に誰かの厄介にはならないと心に決めている。生涯を共にする相手を他人任せにするなんてゾッとするし、自分の親を見れば、やっぱり好き者同士がくっついた方がは上手くいくと思っているからだ。
青藍は一年ぶりに実家に帰った。寝床が愛すべきテントから3LDKの小綺麗なマンションに変わったのはいいが、しばらく家の空気はよろしくなかった。
母は機嫌が悪い。口では言わないが、明らかに自分がどこの馬の骨とも知らない女狐と間違えられたからに決まっている。気持ちはわからなくもないが、この世で拗ねた女ほどめんどくさいものはない。いい歳してなにに腹立ててるんだかと、腹の中で何度か毒づいた。
事件三日後の夜、父は疲れた顔で帰ってきた。長い会議があったらしい。
ただいま、おかえりなさい――それきり会話はなくなった。
リビングは澱んだ雰囲気に満ち、天井が腐り落ちてきそうだった。母がソファで脚を組み無表情でコーヒーを飲んでいる中、向かいで小熊のように大きな狸が毛深い岩石みたく固まっている。責任を感じている父は、もはや人間に化ける気力もないらしかった。
流石に見てられなかった。青藍はソファに登って母と相対した。
「母様、父様も反省なさっているのですから。もう機嫌をお直しになっては?」
「怒ってはいないわ」
怒っている者の口調だった。
「そもそも、香水はわたしたちの鼻を惑わします。それを利用されたのですから、父様だけの責任ではないですよね」
母は腕を組み、天井を睨んだ。機嫌が悪いのは、自分の非に腹を立てているからだろう。そういえば、あれ以来母から香水の匂いが薄くなっている。
「……ええ、そうね」
「じゃあ、お互い反省は終わりということで。はい」
二人を促すと、父と母はいそいそと居住まいを正し、見つめあった。
「……こんなことになるなんてね」
「ああ、俺がもっとちゃんとしていたら……」
父は彼女が腕に巻く包帯をばつが悪そうに見た。
「――この子が無事でよかったということにしましょう」
そういって、母はコーヒーを持って父の隣に移動した。また暫し沈黙が降りたが、息苦しさはもうなかった。
呆れたくなる。本来はたったこれだけで済む話なのだ。
「母様、わたしカフェオレが飲みたいです」
「自分で作って。豆と牛乳なら冷蔵庫に入ってるから」
「この姿でどう作れっていうんですかっ」
「まあまあ、おれが作るよ」
疲れ切っていた父がようやく笑った。
父の作ってくれた蜂蜜入りのカフェオレをストローで啜りながら、青藍はリンのことを思った。唯一無二の親友。狐でありながら――狐だからこそ、こんな自分と仲良くなってくれた。
「父様」
青藍はいった。「リンのことはまだ何もわからないのですか」
「リンちゃんどころか、狐全体が坂本から姿を消しているそうだ」
『きつねや』ももぬけの殻だった、と父は付け加えた。「そういや、彼女はスマホを持っていたっけか?」
首を振った。そこまで人間になりきるつもりはあらへん、と前にいっていた。
「あの子だけでも連絡が取れれば良いんだけど」
母がスマホを見つめながら漏らした。リンは母にとってお気に入りの子で、母親代わりになっている節もあった。リンも昔からよく懐き、今は英会話も習っている。
狸と狐は相容れない、だから定期的に合戦を繰り返してきた――大人たちはそういうが、とても信じられない。物心ついた頃には、既に彼女とは友人だったのだ。化けられない自分を「いつかなんとかなる」「ぬいぐるみみたいに可愛い」と常に勇気づけてくれたのは、家族を除けばリンくらいなものだった。
玄関のドアの開く音がした。リビングに青雲が入ってきた。
「ただいま戻りました」
弟は三人分の「おかえり」を受け止めると、なぜか口元を緩めた。
「どうしたのあんた?」
「懐かしいな、と思いまして。家族四人揃っている光景が」
自分で言って照れくさくなったのか、弟は洗面所に向かっていった。
「もうこんな時間か、そろそろ飯にするか」
壁の時計を見やって父がつぶやいた。隅で寝ていたチビがハッと顔を上げた。
「あいつもしかして、『飯』という言葉に反応したんじゃないか?」
「まさか、青藍じゃあるまいし」
「わたしそんな食い意地張ってませんよ」
「え?」
父母は同時にこっちを見た。
「なんですか、息なんか揃えて!」
しばらくは臍を曲げてやろうかと思ったが、こんな時に限って今日の夕食は焼肉だった。父が「まあ、食え食え」と肉をどんどん青藍の皿に載せていくから、膨れっ面はカルビ一枚ごとに萎んでいった。隣に座る弟も肉や野菜を取り分けてくれたが、牛脂を食わせようとしてきた時は生焼けのエリンギを口にねじ込んでやった。
あらかた食べ終わると、満腹といった調子の父が口を開いた。
「実はな青藍、頼みたいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
彼はビールを飲んでから、背筋を正して口を開いた。
「旅行に興味はあるか?」