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#2 I'm Free

       6


「すまない、遅くなった」

 奥座敷に長髪を結った男が入ってきた。いつも通りの淡い水色の着流しに白の桔梗紋。瓜実顔に涼しげな表情は二枚目の一言だが、切れ長の目だけが時々周囲を、とりわけ人間たちを射抜くような鋭さを放っている。滋賀狐を束ねる頭領の目だった。

「先にもらってるぞ、光」

 三郎は向かいに座った虎姫光(とらひめひかる)に瓶ビールを差し向けた。コップに注いでやる。「奥方は?」

「手洗いに。緊張しているようだ」

 光は一口飲んでからコップを置いた。

「おれに? まさか」

「人見知りなところがあるんだ。特に狸には、妙に緊張してしまうらしい」

「カミさんを連れてきたほうがよかったかな」

 誘ってみたのだが、青藍を見にいく、と断られた。

「君のご令閨(れいけい)は忙しかろう。人間社会で仕事をしていると言ったら大層驚いていたよ」

「仕事が好きだからな」

「仕事が好き、か。うちのが聞いたら――」

 その時、静かに襖が開いた。三郎は視線を向け、思わず目を細めた。

 透き通るような色白の女がゆったりと歩いてきた。旦那に合わせてか、淡い色の着物姿に化けている。結われた髪は艶々として、八咫烏の濡れ羽もかくやと思わせるほど美しい。細めた赤い目は妖しい光を湛え、さりげなく施された化粧は素顔と調和して美しさを際立たせている。広い座敷は瞬く間に色気に包まれ、男性客が彼女をチラチラと見ては、自分の女房に詰られる。

 そんな周囲など気にも留めず、女は光の隣に立つと三郎に向かって深々と頭を下げた。

「おそうなりまして申し訳ございません」

 澄んだ声は音色を奏でるかのように美しかった。

玉妃(たまき)と申します。お会いできて光栄でございます、近江の頭領様」

「観音寺三郎です」

 立ち上がって会釈した。わけもなく緊張する。「お座りください。じき料理もきますから」

「前祝いをしていただくなんて、ほんにありがたいことで」

「まだ二人のなり初めもろくに聞かせてもらってないですからね。今日はその辺のことをじっくり聞かせていただきたい」

「まあ、それは恐ろしいこと」

 玉姫はクツクツと口に袖を当てて笑った。時代錯誤的ですらある話し方と所作だ。和装を好むこいつの隣ならそこまで違和感はないが。

 中居が鱒と鮒の刺身を持ってきた。スーツ姿の無頼漢と着物姿の夫婦はさぞ変に見えただろうが、彼女は老舗の料亭に相応しい静かな微笑みを崩さなかった。

 三郎はお品書きを玉姫に見せながら、

「何を飲まれます?」

 玉妃は少し目を通してから、冷酒を頼んだ。三郎はビールも一瓶追加した。

「しかし、ずっと独身を貫いてきたおまえが今になって結婚するとは」

「わたしもずっとそのつもりだった。だが三郎、人生とはわからないものだな」

「彼とどこで出会ったんですか?」

 今度は玉妃に訊く。

「うちは去年の暮れにこっちにきたんですけど、まあ右も左も分からへんところを、この人が大層良くしてくれはって――」

 彼女は言葉を切って、やや上目遣いに三郎を見つめてきた。その目つきに、三郎は一瞬緊張と戸惑いを覚えた。隣に妻がいたら危ないものだった。

「うちは粗忽者で、野山で暮らしてもネズミ一匹獲れへんくて、かといって人間さんに紛れてお足を稼ぐなんてもとても無理で、まあ困っとりましたんや。結局彼の家に転がり込んで、半年くらい経ってやろか、彼の方から縁組を言ってくれはりまして」

 袖から覗く左手の薬指には、しっかりと光るものがあった。旦那はというと、照れくさそうに泡の消えたビールを喉に流し込んでいる。

「結婚は縁ともいいますからね、お二人に良い縁があったということだ」

 三郎はビワマスを口に運んだ。サーモンに似た味と脂が舌の上でとろけ、柔らかい口当たりがビールに合う。緊張が幾分かほぐれていった。しかし、完全になくなったわけではない。

「もう、リンちゃんとはお会いに?」

 はにかんでいた二人の表情が、一瞬固まった。

「なんとなく避けられていてね」

 ややあって、光が口を開いた。

「そうか……」

 無理からぬ話だ。父が若い後妻を連れてきたとあれば、どんなに親子仲が良好でも気まずいだろう。玉妃の年齢はどう見繕っても人間でいう三十歳前後だ。まして、男を惑わすような色気が全身から麝香のように漂っている。青藍ならおそらく、英語と日本語の二刀流で父を罵倒するだろう。

「写真は見せてもろたんやけど、ホンマに別嬪でえらい驚きましたわ。気立のええ子らしいし、はよう会ってみたいんやけどねえ」

 玉妃が残念そうに眦を下げた。

「まあ、時間が解決してくれますよ。あの子ももう大人だから」

 やがて、竹籠に入った活き鮎と徳利が運ばれてきた。既に串が刺さっており塩も振ってある。これを卓の中央に置いてある赤外線オーブンで焼いて食うのだ。串に刺されてぴくぴくしている鮎を見ていると忍びない気分になるが、これがまた旨い。

「まあ、活き鮎とは」

 彼女の目に驚きの色が宿った。

「養殖ですが、なかなかいけますよ」

 三匹を串に並べ、焼き始めた。焼いている間に鮎の唐揚げと南蛮漬けも運ばれてきた。青藍にも食わせてやりたかった。 

 適当に酒を飲みながら、二人の話を聞いた。

 光は世間知らずな嫁、といったが、玉姫は教養に富む女性だった。毎日欠かさず新聞を読み、三日とあけずに図書館に通うのだという。最近の政治や世相にも明るく、それらに対する意見には度々唸らされた。

 二人を眺めながら、三郎は「随分惚れてるな」と親友の顔をぼんやり見た。酔ってきているのかもしれない。もちろん、一時は悲しみの淵にいた男が再び幸福を得たことは、友人として喜ばしいことには違いない。

 鮎がいい具合に焼けてきた。香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。玉妃はかなりいける口らしく、徳利はあっという間に空になった。

「こんな楽しい気分は久しぶり」頬がほんのり朱くなった玉妃が猪口を片手に上機嫌に笑った。「普段は光さん、忙しいいうてろくに相手してくれへんのですよ」

「おい、そんなことはないだろう」

 口では嗜めつつも、まんざらではなさそうだ。

 仲睦まじい友人とその妻――軽く酔った頭が、昔々の記憶を掘り起こしていた。

 三郎と光はほぼ同時期に結婚した。互いの祝言で媒酌人を務め、互いの披露宴で友人代表のスピーチをした。中でも思い出すのは、一門総出で行われた盛大な花嫁行列だ。白無垢に身を包んだ妻が近江神宮の境内を堂々行進する傍らには、緊張で何度も尻尾を飛び出させる間抜けな新郎がいた。それを後ろからしまいこんでくれた虎姫夫妻――すべてが目に焼きついている。

「おまえ、その調子で噛まずに誓詞を奏上できるのか」

「三郎さんなら大丈夫ですよ、あなた」

 記憶の中の声――虎姫玉姫もまた、曇りのない美しい声をしていた。おとなしく慎ましやかな女性だった。

 交通事故で妻を亡くした彼の心痛ぶりは筆舌に尽くし難い。以後、親友はどんな縁談もキッパリと断り続けた。

「おれは彼女だから娶った。他は考えられん」

 その言葉は疑いの余地もなかった。この男は生真面目で誠実だが、若干気難しいところがある。静謐と風流を愛し、色恋に耽るようなことは一切しなかった。組織の安寧と娘――妻の忘れ形見の養育にのみ心血を注いでいた。

 そんな男に、突然前妻によく似た女がやってきた。彼を愛し、夫婦の契りを交わした。今頃になって、信心深い男に神仏が褒美でもくれてやったのだろうか。

 三郎は自分の喉に手を当て、軽く咳き込んだ。

「どうかしたか?」

 光がいった。

「いや、小骨でも引っかかったかもしれん」

 なんでもない、という意味を込めて笑みを返した。


       7

 

 青藍は琵琶湖を歩いていた。ほとりではない。湖の真ん中を、水をかき分けながらのしのし歩いていた。

 青藍は巨大な狸の怪獣だった。四足歩行などとっくに止め、後ろ足だけで湖底を踏みしめている。背を伸ばし、辺りを睥睨することのなんと気分のいいことか。地に脚をつけるたびに水面が揺れ、外来魚も在来魚もパニックを起こして逃げ惑った。

 目の前に琵琶湖大橋が迫る。眼下に走る車は色とりどりの米粒のようだ。

 巨大な建造物を見ると、無性にむしゃくしゃしてきた。身体中の血が沸騰し、本能があれを壊せと訴えかけてくる。

 青藍は勢いよく体当たりをかました。湖にかかる橋はウエハースのようにぽきりと折れた。車がコンクリートの破片とともにどぷんどぷんと落ちていく。

 雄叫びを上げた。とても良い気分だった。だが、まだ足りない。壊し足りない――怒りが収まらない。

 視界に、対岸の街が見えた。壊しきれないほどの建物が視界に映る。

 進んだ。すぐに向こう岸に辿り着いた。岸壁に脚を乗り上げる。自らの足音が地鳴りのように響き渡る。興奮が歓びとなって全身を駆け巡る。

 腕を振り、身体をぶん回し、尾で薙ぎ払った。全てが崩れ、瓦礫と化していく。

 眼下で、蟻みたいに小さい生き物が逃げ惑っていた。そいつらの一部が煙に包まれ、もっと小さな茶色の毛玉になった。荒野のタンブルウィードのように無様に転がっている。

 青藍は毛玉に向かって脚を振り上げた。

 小さな悲鳴に目が覚めた。自分のものだと気づくのに数秒を要した。心臓がドクドク波打っている。怪獣になって暴れる夢なんて、夢占いならどんなことをいわれるのだろう。

 テントの中は、すでに陽光に照らされていた。青藍は犬のように前脚を後ろに引いて伸びをした。身体が凝り固まっているのは、運動不足と睡眠過多のせいだ。このままではいけないとわかっていても、染みついた怠惰は簡単に払拭できるものではない。

 ふと脇を見ると、怪獣のソフビ人形が目に入った。積まれた文庫本の傍で腕を振り上げる姿は、都会のビル街を突き進む光景を青藍に連想させた。

 あれほど巨大なものに化けるには、どれほどの神通力が必要なのだろう。架空の生物に化けることが変化における一つの最高到達点であるとよくいわれるが、怪獣はさらにその先をいくのだろうか。

 まあ、自分には関係のない話なのだが。

 背後でゴソゴソと音がした。振り返ると、小さなアライグマ――チビがクーラーボックスの中を前脚で漁っていた。口からドライフルーツの袋がぶら下がっている。

「こら!」

 一喝すると、チビはピィピィ鳴いてボックスの隅に隠れた。傷はどれも擦り傷程度、飢えを満たして元気は取り戻したようだが、アライグマらしい強気は微塵もない。昨日から常に何かに怯えているようだ。

「……悪かったって」

 空になったボウルにドライフルーツを入れてやると、チビはガツガツ食べた。青藍も残った中身をすべて喉に流し込んだ。

 目覚まし時計は午前八時を差していた。外に出てみると、柔らかな日差しが森に降り注いでいる。木漏れ日が清々しい。鼻をくんくんやると、春の匂いが鼻腔を満たした。

 チビがやってきて、自分の傍らに身体を寄せた。全幅の信頼を寄せているような、まっすぐな目が青藍を射抜く。母を見る幼獣の目そのものだった。

「まさか懐かれた? アライグマに?」

 無視して離れたが、チビは小走りでついてきた。一宿一飯に恩義を感じたのか、単純に親離れできていないだけなのか。どちらにせよ困った。自分のことで精一杯なのに、野生のアライグマを飼う余裕などない。なにより、特定動物の飼養は法律に反する。

 チビは青藍のことなどお構いなしに、その辺の匂いを嗅ぎ、土を掘り返して餌を探している。ただ青藍がそばを離れようとすると、全てを放り出してこちらに飛んできた。 

「あんた、親はどうしたのよ?」

 大体の動物の例に漏れず、アライグマは適齢になると母親から追い立てられる形で独り立ちする。チビの体格はもう大人に近いが、幼い顔つきを見るにまだ親兄弟と行動を共にしていたのかもしれない。

 しばらく歩いても、彼はころころとついてきた。途中で用を足し、虫を食い、好き勝手に動きつつも目は常に青藍を向いている。

「もう元気になったでしょう? 好きなところへ行きなさいよ」

 振り返っていった。チビは犬のように小首をかしげる――くそ、あざとい。

「おおい、青藍」

 振り返った。ジャケットを手に提げた男が右手を上げながら近づいてきた。傍らには黒のスーツ姿に化けた若い男が二人、付き従っている。彼らはボスの娘と目が合うと、軽く黙礼してきた。

「父様」

 父――三郎は柔和な顔でしゃがみ込んだ。細い目に後ろに撫でつけた髪、真っ黒なスーツを着こなした化け姿。いかつい見た目を装って、いかつくなりきれない内面を補っている。

「散歩か、気持ちいのいい天気だもんな……」

 父は青藍の背に隠れるアライグマを見て怪訝な顔をした。「ん? どうしたんだこいつは?」

 簡単に説明すると、父は「怯えたアライグマか……」と思案するような顔をした。

「父様はどうしてこちらに?」

「ここから少し離れたところで、妙なものを見つけたっていう連絡が入ってな。現場に向かうところだったんだ」

「妙なもの?」

「ちょうどよかった。一緒に行こう」

 父はそういうと、警戒するような目つきで周囲に視線を走らせた。「しばらくおれから離れるなよ」


 現場はテントからおよそ一五分、人はまず入ってこないだろうという一帯だった。草木が好き放題生い茂って鬱蒼として、狸も普段は訪れないような場所だ。あたりはほのかにイヤな臭いが漂っていた。

 先客がいた。屈んで何かを調べている白衣の男に、高校生風の男が一人、あとは付近の住人らしい大人たちが十人ほど。背を向ける白衣の男以外、全員が青藍をチラと見て何ともいえない目をした。あいつ、まだ化けられないの?――目は口ほどにものをいう。

「小谷さん、お疲れ様です」

 父が白衣の老人に声をかけた。彼は振り返ると右手を小さく上げた。

「おお頭領、早かったな。今あらかた視終わったところよ……」

 老人の目が青藍を見とめた。「お嬢か、変わりはないか?」

「はい、変わる気配もありません」

「大事無ければそれでよい。それよりおまえさんの背に乗っとるそいつは……」

 チビは途中から青藍の背の上にしがみついていた。爪が毛皮に食い込むたびに唸って注意するの繰り返し。母犬にでもなった気分だ。

「昨日、テントの前でうずくまってたんです。なんか懐かれちゃって……」

 小谷が近づき、青藍の前でしゃがみこんだ。背の上のチビがびくりと震える気配があった。

「怯えとるな……どう思う頭領?」

「生き残りかもしれませんな。証言は得られないですが」

「あの、何があったんですか?」

「そこからじゃよく見えんだろう」

 父はそういうと、両手でチビごと青藍を持ち上げた。チビがギャンと喚いた。

「これでわかるか?」

 高くなった視界から、青藍はあたりを見渡してみた。前方、木々の間に自分と同程度の物体が複数横たわっているのが見えた。

「なんなの、これ……」

 青藍は呻いた。同時に厭な臭いの正体もわかった。わかった途端、胃のものを吐き出しそうになった。


 赤黒い液体が草地にこびりついている。それらは殆ど固まっていた。死んでからそれなりの時間が経過しているらしい。腐乱していないのは唯一の救いといえた。もしそうだったら確実に胃の中のものをリバースしていただろう。

「妙というかなんというかじゃ」

 小谷はある死骸の首元を指差した。カッと見開かれた目――何かを凝視しているようで何も見ていない。

「首元をがっぷりと噛まれておる。イヌ科の肉食動物じゃな。ここにある死体、すべてに同じ噛み跡が見つかった」

「食われてはないみたいですね」

「ああ、肉が食いちぎられた形跡はない。野犬の仕業にしてはおかしいわな」

「アライグマだけじゃないですね」

 父は前方を指さした。アライグマよりも細長いものが血溜まりの中に横たわっている。

「死骸は全部で六つ、アライグマが六匹にハクビシンが三匹じゃ。死因は敢えていうなら頸部損傷等による出血性ショック」

 父は顎に手を当てて俯いた。考える時の癖だ。

「狐、ですかね」

「おまえさんもそう考えるかね」

「イヌ科と思われる獣の咬傷痕、喰われていない死骸……食う以外の目的があって殺した。知性ある者の仕業です」

「人間ならまず道具を使う。狐の仕業と考えるのが妥当だの」

 父は振り返って皆を見まわした。

「誰か、鼻のきく者はいるか。犬に化けてにおいを調べてみてくれ」

「おれ、やります」

 茶髪の少年が一人、誰よりも早く右手を挙げて名乗り出た。その顔を見て青藍は顔をしかめた。 

「奏太、いけるか?」

「任せてください」

 少年――浅井奏太は自信ありげにうなずくと、手を地面につけた。途端に栓の抜けるような音と共に白煙が彼の体を包み、すぐに消えた。目つきの悪いドーベルマンが一声吠えた。

「よし、頼む」

 ドーベルマンは熱心に臭いを嗅ぎ始めた。彼を皮切りに何人かがシェパードに化けると、あたりは警察犬が出動した事件現場の様相を呈し始めた。

「頭領、おまえさんもクマに化けたらどうだ? あれは犬の十倍鼻が利くぞ」

「何もわからないなら試してみますよ」

 父はいうと、しゃがんで青藍をおろした。「おまえも鼻は鋭いほうだろ、ちょっとやってみてくれないか」

「犬には劣りますよ?」

「なに、人手は多い方がいい」

 父にそういわれたらやらざるをえない。頭領の娘らしいことが何一つできていない負い目は深い。

 青藍は目を閉じ、あたりに漂う死臭を嗅ぎ分けた。数歩進んでは止まるを繰り返しながら鼻をひくつかせる。草と土――山の匂いに血と死の臭気、そしてここに集まっている狸のものまで。臭いは今あるもので混然として、あるはずの痕跡は捉えようがない。

 あまりに集中しすぎて、固いものに頭をぶつけた。唸り声がした。

「おい、何してんだよ」

 ドーベルマンがギロリと睨んでくる。「ようやくなにか捉えそうな気がしたのによ、吹っ飛んじまったじゃねえか」

「……ごめん」

 顔を逸らして呟いた。鼻を鳴らす音が聞こえた。

「化けられねえくせに出しゃばんなよ」

 奏太は吐き捨て、人間のような舌打ちをした。

 頬がひくついた。腹の底から熱いものが込み上げてきた。化けられない無力さ、惨めさ――世間と関係を断つことで避けてきたものが久々に青藍を苦しめる。体が鉛のように重くなり、そのまま地面に沈みそうな感覚が青藍を苛んだ。

 こういう時ほど、化けられたらと願わずにはいられない。あの夢の怪獣のように、踏み潰してやりたくなる。

 チビが下りてきて、青藍の頬をそっと舐めた。彼に微笑んでから、一緒に離れた。

 狐も人間も、アライグマでさえも、狸と比べたらよほど最高だ――心の底から思う。


 化けた犬の鼻でも成果は出ず、大人たちはまた協議に入った。しばらくしたのち、「とりあえず弔ってやろう」と父が結論を出して、皆がそれに同意した。何人かがショベルに化け、それを人に化けた者が握って地面を掘る。どちらにせよ、青藍の出る幕ではない。

「あなた」

 埋葬が終わりかけた頃、木立の間から母が現れた。父をはじめ、皆が彼女に驚きの目を向けた。

「一体どうしたの? 何の騒ぎ?」

「ちょっと込み入ったことがあってな。君こそどうしてここに?」

「青藍を探しにきたの。テントにいないものだから」

 父が事情を説明すると、彼女は眉をひそめて青藍を一瞥した。

「これが狐の仕業だとしたら、何を企んでいるかわからないわ。この子、家に連れていくわよ」

「……そうだな。頼むよ」

 青藍は静かに天を仰いだ。まさか、こんな形で強制送還をくらうとは。

 観音寺家は大津市内の住宅街にあるマンションの五階に住んでいる。大家は顔見知りの狸なのだが、そのマンションには人間も住んでいる。したがって化けられない青藍が外に出る方法は、鞄などに入って家族に運んでもらうしかなく、不自由極まりなかった。

 母が近づいてくる。ほのかに漂う香水の匂い。もはやこの人工的な芳香こそが、彼女の個体としての匂いなのかもしれなかった。

「わたしなら大丈夫です、戻りたくありません」――喉まででかかったが、皆の手前飲み込んだ。

 母は手を伸ばし、青藍を抱き抱えようとした。

 シャアッ

 チビが吠えた。四肢がぷるぷる震えているが、精一杯といった表情で母を睨みつけている。

 母は一瞬だけ顔を歪め、舌打ちをした。ポーカーフェイスな彼女にしては意外だった。

「母様、自分で歩きますから――ほら、チビ」

 促すと、チビは青藍の背によじ登ってしがみついた。さっきよりも震えがひどい。

 大丈夫だから――青藍は小声で囁いてやった。


 テント近くまで戻ってきた。縄張り一帯は不気味なほど静寂している。

「なんか静かですね」

 辺りを見回しながら、鼻をひくつかせる。狸の気配は毛ほどもない。

「そうね」

「皆気味悪がって出かけちゃったのでしょうか?」

「かもしれないわね」

 実家に戻ってからのことを考えると憂鬱で仕方がない。息が詰まった挙句、窒息するかもしれない。

 テントの前まで来ると、青藍は振り返った。

「あの、荷物を取りに行ってもよろしいですか?」

「はやくして」

「すぐ終わりますから」

 テントに視線を戻したその時、中から何かがヌッと出てきた。青藍は悲鳴をあげた。正体を見て、今度は飛び上がった。

「か、母様!?」

 背を屈めて出てきたのは母だった。同じ姿、同じ匂い、紛れもなく観音寺藍である。娘が唖然とするのをよそに、彼女はどこかほっとしたように柳眉を下げた。

「青藍、どこに行ってたの?」

 答えずに振り返る。木立の間で、今の今まで母と思っていた誰かが自分たちを見て立ち尽くしていた。

「誰?」

 後ろから母がいった。

「あなたこそ誰?」

 前から母がいった。

 母と偽母が睨み合う間で、青藍はただただ狼狽えた。普通は匂いですぐにわかる。しかし、両者から香ってくるのは全く同じパフュームの香りだった。

「Okay、いいわ」母の声。テントの方から。「ワンツースリーで化けの皮を剥ぎましょう。姿と匂いは誤魔化せても、元の姿はそうはいかない」

「望むところ」

 木立の方の母が眼鏡の鶴嘴を持ち上げた。

「青藍――」

「合図して」

 母と母が交互にいった。もうわけがわからなくなってきた。

「……ワン、ツー――」

 スリー!

 左右から化煙が発生した。一方は白煙、もう一方は――黒煙。

 怖気が全身を駆け巡った。青藍は白煙の方に走った。

 煙はほぼ同時に風に巻かれて消えた。テントの前で真っ白の狸――母がおっかない目で前方を睨みつけた。青藍はその背に隠れた。震えた声で呟いた。

「わたし、ずっと狐についていたなんて……」

 木立の間――気位の高そうな狐が、こっちを見下すように首をもたげていた。


 その女狐は青藍にとって初顔だった。キッとしたまつ毛の長いつり目に、無駄な肉の一切ない容貌は、綺麗だが性格のきつい女を思わせた。

「少し想定外だけど、まあいいわ」狐はいった。「欺くためとはいえうんざりしてたの、狸の化けの皮を被るだなんて」

「よかった、気まぐれに娘の顔を覗きにきて」

 母がきつい声でいい放つ。頭領の妻は肝が据わっている――場合によっては夫以上に。「何が目的?」

「あら、恐ろしい」冷ややかな声。「でも、おばさんとはいえ油断はしないわ。子を守る母ほど厄介なものはないもの」

 狐は小さく笑みを浮かべると、不意に背を向けた。あまりに想定外の行動だった。母は一瞬、虚を突かれた。

 周りから黒煙が上がった。林立していた木々が煙と共に消え、煙の中から狐が牙を剥いて飛びかかってきた。

 瞬間、視界が白く烟った。青藍の身体が浮き上がった。首根っこを何かが掴んで――いや咥えている。

「母様っ」

 オオカミに化けた母が自分を咥えあげていた。青藍は放り出されそうになったチビを必死になって咥え込む。オオカミが狸を、狸がアライグマを咥える光景。中々見られるものじゃない。

 オオカミの尻尾は短く、体毛は狸そのままだった。彼女にしては不完全な代物だった。

 だが――。

 タヌキオオカミはもう一度飛びかかってきた狐をサイドステップでかわした。地面を蹴り、鳩尾に体当たりを浴びせる。体格で劣るそいつは茂みの中に突っ込んだ。

 ハイエナに似たまだら模様の獣が、いつの間にか四方を取り囲んでいた。リカオン――サバンナの猟犬。本物は集団で獲物を襲い、生きたまま肉を貪り食らう。

 母の荒い息遣いがすぐ後ろで聞こえる。母らしくない焦燥が息遣いに込められていた。

「な、なんなのあんたたち!?」

 青藍は叫んだ。据わった目で母を睨んでいたリカオンたちの視線が自分に注がれた。

 瞬間、オオカミは右前方の個体に飛びかかった。前脚を叩きつける。眉間にまともに食らったリカオンが悲鳴をあげた。すぐに斜め後ろにいた二頭が同時に突っ込んでくる。母はその場で飛び上がると、二頭は互いの頭を打ちつけた。すかさず両者を前脚で踏みつけて地面に押しつぶす。二頭は声もなく昏倒した。

 最後の一頭は涎を飛ばして噛みついてきた。母は身体を捻ってかわし、その勢いで馬のような後ろ蹴りを鼻梁に叩き込んだ。リカオンは勢いよく飛び、木にぶち当たって伸びてしまった。

 涎が青藍の首を濡らした。オオカミは真夏に走り回った犬のように忙しない呼吸を繰り返す。四頭のリカオンはもはやすでに形もなく、代わりに若いオス狐たちが転がっていた。

 獣同士の喧嘩――凄まじさに身が震えた。

「母様……」

 母は青藍の首根っこをじっと咥えて離さない。彼女は自分を疎んでいるのではないか――とんでもない思い違いだった。

 ガサッ――

 上から葉の揺れる音がした。鋭い寒気が青藍の全身を貫いた。

「母様、上っ!!」

 巨大な影の塊が降ってきた。小さく鋭いものがきらめくのが見えた。母が地面を蹴った。息の上がった身体――動きが遅れた。

 悲鳴が森に響いた。青藍は宙を舞い、地面に投げ出された。ゴロゴロと転がり、茂みに突っ込んだ。全身に痛みが走る。歯を食いしばって茂みを抜け出す。チカチカする視界の中、チビが傍らで目を回しているのが見えた。

「チビっ」

 駆け寄り、小さな身体を咥え上げた。チビはブンブン首を振って意識を取り戻した。大きな怪我はないようだ。

「母様は……」

 あたりを見回し、目を見開いた。

 テント脇の茂みで母が倒れていた。化けの顔が剥がれ、顔を歪めている。右の肩から前肢にかけ、その美しい白い毛並みを鮮血が染めていた。

 思考が凍りついた。全身の血が逆流する。不快感が胃からせり上がってくる。青藍は喘ぎながら母に近づいた。

「母様……母様っ」

「これしきで死にやしないわ」

 振り返った――息を呑んだ。

 ボサボサの鬣、目が眩む体躯、盛り上がった筋肉――ライオンが青藍を見下ろしていた。

「やってくれたわね。若い子たちが全員のされてしまうなんて」

「なんでこんなことを……」

「いい子だから大人しくしててちょうだい。もっとも――」

 ライオンは舌で頬についた血を舐めとった。「あなたには何もできないわよね、化けずの青藍」

 頬が痙攣した。鳩尾が熱くなる。

「逃げて……」

 掠れた声がした。母だった。「走って。父さんに伝えて」

「逃げたら母の命はないと思いなさい。あなたはわたしと一緒にくるの」

 ライオンが釘を刺してきた。

 青藍は母に振り返った。狸に戻った母は顔を歪めながら、まっすぐに青藍を見つ返す。同じ色の瞳。

 凍った思考が溶け、蟠っていたものが溢れてきた。

 母が苦手だった。一緒にいればあまりの差にうちのめされるから、遠ざかることを選んだ。厳しい性格にも辟易した。

 母が嫌いだった――軽蔑したことは一度もない。自立して、美しく、家族を愛する女性。それは青藍の理想の将来像と今でもぴったり重なっている。

 そう、母のようになりたかった。少しもそうなれない自分が一番嫌いだった。

 身体が震え始めた。お腹の奥底あたりが熱を持っている。怒りの火にどんどん薪が焚べられていくのを感じる。

「チビ、母様をお願い」

 チビは理解したのか母に寄り添った。青藍は立ち塞がるように前に出た。百獣の王を精一杯睨みつける。

「腹でも括ったの?」

 ライオンが嗤った。

 今更化けられるとは思わない。そんな都合の良いことが起こるはずもない。

 だが――狸にとって家族は絶対だ。家族を傷つけられるのは許しがたい。

 姿勢を低くとった。牙を剥いた。

 これでも頭領の娘だ。わたしは化け狸ではないかもしれないが、わたしは獣だ。獣とは、いざという時は雄も雌もなく牙を剥くのだ。

 ライオンは構える青藍を一笑に伏した。

「おかしい。化けられないからってそのまま戦おうというの?」

 四肢に、今までにない力が入っている。何メートルでも飛び上がれそうな気がした。深呼吸すると、胃の収縮までが伝わってくるようだった。

 イメージする。攻撃をかわして懐に飛びこみ、喉笛に喰らいつく。あるいは目を狙う。どんな屈強な動物にも、急所はある。

「前言撤回……窮鼠も猫を噛む」

 ライオンが笑みを消した。上体をややかがめ、殺気のこもった目をこちらに向ける。

「青藍っ」後ろから母の声が飛んできた。「You can be anything!」

 なんにだってなれる――呪いの言葉。

 全身がカッと熱くなった。今までにない感覚だった。身体がむず痒い――ムズムズしている。

 化ける。

 息を吸い込んだ。吐いた。

 アドレナリンが溢れて全身を駆け巡る。爆発のような熱気が横溢する。毛が逆立つ。

 化ける――

 全身に力を込めた。まだ足りない。まだ力が伝わらない。

 反発、呼吸――かつて聞いて回った化けるコツ。咄嗟に頭によぎった。

 息を吸い込んだ。右の前脚を浮かせた。ライオンが怪訝な目をした。

 青藍は叫んだ。声にならない声――一八年、溜めに溜めたフラストレーションの全てを地面にぶつけた。

 あいつを倒せるもの――それだけははっきりと思い浮かべながら。

 叩きつけた脚から痺れが全身に走った。

 瞬間、身体中の感覚がシャットアウトした。感覚が麻痺し、意識に霞がかかったようにぼやけ、曖昧な思考の中であらゆるものが溶けて混ざり合っていく。たゆたうような心地の中で、残った意識が猛烈に変化する自分の身体をおぼろげに感じていた。

 進化の過程を早回しにするように、細胞が分裂しては形を成していく。セルの一つ一つがほどけ、踊り、変わり、そして結合されていく。

 前脚だったものから毛がなくなり、白い肌と五本の指が形作られた。後ろ脚にはしなやかな毛のない脚が現れた。獣の顔からマズルが引っ込んだ。急速に髭と毛が失われ、代わりに切り揃えられた髪に変わっていく。

 間延びしていた世界が急にスピードを上げた。

 

 ライオンは濛々とした白煙に咽せ込んでいた。彼女にとっておよそ想定外の事態が二つ同時に発生していた。もはや「厄介」の一言では片付けられなくなっていた。

 一つは、化けずの青藍と呼ばれる小娘が、今まさに化けていること。

 もう一つは、経験したことのない膨大な化煙が発生していること。化ける対象の質量に比例して放出するといわれているそれを鑑みるに、あの娘は何かとてつもないものに化けようとしている。

 観音寺青藍の出した化煙は、今や周囲を霧のように包んでいた。

 その中に、しゃがんでいる人型のシルエットが浮かび上がった。彼女は目を凝らし、そして眼を疑った。

 人影から翼が生え、一度大きく羽ばたいた。

 にわかに風が巻き起こり、煙をかき消した。

 

 落ちたブレーカーを上げたかのように、五感が瞬時に全ての感覚を取り戻した。最初に認識したことは、自分がしゃがんだ状態で、瞼を閉じていることだった。

 目を開けた。世界が広がった。鬱蒼とした森。視界の隅には愛すべきテント。前方にはライオン。母を傷つけた憎き女狐。

 全てが明瞭で、色鮮やかだった。

 目線を落とす。左手を地面についていた。五本のしなやかな指、長く鋭い爪。拳を握る――指の一本一本を曲げ伸ばしできる。

 右手に羽扇のようなものを握っていた。鴉の羽根でできているらしいそれは鈍い輝きを放っている。顔を覆えるほど巨大なくせ、羽毛のように軽い。

 踵に軽く力を入れた。二本の脚がしっかりと上体を支える。

 青藍はその場で立ち上がった。

 風が素肌をなぶった。毛のない肌に当たる風の感触は新鮮だった。冷たい風が薄い着物越しに全身を吹き抜けていく。肌寒いとはこういう感覚かと思った。

 唸り声が聞こえた。青藍は考えるよりも先に右手を――扇を天に掲げた。今までずっとそうしてきたかのように、しっくりとくる動作だった。

 ライオンが飛んだ。牙と爪が光を反射してきらめいた。その動きは思ったよりも遅く見えた。

 青藍は扇を振り下ろした。

 その時、全ての音が止んだ。時さえも凍りついた。

 時が動いた――耳を聾する轟音がやってきた。

 目の前にあるライオンの顔が歪んだ。見えない壁に当たったかのように顔が平らになった刹那、身体がひっくり返った。

 獅子は遥か空を目指して舞い上がっていった。その姿が見えなくなると、体から急速に力が抜けていった。


       8


 夢を見た。昔見たことのある光景だった。

 青雲が小学校に通い始めた頃。すなわち、どうしようもない劣等感に追いやられていた頃。

 夜、一人で森の中を歩いていた。沈んだ気分の赴くまま、かなり奥まで分け入っていた。周りには人気も獣気もなく、木々のざわめきだけが時々鳴り響いては心細さをあおり立てた。

 森の中を風が通り抜けた。ガサガサと森全体が鳴いて、ふと、すべてが静かになった。

 木々の隙間、月の光が差し込んでいた。青藍は空を見上げた。

 満月をバックに何かが浮かんでいた。最初は鳥かと思ったが、鳥は飛べても浮遊はできない。

 やがて、浮遊しているものが月光に照らされた。青藍は動けなくなった。

 人が浮いていた。背には翼らしきものがあった。手には扇に似たものを持っていた。

「天狗……」

 震えた声で呟いた。

 天狗は堂々と空に鎮座しており、月すらも従えているようだった。

 どれくらいの間、そうしていただろう。目がひどく渇いた。まばたきをすることも忘れていた。ほんの一瞬、目を閉じてしまった。

 目を開けると、人影は消えていた。青藍はしばらく呆けたあと、引き返した。

 縄張りに戻ると、家族がいた。

 父は錯乱しかかっていた。青雲は泣きじゃくっていた。母に本気で怒られた。今思えば、彼女が感情を露わにしたのはあの時だけだった。

 青藍は謝りながら、「天狗を見た」と話した。誰も信じてはくれなかった。鳥か何かと見間違えたのだろう――お決まりの文句を返されるだけだった。

 絶対に違う。あれは天狗だった。こんな世の中になっても、彼らはまだ生きているのだ。

 おかしいはずなどない。だって、この世界はそもそも、化け狸という妖怪が暮らしているのだから。


 目を覚ました。テントの中に三人の人間――いや、人間に化けた狸がいた。家族だった。

 父が、母が、弟が、座布団に寝転がる自分を覗きこんでいた。不安げな瞳がパッと見開かれた。

「良かった、青藍……」

 父が安堵のため息を漏らした。

「今、何時ですか……?」

 呻いた。頭が鈍く痛む。寝過ぎた時の痛みに似ていた。

「夜中の2時だ」

 父は優しくいった。「半日眠っていたもんだから心配したぞ」

「何が、どうなって……」

「姉上、何かお飲みになりますか?」

「……カフェオレ、ホット」

「しばしお待ちを」

 青雲は微笑むと、足早にテントを出ていった。いつもはパシると嫌な顔をするのに。

「よく化けたな、青藍」

 青藍は目を瞬かせた。化けた――わたしが?

「わたし、化けたのですか?」

「確かに見たわ」

 母の方を向いた。右肩に包帯を巻いている。痛々しいが、化けられる程度には回復したらしい。

 ホッとした。母が無事ならなんでもいい。

「何も心配するな。今日はゆっくり休みなさい」

 父が穏やかな顔をした。母が手を伸ばしてきた。背中をさすられる。青藍は彼女の膝に横たわった。すべてがふわふわとして、まるで現実感がない。まだ夢を見ているのか。

 夢ならば覚めないでほしいと思った。家族の喜ぶ顔を見るのは久しぶりだから。

 やがて、青藍は眠りに落ちた。


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