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#1 I should be so lucky

 いずれの御時にか、人間洛中にて数多栄しころ。

 物怪、日出づる国に跳梁跋扈せり。中でも狸と狐ぞ数多暮らしける。

 両者、自らを「化獣(ばけもの)」と呼称せり。

 化獣、己を森羅万象に変じる神の如き技活かし、人に化けたびたび都に繰り出さん。殊更に狸、人への好奇心抑え難き者共なり。臆病なれど、美味なる飯への執着甚だ深く、化け術の探求に余念なし。他方の狐、喧騒嫌い、本来の住処たる山林愛せど、狸に負けじと変化磨きける。

 化獣、いつしか知能寿命、人違わぬもの持ちたり。中には獣なること捨て、人として生涯を全うせし知恵深き者まで現れたり。かの陰陽師が母、狐か狸かははっきりせずとも、化獣であることに疑いはなし。

 やがて戦乱の世、洛中に訪れたり。大火、都を遍く焼き払い、化獣慄いて洛外に逃れき。眷属の血、これを契機とし全国に広まるに至れり。

 人の闘争、獣も妖怪も呆れ果つるほどなり。この頃の日本、血生臭きことこの上なし。

 然れども領土争い、人間のみにあらず。大いに産み増えた化獣もまた、徒党組み、縄張り巡りて相争いけり。

 狸と狐の縄張り争い――即ち「狐狸合戦」勃発す。

 似た者同士、時として交流せん。

 近江国の観音寺なる一族、高度な化け術操り六角義貞の南近江平定に尽力せしも、ある怪物に敗れ西方に逃れん。他方、同国坂本を治めし江州妖狐会、域内を仁政せし明智光秀と親交温め、ついには化け術を以て羽柴の追手退けたと伝われり。

 長き戦乱、ある古狸の手により幕引きとならん。狐狸合戦、寛永の代以後これなき。思えば近世なる時代、妖怪という名の不思議、人が受け容れていた最後の日々なり。

 やがて舶来の蒸気船、浦賀に来航す。怒濤の政変起こり、国開かれ、文明開化の音とどろきて、科学世界を席巻す。

 人間が縄張り争い、国から世界へ発展せり。軍靴の音高らかに、忌まわしき銃火、人も獣も撃ち抜きたる。遂には禁忌の炎生み出し、後に黒い雨降りたる。人も獣も、遍く焼き尽くす恐ろしき炎なり。

 戦終わり、都、ただ焼け野原が広がれり。化獣、在りし日の街並み思い馳せしも、復興無謀なることを悟れり。

 しかし人の精神、不業不屈が如し。更地、新たなる都となりて、かつてなく栄える時来たり。獣の如く産み殖え、「ニュータウン」と称した縄張り敷くべく、獣の住まい断りなく切り崩しける。

 森消え、山削れ、河川汚濁の一途を辿れり。物怪潜みし夜の闇、人口の灯りが掻き消したり。

 然り、科学は不思議と相容れぬ。そも妖怪の力支えたは、人間が彼等の存在を信ずる故なり。その心、科学綺麗さっぱり洗い流せり。

 力失いし妖怪、驚くほど脆弱極まれり。河童は溺れ、天狗は墜つ。数多いた妖怪見る影もなし。

 さて化獣、人間に迎合したが故、唯一生き残れり。しかれども減った住処を前に窮す。化獣ども、領土奪うため各地で戦起こす。これすなわち「昭和狐狸合戦」なり。とりわけ滋賀の戦甚だ激しきことこの上なし。

 双方多大な犠牲を払い、年の暮れ、ついに狸勝鬨上げん。

 化獣、戦に明け暮れ、年月大いに経過せし。気がつけば街、大いに変わり、煌びやかな電飾と飯の香り、大いに狐狸の目鼻奪いけり。この頃の人、泡沫の狂騒に踊り狂えん。

 やがて狸、本能に刻まれし好奇心抑え難く、化け術駆使して人間に紛れるものなり。やや遅れて狐も文明に迎合す。

 戦の遺恨、酒精と共に雲散霧消するに至り。


       *


 我ら化獣、これからは相争うことなく手を取り合い、化け術の継承と子孫繁栄、ならびに人間との共存共栄を旨とせねばならぬ。子々孫々に至るまで和を以て貴しと為し、さかうること無きを宗とせよ。

 無論、ゆめゆめ人前で化けの皮を剥がさぬよう心得よ。人間は科学を信奉するあまり、超常なる神秘を受容できなくなった。江戸っ子や田舎の百姓が「こいつは化かされた」と笑い話で済ませてきた我らの化け術も、現代人には恐ろしい怪異にしかならないのである。我らの能力が明るみに出た暁には、単に駆除されるよりも恐ろしい事態が待っているであろう。

 我らは唯一生き残った妖怪としての責を果たさねばならぬ。この国最後の「不思議」を司る存在として、長く短き生を全うせねばならぬ。

――平成3年3月22日 比叡山頂にて

『化獣史』まえがきより


 かつて長老たちが下界を見渡した比叡山は、人間の線引きによって滋賀県と京都府に跨っている。そして彼らの知らずところとして、化獣もまたかの名峰を分け合っている。滋賀県側は我々「近江狸一門(おうみたぬきいちもん)」の管理下だ。

 近江狸一門は、その名の通り滋賀県に住む狸をまとめあげる組織だ。京都にある化け狸の総本山「天京会(てんきょうかい)」とは立地的に関わりが深く、実質傘下のような扱いを受けている。

 我ら近江狸は、一言でいえば地味だ。なぜなら隣に歴史も規模も桁違いの天京会――京都狸の縄張りがあるからだ。数も土地も、彼らには及ぶべくもない。

 それでも、叡山の半分と日の本一の大湖・琵琶湖を預かる者として、近江狸一門の頭領は今日もその身に背負った責任を全うするために東奔西走している。同胞のため忙しく働く一方で家族をないがしろにすることはなく、妻子が風邪を引いたともなれば、精のつく飯と医者を抱えて帰ってくる。

 夫婦仲は良い。むしろ若干引くほど良好だ。個人主義な狐と違い、狸は家族を大事にする。子育ては共同、不倫浮気の類とは無縁である。もっとも、うちの父がそんな不貞を行ったら、翌日には無惨な毛の塊が琵琶湖に浮いていることだろう。

 では、そんな夫婦の子供たちは狸としてどう生きているかを、これからご覧にいれよう。狐はともかく、狸は伝統的に礼節を重んじるものであるから、まずは名乗らせていただきたい。

 

 我が名は近江狸一門頭領、観音寺三郎(かんのんじさぶろう)が娘、観音寺青藍(かんのんじせいらん)である。

 非常に不本意ながら、周囲からは「化けずの青藍」なる異名を頂戴している。



       1


 滋賀は京都と岐阜の間にある。古くは江州(ごうしゅう)、近江国とも呼ばれた。古代から交通の要衝として栄え、琵琶湖は京阪神の重要な水源としてはもちろん、淀川まで繋がることから近代までは水運事業も盛んだった。歴代藩主は徳川の重臣である井伊家がつとめ、居城であった彦根城は国宝に指定されている。

 古くは織田信長が安土に城を建て、統一事業の拠点とした。もしあの裏切り金柑頭が乱心しなければ、きっと滋賀県が今の首都だったに違いない――滋賀県民はそんな歴史のIfを一度は口にするという。

 天下の中心は紫香楽宮以来逃しっぱなしが、JR本線が貫く県南東部には今日(こんにち)、たくさんの人間が暮らしている。大津から京都駅までは電車で十分、新快速を使えば大阪まで小一時間まで行けるのは大きな利点だろう。海なし県、ベッドタウン需要、馬鹿にされがち、昼間人口が減りがち、鳩が幅を利かせがち――滋賀は西の小さな埼玉といえるかもしれない。

 そんなちょっと残念な湖国の中心は大津市という。山科区の隣、琵琶湖の南西部に位置する県庁所在地だ。大きな神社やお寺もあり、歴史が好きなら一度京都を越えて滋賀に来てみることをお勧めする。多分それだけで「通」を名乗れるだろうから。

 人口は約34万人。滋賀県ではダントツの一位だ。当然建物もそれなりに多いが、比叡山はもちろん、公園など緑もわりとある。水源はもはやいうまでもない。

 何が言いたいかというと、これほど化獣の寝ぐらに適した街もそうないということだ。

 我々の住処に適しているのは、緑なき都会でもなければ、過疎化に疲弊する田舎でもない。それなりに人がいて、かつ緑と水に恵まれた地方こそ好適である。人間が多すぎれば窒息するが、かといって人間がいなければ化け甲斐もない。

 我々は常に人間を真似てきた。彼らが家という名のねぐらを建てるように、我々もまた、適当な緑地や森林を縄張りとしている。もっとも、景気の良かった頃は狸も金を稼いで土地を買い、マイホームを建てるというのが流行ったそうだが、不景気の昨今、昼間は人間の姿で街をうろつき、夜になると化けの皮を剥いで森の寝床に潜り込むのが一般的な暮らしだ。

 中には我が母のように人間としての身分を確立し、不動産を所有したりアパートを借り受けている者も存在するが、一応観音寺家本来のねぐらもちゃんとある。

 市内に近江神宮(おうみじんぐう)という神社がある。朱塗の大門が美しい神社の裏には、標高数百メートル程度の山がある。名を宇佐山(うさやま)という。人間もあまり訪れない静かな山中には、それなりの数の狸が人知れず暮らしている。人知れない場所なので、詳しい場所は割愛する。

 観音寺家は宇佐山の一等地に、少しばかり上等なテントを張って寝床兼縄張りの目印としている。周辺は木々が生い茂り、人目に触れず寝起きするには絶好の場所だ。付近には小さな水場もあるが、今時の狸はミネラルウォーターを飲む者が大半だ。

 このテントは現在、観音寺の娘――すなわち自分が一匹で暮らしている。狸がテント暮らしなんて贅沢なと思われるかもしれないが、現代の化獣は基本、文明におんぶに抱っこだ。

 飯を探す必要もなければ、肉食動物の影に怯えることもない。すると、毎日が暇で仕方がない。人間が羨ましがるほど、可処分時間を持て余している。

 小人閑居して不善をなす前に、今日はテントの中を掃除しようと思い立った。

 午後二時、改めて住まいを見まわした。誰がこんなに散らかしたんだ、と独りごちた。

 そもそも物が多すぎる。キャンプ用のLEDランタン、ブランケット、足拭きタオル、座布団二枚、携帯ラジオ、クーラーボックスを直置きしているのはまだいい。だが、つまれた文庫本、兄弟が置いていった玩具の人形、型落ちのタブレット、虫除けスプレー、懐中電灯、抜け毛取り用のコロコロといったしまえる物まで、すべて床にほっぽっているのはいただけない。菓子袋やパンの包装まで放置されているのには、我ながら幻滅した。

 ひとまずゴミを袋にまとめて口に咥え、外に出た。木の下に置いている青いポリバケツにゴミを捨てた。

 テントに戻り、クーラーボックスを開けた。箱の中身は命綱だ。中の食料がなくなればその辺の虫を食うしかなくなる。狸だからそれもありなのだが、青藍は興梠煎餅すら受け付けないほど昆虫を嚥下することを潔しとしなかった。プリッとしたカブトムシの幼虫を旨いという狸は多いが、あれを食べるくらいなら餓死を選ぶ。

 食料を確認する。スティックパンが一袋、コンビにおにぎりが2つ、ポテトチップス2袋、ドライフルーツとシリアルは残り半分、二リットルの水が3本。栄養価はともかく、明日までは食いつなげるだろう。

 掃除はわりとすぐ終わった。というより、捨てられないものばかりで掃除のしようもなかった。ゴミを捨てて抜け毛をコロコロで取ったくらいだが、これだけで良いことをした気分になった。

 青藍はベッド代わりに使っている座布団に横になった。自分の一日は、まずこの座布団から始まる。

 父から贈られたフカフカの敷物で惰眠を貪り、目が覚めたら起きる。その時に二度寝がしたかったらまた寝る。もういいやと思ったら起きる。

 起きたら水を飲み、運動がてら散歩に行く。行かない時もある。テントに戻る頃には決まって腹が減っているので、クーラーボックス内のもので朝食を摂る。腹を満たすと、寝転んでしばらく思うさま思索に耽り、それにも飽きると読みかけの文庫本を開く。あるいはタブレットでダウンロード済みの映画やオーディオブックを楽しむ。

 毎日がそんな感じ。今日は、それに半時間の掃除が加わっただけだ。

 横になったらまた眠くなってきた。瞼を閉じる。


 まあ、言いたいことはあるだろう。だが、いたいけな少女を「ニート」と呼ぶ前に、言い訳をさせてほしい。

 観音寺青藍は――わたしは、別に生来の怠け者だったわけではない。信じがたいかもしれないが本当だ。元々は真面目で好奇心旺盛、おまけにとびきり愛らしい普通の雌狸だった。

 幼いながらに頭領の娘としての使命と矜持を抱き、立派な狸となるよう刻苦勉励、読み書き算盤や化け術の修練に励んでいた。わりと成績は優秀で、外国人観光客と戯れに会話できる程度の語学力すらある。一年前に某社のTSST――テレフォン・スタンダード・スピーキング・テスト――を受験したら、9段階中のレベル8だった。狸でなければ、今頃は英会話講師として悩める英語学習者のしるべになっていたかもしれない。

 多くの狸が宵越しの金は持たない享楽主義に生きる中で、青藍は真面目に日々を頑張っていた。周囲の期待に応えようと必死だった。

 そんな真面目な少女には、たった一つ、致命的な欠点があった。

 観音寺青藍は、一切化けることができない化け狸として有名だった。


 化ける――環境と状況に合わせ、超常的な力によって己の遺伝子情報を別の生物のものに丸ごと書き換え、姿を完全に模倣する能力。蝶からゾウまでなりきる、質量保存の法則を潔いまでに無視したこの特別な力こそ、化獣の化獣たる所以であり、アイデンティティである。化けられない化獣など存在価値がないとまで言い切る者もいる。わざわざそんなことは言わない連中の大半も、心の中ではそう思っている。

 人間でいえば小学一年生くらいの年齢にもなれば、いかな落ちこぼれでも犬には化けられる。人に化けるのは自転車の補助輪を外して乗るようなもので、やはり練習するうちになんとかなる。

 というわけで、大人になってなお化けられない青藍は、前代未聞の存在として知られていた。更に父母も弟も一門屈指の化け上手として名を馳せていることも、彼女には不幸なことだった。

 青藍には弟がいる。名を青雲(せいうん)という。

 彼は姉とは何もかもが違った。一言でいうなら、頭領の子に相応しい化け上手だった。まだ乳飲み子だった頃、唐突に人間の赤ん坊に化けたのを皮切りに、鳩や猫など、身近な動物にポンポンポンと化けてみせた。ただ化けるだけでなく、その持続性と安定度――すなわち「化けの皮」も大人顔負けだった。

 やがて青雲は母の方針で大津市内の小学校に通うことになった。ランドセルを背負って出かける彼が羨ましくて仕方なく、青藍は必死に化け術の習得を目指した。

 みんなできるんだから、わたしだって絶対にできる――信じていた。信じなければどうにかなりそうだった。

 周囲は彼女を見捨てなかった。父は化け術改善に効くという丸薬を京都の山奥から調達し、母は仕事の合間にできる限り練習に付き合った。遠方から化け術の名人と呼ばれる狸も連れてきた。親戚連中も何かと世話を焼いてきたが、悉くが焼石に水だった。

 講師の一匹が呟いた「これはだめかもわからんね」という言葉が、今も心に楔となって刺さっている。

 暗黒の子供時代は早々と過ぎていった。その奔流の中で、弟は野球を始め、滋賀県の小学生なら必ず乗船する「うみのこ」で琵琶湖を周遊し、小学校を卒業し、学ラン姿に化けて中学校に通い、ラブレターの返事に悩み、全国大会に四番捕手として出場し、修学旅行で東京に行き、今年志望校に合格した。

 その間、青藍は犬にすら化けられなかった。

 段々と家族以外の者が離れていった。一門からは火傷を触るような扱いを受け、陰口も聞こえるようになった。父の地位が抑止力にはなったのか、いじめまでは発展しなかったが、心は十分に傷ついた。

 この頃にはもう、意地萎え、根性尽き果て、運動不足で肉付き骨隠れ、眼光炯々どころか闇夜の如く光を失った。諦めが隙間風のようにやってきて彼女をさらった。誰かに姿を見られたくないから、テントに引きこもるようになった。

 それが約一年前だ。今はもう、なるべく家族とも会いたくない。特に、あの人とは。

 一人でいると心地がいい。誰も青藍を馬鹿にしない。誰も化けられない自分を責め立てない。誰も、当たり前のことができない落ちこぼれだと揶揄しない。

 四畳半にも満たない、鬱蒼とした森の中に佇む古いテントの中だけが、自分を守るための最後の砦だった。


       2


 目覚めると夕方になっていた。過度の睡眠で流石に頭がぼうっとする。前脚で目やにをとっていると、足音が小さく近づいてきた。

「失礼します」

 礼儀正しい声が外からするなり、学生服姿の青年が身を屈めて入ってきた。ブレザーを右手に抱え、手には白い袋が握られている。狸がすっぽり入るほどのスポーツバッグを床に落とすと、それだけでテントの中は一段と狭くなった。

「ここは涼しいですね、姉上。人間の肌には寒いくらいです」

 青雲は座布団の上で胡座をかいた。姉上――年功序列を重んじる狸独特の古臭い慣習。近江の古参・観音寺一族の子として、姉弟は厳しく躾けられて育った。

「何持ってきてくれたの?」

 鼻をひくつかせる。彼は微笑んで、袋からプラスティックの丼を二つ取り出した。

「牛丼です。今お食べになりますか?」

「後でいいや」

 唾液が溢れそうになるのを堪える。

「ではお先に頂きます」

 青雲が蓋を開けると、ほかほかとした湯気が立った。煮詰まった牛肉と玉ねぎ、炊いた米の香りが狭い空間に立ち込める。空腹が刺激されて仕方がないが、弟の手前、表情には出さない。

 彼は白米の上にたっぷりの具をかけると、割り箸を突っ込んで勢いよく食べ出した。

「相変わらずよく食べること」

 高校球児の食べっぷりはかくも見ていて気持ちがいいものか。#mukbang #大食い #飯テロあたりのタグをつけてショート動画を投稿すれば、そこそこ伸びそうでさえある。

「身体がエネルギーを求めてまして」

 弟はもごもごという。「それに、炭水化物を早急に摂らねば筋肉が分解してしまうので」

「知らんけど」

 弟は昔から理屈っぽいところがある。「どうなの、びわ高の野球部って?」

「特別強くはありませんが、環境は良いです。選んで正解でした」

 青藍にはよくわからないが、弟は県外の高校から複数声をかけられたらしい。中には甲子園の優勝校もあったというが、それらを丁重に断って、地元の「大津琵琶高校」――通称「びわ高」に入学した。入学前に直接面談しここに決めたという。

「よく人間と混ざってスポーツなんかやるよ」

「好きですから、野球が」

 青雲は如才なく笑って、米粒一つなくなった丼を置いた。狸に生まれながら、人間と比べても抜群の運動神経を持つ弟は、自分とは別の意味で異端の存在だった。

「じゃあもしかしたら、いつかあんたをテレビで見れるわけだ」

「甲子園で、ですか?」

 弟は緩やかにウェーブのかかった髪を撫でた。頭髪自由がびわ高野球部の特徴らしい。

「そうですね……二年後ならあるいは」

「何それ。先輩には期待してないってこと?」

「まさか」

 青雲は顔の前で手を振った。「ただ、滋賀には屈指の強豪校がありますから。そこを倒すのは本当に容易ならざることです。少なくともエースと、いいキャッチャーが必要だ」

「だから二年後なんだ」

 弟は肯定も否定もせず、鞄から大きな水筒を取り出すと一息に飲んだ。

「それに甲子園はあくまで憧れ、目標とは別です」

「……野球選手、か」

 将来はプロ野球選手になりたい――地元の学校入学後、少年野球チームに入った青雲は高らかに宣言した。一門の誰もが笑った。狸が野球選手になどなれるはずがない。いずれ現実を知り、大人になるだろう。

 だが今、彼の夢を笑うものは一匹もいない。

 青藍は精悍な弟の化け姿をぼんやり見た。かつては可愛らしい少年だったのに、いつの間にかこんなにも大人びている。姉を差し置いて成長が早すぎる、と度々思う。

「まあ、頑張りな」

 彼が野球を始めた時から、ずっと同じことを言っている。プロ野球選手になりたい――そっか、頑張れ。

「ありがとうございます。姉上の方はいかがですか?」

「わたし? ぜんぜん」

 今日も日が暮れるまで練習したが毛の逆立つ気配さえなかった、と肩を落としてみせた。

「父上の丸薬はお試しに?」

「飲んだよ。お腹下した以外は変化なかったけどね」

 両生類の黒焼き、父が調達してきた秘薬、狸向けの栄養ドリンク――今まで化け力増大に役立つというありとあらゆる珍味妙薬を試してきたが、効き目はなかった。先日は近江八幡に住む叔母から真空包装のスッポン肉と赤蒟蒻が贈られてきたので友人と鍋を囲んだが、これはただ美味いだけだった。

「これ、よろしければ」

 青雲は通学鞄からチョコスナック菓子を取り出して床に置いた。

「甘いものは元気が出ますから」

「誰から貰ったの?」

「隣の席の……女子に」

「相変わらずモテるねえ。その化け姿がイケメンすぎんじゃない?」

 青藍はニヤニヤした。

「とはいえ、これが最も化けの皮が剥がれにくいものですから」

 弟の言い訳はある程度的を射ている。人間に化ける際は、最も化けの皮の剥がれにくい、その者の適した人の姿が必ずあると言われる。少年なら少年に、美女なら美女に、といった具合だ。無論中年の雄狸が美少女に化けることも不可能ではないが、昨今の化獣界では敬遠される。今のトレンドは「自分らしく」だ。

「ちゃんとお礼しときなよ」

「こういうのは不得手で……何で返すべきでしょう?」

「オフの日あるんでしょ? とりあえず話しかけて、一緒に遊びにでも行きなよ。絶対あんたに気があるんだから」

「あまり人間の異性とは付き合うなと母上が」

 同性は構わないが、異性とは程々の距離を置けと姉弟共々よくいわれてきた。間違いが起こりかねないと思っているらしい。だが、当の本人は学校に行くどころか、狸が一匹もいないアメリカで働いていたことさえある。きっとイケメンの外国人と何度も逢瀬を重ねていたはずだ。母はお堅い女だが、昔からそうだったとは限らない――と、娘である青藍は睨んでいる。

 だから、「ばっかみたい」と一蹴してやった。

「人間の青春を味わえる狸なんてあんただけなんだから。野球も恋愛も、チャンス逃してたら後悔すんじゃないの?」

「ぼくとしても、何か騙しているような気がして」

 なにぶん化けの皮を被ってるだけですから、と頬を掻く。

「騙してるんじゃない。化かしてるだけだし」

「それ、本質的には同じでは?」

「悪気はないでしょ」

 きっぱり言ってやると、青雲は真面目くさった顔で頬を掻いた。

「……そろそろ戻ります。明日も練習なので」

「おつかれ」

 青雲は立ち上がり、鞄の紐を左肩にかけた。その背中は弟のくせに、とても大きく見えた。自分を見下ろす。ため息を吐きたくなった。

「……ねえ」大きな弟を見上げる。「あんたは、まだわたしが化けられると思ってんの?」

 振り向いた青雲は、愚問を向けられたような顔をした。

「姉上は必ず化けられる。そして誰よりも素晴らしい化獣になります」

「意味わかんないんだけど」

「ぼくは人を化かしてますが、嘘はつきませんよ」

 彼はにくらしく微笑んだ。「牛丼、熱いうちにお食べください。では、また」

 弟は一礼し、颯爽と去っていった。青藍はどこか取り残された気分になった。

 なんでもできる弟と、何もできない姉。大人たちは彼の才気煥発ぶりに目を細め、彼女の酒嚢飯袋ぶりに目を背けてきた。周囲の無意識で悪気のない比較もまた、青藍の精神を存分に嬲った。愚かにも、子供の頃は弟がいるから自分がいじめられるのだと思った。彼に八つ当たりしたことは数知れない。

 けれども、青雲はそんな姉を見下すどころか、「いずれ日本一の化獣になる」と根拠不明の励ましをして憚らなかった。冗談でも皮肉でもない、心から信じている者の口ぶりだった。「早く人間に化けて、試合を観にきてください」と屈託のない目で言われ続けると、怒る気も失せた。

 疲れているだろうに、姉の好物を携えては殆ど毎日テントに顔をだす。彼がいなければ、一日に会話をする機会もない。

 口には出さないが、あの子の存在はありがたい。

 腹が鳴った。青藍は牛丼に前脚を伸ばした。蓋を外すと、既に具が米の上に載っていた。立ち上る湯気が濃厚な香りを運んでくる。

「あいつ、いつの間に」

 いただきます、とごち、顔を突っ込んで牛丼を食らった。狸は雑食家だが、丼ものやフライドチキン、そしておにぎりには特に目がない。

 この日の牛丼も殊更に美味かった。

 腹は弟が訪ねてきた時点で減っていた。一緒に食べなかったのは、犬食いせざるを得ないのを見せたくないからだった。何もない姉にもプライドはある。


       3


 牛丼で腹を膨らました後、ポンと腹太鼓を打ってしばし寝た。赤ん坊の頃からよく眠る子だったらしいが、最近の眠りぶりは自分でもどうかと思うくらいだ。一門では「近江の眠り姫」なんて渾名までついてることをつい最近知った。こっちは自称してやってもいい。とりあえず「化けずの〜」よりはマシだ。

 起きたら夜の一時を過ぎていた。青藍はテントを出て、月明かりがわずかに照らす森の中をしずしず歩いた。柔らかい腐葉土を踏む感触は嫌いではない。この時間になれば、殆どの狸は寝床で本当の狸寝入りを決め込んでいる。自分にとって、周囲の目を気にする必要のない貴重なひと時だ。

 人間もいないので、整備された道の真ん中を堂々歩く。山を出てすぐ、神宮に通じる脇道に入った。保育園の入り口脇を進むと、来客用駐車場に出た。

 人がいないことを確認してから駐車場を横切り、境内に入った。闇の中に本殿や鳥居が溶け込むように佇んでいる。不気味なまでの静寂とまだ肌寒い春の夜風が毛皮を震わせる。世界に自分一匹だけになったような気がして、心細さと心軽さがないまぜになる。

 本殿前で軽くお祈りをしてから、だだっ広い境内の真ん中に青藍は立った。

 目を閉じ、集中を試みる。深呼吸を繰り返し、精神を研ぎ澄ませる。教わったことを思い出しながら、化けたい姿を思い描く。

 狸は生後しばらく経ったあたりから、講師を招いて化ける練習を始める。最初の課題は柴犬だ。これは、狸がそもそもイヌ科であることに由来する。同郷である和犬の代表格は、初級の教材としてはうってつけなのだ。なので、ここでつまずく子狸はまずいない。どんなにおとなしい赤ん坊もハイハイを勝手にやり出すのと同じだ。

 柴犬に化けられたら次はチワワやダックスフント、あるいは猫など、徐々に自分達と姿形が離れた動物に化けていく。数をこなすことで、この頃からその子が器用か、不器用か――化け術の才の有無が大体推し量れる。

 それら各種の課題で合格点に達した子供から、いよいよ人に化ける練習を始める。ただの獣ではない、「化獣」として生きていく最大の術を教え込んでいくのだ。

 人に化けるのを「小さいから象より楽」という者もいれば、「二足歩行が難しい」という者もいる。しかし、どんな不器用な者でも最終的には人に化けられる。そうして、彼らは親に連れられて、生まれて初めての人間社会に繰り出していくのだ。

 年は違うが、青藍は弟と一緒に化け術の授業を受けた。彼が完璧なゴールデンレトリーバーに化けて尻尾を振っている傍らで、青藍は講師が見本に連れてきたバーニーズ・マウンテン・ドッグに追いかけられ泣いていた。

 

 犬には化けたくもないほどトラウマな過去があるので、最近はアナグマに化ける練習をしている。我々狸とは「同じ穴の狢」と一括りにされるほど、ぱっと見はよく似ている。しかし彼らはイタチの仲間だ。狸より細長く、名前の通り穴を掘るのが上手い。先祖は彼らが使わなくなった巣をねぐらとして拝借していたという。自分で掘れよ、とずっと思っている。

 青藍は頭でアナグマの姿を思い浮かべた。四肢に力を入れて身体を突っ張る。

 化けるぞ、化けるぞ、わたしはアナグマに化けるぞ――頭の中で唱える。

 変化の兆しは毛ほども訪れない。

 何度かうんうん不毛な練習を続け、その場に座り込んだ。化け上手たちからのアドバイスを思い返す。

「化けるときは体の内側がムズムズするのです。それが化ける兆しです。この時に、大きく息を吐いたり、身体に力を入れるとか、変身するために必要な動作を加えて、身体のスイッチを切り替えるような感覚をぼくは持っています。まだ化けるのに慣れていなかった頃はそのスイッチの入れ方が下手だったので、地面を踏みつけることで身体に合図を送っていましたね」

 弟はかつてそういった。

「化ける対象を思い浮かべながら、身体の力を抜きなさい。変化の兆しをキャッチしたらその瞬間に体に力を込めるの」

 母はかつてそういった。

「おれたちにとって化けるとは、感覚的な話なんだ。そいつによってコツが異なる。おれの場合は呼吸だな。深呼吸したあと、一気に吐くんだ」

 父はかつてそういった。他にも素晴らしいアドバイスを方々から賜った。

 そのすべてを試したが、結果はご覧の有り様である。父がいうように、化獣には個体ごとに化ける型があり、誰もが練習の段階で各々のフォームを見つけ、それを固めていく。したがって、「コレ」というやり方を求めるのが難しいのだ。

 一つだけ共通点があるとすれば、化ける際には変化の兆しがあることだ。講師曰く化獣の体内には変化を司る機関があって、化ける前には身体の細胞に変化が生じるらしい。弟のいう「細胞がムズムズする感覚」だろう。その兆しを捉え、スイッチを切り替えることで化獣の身体は変異する。その時に生じる「化煙」は、化ける瞬間の隙を隠すために進化の過程で得た目眩しだという。

「なんなんだ、変化の兆しって……そんなの訪れたことないよ」

 投げやりな独り言が漏れる。体が変わりそうな感覚など、ただの一度も味わったことがない。

 そしてまた、頭の奥にある不安の塊が表出する。

 ひょっとして、自分には「化け力」そのものがない、本当にただのタヌキなのではないか――。

 最近は練習をしているたびに、こんなことが頭をよぎる。頭を振って不安を払おうと試みる。だが、足元に穴が空いたような昏い感覚から逃れられない。

 青藍はどんよりした思いで顔を上げた。狸の象徴たる満月が夜空に黄色く浮かんでいる。しばし見惚れてしまうくらいの見事な月であった。しばらく頭を空っぽにして月を眺めた。

 背後から「シャーッ」という唸り声が聞こえ、青藍はギクリとして振り返った。正体を見るなり、うんざりした。

 まだ小さなアライグマが目一杯といった様子で、青藍に向かって威嚇をしている。

 彼らを見るたびに、なぜ人間はこいつとわたしたちを誤認するのだろうと少しばかり憤ってしまう。第一尻尾が違う。こっちにあんな縞々模様はないし、歩き方だって犬と猫並に異なる。似て非なるとは、狸とアライグマのことと至りだ。

 青藍はずいと一歩踏み出し、背を逸らして異邦の獣と相対した。荒事は好きではないが、頭領の娘がアライグマ如きに負けたら、もう塗りようがないくらい泥まみれの父の顔に更なる汚泥を塗ることになる。

 青藍は若いアライグマの顔をじっと睨んだ。獣の喧嘩は睨み合いから始まる。目を逸らした方が負けである。

 いつ飛びかかられても良いように、前脚の力を抜き、後ろ脚に充分に力を溜める。

 唸り、牙を剥いた。アライグマが一瞬たじろいだ。勝負は決した。

 一吠えすると、敵は尻を見せて茂みの方へ駆け出していった。

「ふぅ… …」

 身体から力が抜けていった。古くから狸が守ってきたこの森すら、青藍が物心ついた時にはもう、連中が我が物顔で歩いていた。日本の豊かな自然が、彼らを悪い意味で育んでいるのだ。

 我々の住処は、日本の自然は今後どうなっていくのだろうか、と一介の狸らしくもない懸念が湧き起こってくる。ニホンオオカミが生きていたらまた違っていたのだろうか。まあ、もし彼らが生きていたら、化けられない自分など格好の獲物になってしまうのだが――。

「……帰ろ」

 無駄に疲れた一日を終えるべく、青藍は森に引き返した。最後に一回、満月を見ながらうんうん唸ってみたが、牛丼で満たしたはずの腹がぐうと鳴っただけだった。


       4


「化けずの青藍」の通り名が一門で知れ渡るようになって久しい。この情報化社会だ、既に日本中の狸社会に膾炙(かいしゃ)しているに違いない。

 化けられないことを覆したかった。励ましと悔しさを糧に、諦めたくなっても立ち上がってきた。しかし、冷たく横たわる現実を思い知らされるたびに、心は折れていった。折れる箇所がなくなれば、次は粉になるまで砕かれた。

 気力はもう残っていなかった。慣れてもきた。化けられない、何もできない自分に。

 ていうか、それがわたしじゃない――もう一人の自分が囁く。

 諦めなくていいことなんてあった? ないでしょう? だったらもう、諦めちゃおうよ。誰の目も届かない、誰の声も聞こえないここで、のんびりしてようよ。

 一般家庭だったら勘当待ったなしだろう。だが青藍は違った。これでも頭領の娘だ。面と向かって何かを言う者はいない。穀潰しを飼っていても何の問題もない。食って寝るだけ。世の中の誰にも、何にも、影響(アフェクト)を与えることがない。

 父の威を傘に着て、母の脛を齧って、弟と話して、今日も青藍は小さな三角錐の城で眠りこける。知的好奇心と人並みの頭脳を持て余しながら、夜毎天狗となって飛ぶ夢を見る。


 アライグマを追い返した翌日。

 起きた時には太陽が森の真上にあった。外に出ると、山中に春の陽気が満ちていた。しばらく春風駘蕩の心地を全身で感じていたが、どこからともなく聞こえる愛の囁き声に気分を害され、テントに引っ込んだ。恋の季節とはいえ、あちこち恥じらうことなく発情するのはまったく度し難い。知的生物の誇りはないのか。

 ぷりぷり憤りながら、賞味期限間近の菓子パンを齧り、書物を開いて物語の世界に逃げ込んだ。そうこうするうちに眠くなってくる。

 眠り姫を惰眠へ誘う緩慢な雰囲気を、ザクザクという足音が吹き飛ばしていった。

 青藍は殆ど条件反射で身を起こした。春の心地が真冬のように張り詰めたものに変わった。

 寒気がした。この機械のように規則的なリズムを刻む足音の主は、あの人に他ならない。

「青藍、いるの?」

 テントの外から声がした。青藍は観念して目を閉じた。

「おります、母様」

 スラリとした女性が身を屈ませながらテントに入ってきた。メタルフレームの眼鏡に藍色のミディアムヘア、明るい目は狸らしからぬ鋭さを帯びている。化け姿は非の打ち所がなく、且つ化粧まで施しているから、狸すら初見ではモノホンの人間と勘違いする者もいる。

 母は人間として学問を修め、高校卒業後は上京して名門女子大に進んだ。在学中に留学し、そのまま米国で働き、帰国後に婚約。子育ての傍ら翻訳業などで家計を支え、子供が大きくなると大津京駅前で英会話教室を開き、ロサンゼルス仕込みの英語を教えている。

「最も人間に近づいた狸」「虎の母(タイガー・マム)」――そんな才媛の娘は、もじもじしながら身を縮こませるほかない。

 母は眼鏡を外すと、指を鳴らして術を解いた。白煙と共に白色の狸が現れた。ほっそりした容姿に白一色の毛並みが、彼女が狸界において特別な存在であることを知らしめているかのようだ。()()でないものは狸姿でも引き継がれており、目元にはアイライン、耳にはブルーのピアス、首にはネックレス、左腕にはスマートウォッチが嵌められたままだ。こんな擬人化された動物が活躍するアニメを何かで見た気がする。

「おはようございます」居住まいを正しながらいった。「今日もお美しい毛並みですね」

「あなたには負けるわ」

 そっけなくいって、我が母――観音寺藍(かんのんじあい)は向かいの座布団に座った。香水がほのかに香ってくる。狸には個体によって特有の匂いがあり、見た目より匂いで誰かを判別しているのだが、香水のせいで母は狸的な存在感が希薄だった。

「化け術の練習はしているの?」

「もちろんです」

「どうだった?」

 母は不意に英語で訊ねてきた。そして彼女が英語で聞いてきた時は、英語で答えなければならないのが観音寺家のルールだった。

「ええと……」口ごもりながら目を逸らす。「ごめんなさい」

 I’m sorry about that――この言葉はもういい慣れた。

「手応えは?」

 声は氷のように冷えている。母は狸の温かみというものを自由の国に置いてきたのではないかと思う。

「……ありません」

 項垂れて首を振った。ちら、と母を伺う。背をシャンと伸ばして座る彼女は、背を縮こめる青藍を無表情で見下ろしている。怒っているかはわからない。母は絶対に怒鳴ったりしない。夜叉のような顔をすることもない。その代わり、表情を変えず淡々と怒る。

 自他ともに厳しい(ひと)だ。まじめで、特にSlack off(サボり)は許さない。何度「Don’t waste your time!」と怒られたことか。

 その厳しさに息子は応え、娘は打ちのめされてきた。どこまでいっても母は自分たち姉弟を平等に扱った。

「あなた、最近真面目にやっているの?」

 母の冷ややかな目が、青藍の肝を絶対零度にまで凍りつかせた。

「も、もちろんです」

「今日は?」

「あ、朝に少々――」

 咄嗟に嘘が口から飛び出た。しまった、と思った頃には遅かった。

 母の顔が険しくなる。

「その目やには何?」

 目を押さえる――惰眠の証拠が肉球についた。天を仰ぎたくなった。なんて馬鹿なんだろう、この人の前で嘘は通用しないのに。

 母はため息をついた。

「あなたが『森で毎日練習する』というから、ここに住むことを許しました。それなのに、毎日寝てばかりいるのはどういうことなの?」

「寝てばかりだなんてそんな……」

 反論しようとしたが、その通りなので言い返せない。

「最近は、夜に練習しているんです」

「どのくらい?」

 冷えきった瞳にじっと射抜かれる。

「……昨日は一時間です」

 実際はその半分だ。なにをやっても無駄、と再認識するのに、一時間もいらない。

「朝から晩までやれなんていってないけど、ここを怠けるために使うなら、今すぐ家に戻りなさい」

 厳しい声がとぶ。最後通牒だ、と悟った。無収入がいつまでも一人暮らしを続けられるほど甘くはない。むしろ、よく一年も続けさせてくれたほうだろう。

「ちゃんとやりますから。あともう少しだけ……」

 顔を伏せたまま懇願する。顔なんてまともに見れたものではない。

「じゃあ、見込みを教えて」

「見込み……」

「あとどれくらい時間があれば化けられるようになるのかを具体的に示してくれたら、わたしは安心してあなたをここに残せるし、必要なものがあれば持ってきてあげる」

 母は厳しく、理に適っている。その正論は娘の心をナイフのように突き刺していく。

 でも――反抗心が傷だらけの心に、さざなみのように広がっていく。心の中で反論する。

 母様にはわかりますか、どんなに頑張ってもできない苦しさが。

「わたしも苦労して、それでもなんとか化けようと頑張っているんです」

 自分の弱さと苦しさを少しでもわかってほしかった――それは子供の我儘なのだろうか。

「苦労している?」

 母は眦を吊り上げた。明確な怒りが顔に宿った。

「毎日好きなだけ寝て、好きなものを食べて、何に苦労しているの? これらはあなたが頑張って働いて手に入れたものなの?」

 思わず顔を引っ込めた。ぐうの根も出ないとはまさにこのことだ。

 気まずい沈黙が狭いテントの中を覆い尽くした。木の葉が擦れ合う音だけが寒々しく聞こえる。ここ数年、母と差し向かいで話して楽しかったことなどない。きっとそれも、全部自分のせいだ。

「……知り合いに、あなたに仕事はどうかと勧められたの」

 沈黙が破れた。青藍は顔を上げ、おずおずと母を見た。彼女は娘を見ていなかった。遠くの方に目をやっていた。怒りの色はすでに消えていた。

「仕事……ですか?」

「京都と天王寺。どっちに行きたい? どっちもわたしより稼げるわ」

 京都、天王寺――つぶやいて、その意味を悟った。

「動物園に入れってことですか?」

 思わず声が震えた。

「定年と病退職で欠員が出たみたい。でも動物園の狸役なんて誰もやりたがらないから」

 青藍の頭の中に、未だ行ったことのない二つの動物園の光景が明瞭に浮かんできた。

 快適だが狭い檻の中、それなりに優しい飼育員、食うに困らない程度の飼料、狸の檻を素通りする人間たち、暇そうな動物の気を引こうとする子供、自分にあてがわれる好きでもないつがいのオス――。

 眩暈がした。青藍は自由を愛している。彼氏は自分で捕まえる予定だ。自由のない檻の中だけはごめんだった。

「わたしが見世物にされてもいいとおっしゃるのですか?」

「本来の姿と生態を後世に伝える立派な仕事よ。それに数年でまとまったお金が稼げる。悪い話ではないわ」

「母様……」

 青藍は呻いた。彼ら全国の被飼育員が完璧にタヌキを演じているおかげで、化け狸が人間に正体を悟られていないことは理解している。だから動物園勤めが馬鹿にされることはない。だがそれは化けられる者だからこそだ。自分がやれば「天職だな」と嗤われるのが目に見えている。

 もう馬鹿にされたくはない。最後のプライドだけは捨てきれない。

「青藍、わたしはあなたが化けられないから怒ってるのではないの」

 母は急に穏やかな声になった。「あなたが将来のことを真剣に考えているかを聞いているのよ。もう、化けられないならそれも仕方ないと思ってる。だったら、プランBではないけれど、まだ若いうちに次の生き方を探すべきでしょう。狸にしかできない仕事に就くか、働かないなら嫁ぐか。貴方も大人になったのだから、自分で立って歩く道を、自分で決める時期が来たのよ」

 どこまでも、母の言い分は真っ当だった。ぜんぶ分かっている。分かっているけど、心が納得することを拒否している。

 まだ自分を諦めきれていないのか。まだ母に信じて待っていてほしいのか。その二つは大人になった自分にとっては甘えでしかないのか。

 心に嵐が吹き荒れていた。悲しみと絶望がないまぜになって、思考が暗く澱んでいく。唐突に湧き出たある憶測が、かろうじて耐えていた自分の涙腺にとどめをさした。

 床に、涙の粒がポトリと落ちた。青藍は潤んだ目で母を見た。

「母様は、私のことを黒い羊とお考えですか?」

 英語でいった。黒い羊(厄介者)――本当に化けられたら、どんなに良かっただろう。

 母は一瞬目を見開いたが、すぐ元の顔に戻って小さく首を振った。

「誰もそんなことはいってないでしょう」

 否定の言葉はどこか弱かった。嘘くさかった。

 青藍は顔を伏せ、立ち上がった。

「考える時間をください……」

 母を見ないまま、テントを出た。


       5


 春の陽気、狸たちの暢気な笑い声――全部が煩わしかった。青藍は森の奥へ奥へと入っていった。少しでも母から遠ざかりたかった。

「あなたはなんにだってなれるわ」

 化けられずに泣いていた時、よく母に言われた。

 You can be anything――もう絵空事にしか聞こえない。それを信じきれるほど子供でもない。

 青い海老や金色の鮭が万分の確率で生まれるように、生物には突然変異というものがある。

 ならば、鷹は飛べない鳶を生んだのだ。いや、藍色から鮮やかに出でるはずだった青が、ただの無色の搾りカスだったというべきか。笑えてくる。

 突然変異で生まれた化けられない化獣――その劣等種の未来は動物園の檻の中で一生を終えるか、どこかの家に嫁いで、ねぐらにこもって子供を産み育てるか。

 どちらにせよ、未来は閉ざされている。

 山を登った。宇佐山は小さいが、わりと急峻だ。すぐに息が上がってくる。青藍は四肢を動かすことに精神を集中させた。無心で登り続けた。この間だけは、何も考えなくていい。

 小一時間ほど頑張り続けて、ようやく頂上に辿り着いた。人間の立てた看板が、左がテレビ塔の建つ本丸跡、右が三の丸跡だと伝えている。三の丸跡は景色を眺められる広場になっている。

 幸い、広場に人はいなかった。青藍は二人がけの丸太によじ登り、座った。青空の下、琵琶湖と大津の街並みが広がっている。色々なことを思い煩った時は、よくここに来て飽きるまで景色を眺めるのが常だった。

 春の風が心地よく毛並みを撫でた。青藍は前脚でごしごしと涙を拭った。

 にゃあ

 振り向いた。猫が青藍を見上げていた。黒一色の毛並みに黄色い目、両耳には桔梗のピアス。口にレジ袋をくわえている。

「リン」

 猫がニヤリと笑った。たちまち身体がイカ墨のような黒煙に包まれた。風が煙を巻いていくと、金髪の若い男が右手を挙げて笑っていた。

「おつかれ、青藍」

 男にしては高い声でいい、リンは青藍の左隣に腰掛けた。ピアスが微かに揺れる。レジ袋からペットボトルの緑茶を取り出した。ペットボトルには会計済みを示すシールが貼ってあった。たぶん平和堂で買ったのだろう。彼女は一口のみ、青藍に口を向けた。口を開くと、器用に喉に流し込んでくれた。

「あんまり性別変えて遊んでたら、怒られるよ」

 喉を潤してからいった。

「かまへんかまへん。今の時代はジェンダーレスや」

「それ、意味ちがうくない?」

「こんなイケメンやのにお気に召さんか」

 リンは肩をすくめると、指をパチンと鳴らした。また煙が彼を包み、今度は金髪の女になった。といっても、まつ毛が長くなって、声がより高くなり、胸が多少膨らむくらいしか変わるところはない。お尻はきゅっと小さく、対して変わらない。

「今日も服は自前?」

「そ。やっぱり身につけるもんはホンモンに限るわ」

 そういってマスタード色のパーカーを摘んでみせる。下は黒のスキニーパンツに赤いスニーカー。

「今日、バイトは?」

 景色を見つつ訊ねた。彼女は大津京(おおつきょう)駅前のうどん屋「きつねや」でバイトをしている。屋号で想像つくかもしれないが店主含め全て化け狐である。

「休み。せやから遊びきたんやけど、テント覗いたらおばさんがいはって」

 頂上に向かったのではないかという母の話を聞き、ここまでやってきたという。娘がどこへ向かうかくらいお見通しらしい。

「おばさん、シュンとしてはったわ。いいすぎた、もっといい伝え方があったはずだって」

「なにさ、向こうから吹っかけてきたくせに」

 青藍は鼻白んだ。感情が波打ち、何かが込み上げくる。ぐちゃぐちゃしたものが溢れ出そうになる。リンが優しげな顔で自分を見下ろしている。その顔を見た瞬間、堪えが効かなくなった。

「どうせわたしは黒い羊なんだから」

 リンの腕が伸びてきて、自分を抱え上げた。そのまま膝の上に乗せられ、背中を撫でられる。しばらく彼女の上で泣き続けた。リンの手は自分が泣き終わるまで動きを止めなかった。優しいストロークが、ささくれだった心の断面を少しずつなだらかにしていくようだった。

「心配してはるんやって。堪忍したりや」

「……栴檀は双葉より芳し、の逆の言葉って知ってる?」

 背中を撫でられながら青藍はいった。

「あるんか、そんな言葉」

「あったとしたら、それがわたし」

「捻くれた自虐やなあ」

 訛りの強い関西弁が聞いていて心地よかった。

「――お父さん、元気?」

「元気や、相変わらず忙しいけど」

「はは、うちとおんなじ」

「そう、それはええんやけど……」

 リンの声から快活さが消えた。

「今になってできたみたいやねん」

「できたって……えっ、光おじさんが?」

 突然の告白に涙が引っ込んだ。青藍は顔を上げた。リンは相変わらず笑みを浮かべていたが、それは口だけで笑みと呼べるものを形作っているような、ひどく微妙なものだった。

「おかしいやろ? ずっと男やもめやったっちゅうに、今更結婚するって」

 リンの父――虎姫光(とらひめひかる)と観音寺家は旧知の仲である。そもそも父と彼が若い頃からの親友で、それを縁に青藍はリンと知り合った。近江狸一門頭領と江州妖狐会会長の良好な関係は、そのまま滋賀狸と滋賀狐の平和の礎にもなってきた。

 穏やかで常に落ち着いた人、というのが青藍から見た「光おじさん」だった。最後に会ったのは去年の盆だったが、その時は相変わらず、父娘二人で仲良くやっているようにしか見えなかった。

「あんたが大人になって、手が離れたからじゃない?」

 世の中、スピード婚はいくらでもある。思慮深い彼がそんな気を急くようなことをするか、と言われたら首を捻るしかないのだが。

「それはあるかもしれんけど……」

 青藍はリンを見上げた。胸の膨らみから覗く顔は、どことなく不安そうだった。

「おじさんが結婚したら、いや?」

 リンは、「ううん」と首を横に振った。「あん人は今までしすぎなくらいよう我慢してきたから、幸せになるんならわたしも賛成や。せやけど――」

「せやけど?」

「割り切れへんもんがあると言えば嘘になる」

 リンは吐き出すようにいってから、苦笑した。

「もう会ったの?」

「まだや。なんせ逃げてるからな」

 今は「きつねや」の空き部屋を貸してもらっているという。

「なんで逃げてんのさ」

「そら気まずいやろ。あと……」

 リンは何かいいかけたが、バツの悪そうな顔をして口ごもった。

「なんでもない。ただ決心がつかへんだけや」

「会ってあげなよ。絶対いい人だよ。おじさんの選んだ狐なんだから」

「まあ、そのうちな……」

 彼女は寂しげに笑った。

 それからしばらく、二人で景色を眺めながら何を喋るわけでもなくのんびりとした。

「あっ、タヌキさん」

 後ろから弾んだ声がした。振り返ると、親子連れが息を弾ませていた。小学生くらいの女の子が自分を指さしている。

「ほな、元気だしや。またうどん持っていくから」

 リンが囁いてきた。青藍はうなずき、茂みに駆け込んだ。


 その夜。

 LEDランタンの灯りを頼りに本を読んでいたら、外から荒い息遣いが微かに聞こえた。

 青藍は生唾を飲み込んだ。テントの隅に放ってある懐中電灯のスイッチを入れ、口で咥えた。前脚でそっと入口を開け、顔だけ突き出してライトで照らす。

 ライトで照らした中央――灰色の毛玉のようなものがうずくまって、ぷるぷると震えていた。あちこちに枯れ葉や泥がべっとりと付いている。

「あんた、昨日の……」

 青藍に突っかかってきた若いアライグマだと一目で分かった。

「何、どうしたのよそれ」

 アライグマは鳴きもせず、精根尽き果てたという顔で青藍を見上げた。潤んだ目は泣いているようにも見えた。

 青藍は懐中電灯を放り、外に出た。子猫を扱うように首根っこをくわえる。随分と軽いし、懐かしい気分になる。人に化けるのが上手い母は滅多なことでは子供を咥えて運んだりはしなかったが、それでも本能的に、胸に抱かれるよりもこっちの方が落ち着いた気分になるものだった。

 青藍はされるがままのアライグマを中に運んだ。テントの床に泥がつくが、仕方がない。隅に置いた衣装ケースから古いタオルを取り出した。口で咥えたペットボトルを傾けてタオルを濡らそうと試みたが、傾けすぎた。床にこぼれた水が広がっていく。

「ああ、もう」

 人間に化けられないことがつくづく歯痒い。顔をしかめていると、アライグマは溢れた水をぺろぺろ飲みだした。

「待って」

 確か小さなボウルがあったはずだとクーラーボックスを漁る。

 中に今日まで入っていなかったコンビニの袋が入っていた。覗くと、ラップに包まれたソフトボール大の大きなおにぎりが二つと書置きがあった。

 “Make sure to eat these by tomorrow morning. Mom”

 苦笑した。

 見つけた小さなボウルに水を入れ、隣におにぎりを置いてラップを外してやった。

 アライグマが青藍を見上げた。目が期待と警戒心に満ちている。絶え難い空腹と野生動物特有の臆病さが彼の中で戦っているのだろう。

「いいよ、食べな」

 いうと、彼は勢いよくおにぎりをむさぼり始めた。それでいい、と思った。空腹には誰にも勝てない。

「チビのくせによく食べること……わたしと同じね」

 誰にともなく呟き、青藍はもう一つのおにぎりを取り出した。

「……頂きます」

 おにぎりの中身は鶏の唐揚げだった。美味しかった。一個じゃ足りないくらいだ。

 寝息が聞こえてきた。安心し切った顔でアライグマが眠っていた。こう見ると可愛い顔をしている。ペットとして飼いたくなる気持ちもわからないでもない。

 青藍は濡れタオルを咥え、チビの身体をそっと拭いてやった。

ご覧いただきありがとうございます。

作品自体はすでに完成していますので、毎週更新できればと思っております。


よろしくお願いします。

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