第8話 理不尽な賭け〜お出かけorデート〜
今日も薄暗いうちから、ランニングシューズの紐を締める。
ばあちゃんの小料理屋で見てきたのは、お客さんが“オフ”になる瞬間。
この2日間、俺は“オフ”から“オン”への変化に、ここで目の当たりにしている。
そのときに生まれる熱――それが少しずつ、自分の中に溜まっていく。
熱い少年漫画を読んだあとのように、どうしようもなくて、走り出した。
——タッタッタッ。
背後から、軽やかな足音。耳馴染みのあるリズムにペースを少し緩めて、道の端に寄る。
ふわっと風に乗って、柑橘系のシャンプーの匂いが届く。
この香りだけで誰か分かるのが、なんだか少し可笑しくて、頬が緩んだ。
「おっはよ〜! かなたん♪」
「おはよ。ひまり」
昨日と違ってポニーテールに結った髪が、走るたびにリズミカルに揺れていた。
「ひまり、速いね」
「へへへ。体力だけは自信あるからね〜。根性!努力!勝利!」
全然そうは見えない笑顔で言って、息も切らさずに隣を走る。
「友情……」
つい口をついて出た言葉に、ひまりは「チッチッチ」と指を振る。
「孤独な戦いに“友情”は不要なのだよ〜。ま、“恋愛”なら必要かもだけど……ね? かーなたん♪」
にししっと笑って、肘で軽く小突いてくる。
それだけで、顔が熱くなるのが分かった。
「年上をからかう子には、おかず減らすからな」
「万年カップラーメンだったうちには効きませーん。白米さえあれば幸せ〜♪」
ふざけながらスピードを上げたひまりが、くるりと振り返って笑う。
「寮まで勝負しよ!……よーい、どん!かなたんが負けたら、町の案内してね〜♪」
「ちょっ……俺が勝ったら?」
「え〜っ……そのときは、うちが今日、かなたんとデートしてあげる♪」
「……いや、それ、結局同じじゃないか!」
そう言う俺のツッコミを「にゃはは」と笑うだけ、ひまりは本気のダッシュ。
少しずつ昇ってきた陽の光を前で揺れるポニーテールが反射して輝いていた。
寮に着く直前、急激にペースを落としたひまりに譲られる形で先に玄関に着く。
「……ふぅ、うちの負け〜。だから、午前中にデート行こ。町、案内して?」
「……そんなことしなくても、普通に付き合ったのに」
「それじゃ“管理人さんのお仕事”って感じになっちゃうじゃん? 今日はプライベート扱いでお願いします。あ、ランチは奢るから!」
「えっと……どうして?」
「昨日の、お礼。たぶん今日の昼も、ごはん作ってくれるだろうなーって思ったから。……でも、昼って管理人さんの業務じゃないでしょ?」
……確かに朝夕の食事提供は契約にあるけど、実は昼はない。しかし、配信者たちの生活リズムを考えて、昼もついでに用意しようと思ってた。
「じゃあ、せっかくだし甘えようかな」
「やった〜!けってー♪……ちなみに、朝に音無先輩いたから聞いてみたよ。今日は収録で昼は外出するって」
すでに一番心配していたところの確認はしていたようだ。これで、気兼ねなく外出できる。
「えへへ〜。じゃ、うちはシャワー浴びてくるね〜!……のぞいちゃっても、いいんだよ〜♪」
「なっ……!」
ひまりは返事も聞かずに、ツッコミをする間もなく笑い声を残して階段を駆け上がっていった。
顔の火照りがまだ残るまま、食堂の扉を開けると、先客がひとり。
「……ひまりど、仲いんだな」
白い湯気の向こう、湯呑を持ったナヅキが、少しジト目で俺を見ていた。
「秋月さん。おはよう」
「花守くん、おはよ……。ひまりど、仲いんだな」
繰り返すその言葉に込められたニュアンスを測りかねていると、
ナヅキは無言で湯呑をもう一つ差し出してくれた。
「ありがとう。ひまりは、あの性格だから。俺でも打ち解けやすいっていうか」
「ふーん……花守ぐんなら、だぃとでもすぐ仲良ぐなれぃば思うばって……」
一気に津軽弁全開で話されて、脳が一瞬処理を止めた。
「えっと……本当ごめん、もう一回お願いしていい?」
「なもかもね……ごはんにしよ」
話を切り上げるように立ち上がったナヅキ。なんとなくその背中が――寂しそうにも見えた。
「昼には収録なんだって?だから早かったんだね」
そう言うと、ナヅキは少しだけ頬を赤くして目を伏せる。
「……昨日、“一緒に食べる”って約束、したべ?」
その小さな声に応えるように、具だくさんのスープをよそった。
ナヅキは何も言わず、それをじっと見つめていた。
ナヅキと席に着いて間もなく、階段の方から軽快な足音が響いた。
「ただいま〜!うわ、ふたりでご飯待っててくれたの?うち、愛されてる〜♪」
半乾きの髪をかき上げながら、タオルを肩にかけたひまりが笑顔で食堂に入ってくる。
「おかえり。早いな」
「うん、シャワーだけだからね〜!かなたん、なんで覗きにこなかったの〜♪」
「……かなたん……?」
「音無先輩もさっきぶりですねー!一緒にご飯おねがいしまーす♪音無先輩とご飯なんて朝からレアだねっ」
「……秋月ナヅキ……ナヅキでいい」
「えー!良いんですか!嬉しい〜♪じゃナヅキ先輩で」
ひまりがいつもの調子で距離を縮めて近付くと、ナヅキは少し驚いたように体を硬くして、視線をテーブルに落とした。
「……そ、そう。……全然、気軽に……呼んで……」
ナヅキの声は、どこかぎこちなくて、標準語のイントネーションが少しだけ不自然だった。
「ふーん? あれ、なんかナヅキ先輩、今日……テンション低め?」
ひまりが屈託なく笑いながら尋ねても、ナヅキは「ん……」と小さく頷いただけだった。
その横顔には、いつもより少しだけ、気まずそうな色が浮かんでいた。
「……あの、その……ごはん、たべるよ……?」
ぽそっと漏れたその言葉も、いつもの津軽弁ではなく、無理やり整えたような標準語。
「うん!うち、おなかぺっこぺこ〜!かなたんのご飯、めっちゃ楽しみ♪」
ひまりは気にしていないように明るく返して、自分の席についた。
だけど、ナヅキはまだ視線を合わせようとはしなかった。ただ一瞬だけ、ひまりの笑顔を見て、そっと目を伏せた。
でも、俺は確かに知っている。
昨日、ひまりの配信を心配そうに食堂で視聴していたナヅキを。帰ってきたばかりなのに、自分のこと全てを後にして。
少しずつ、2人の距離も縮まるといいな、そう思った。




