第5話 残された熱
乾いた風が頬をなでていく。少し早く起きた朝は、夏の名残と秋の匂いが入り混じっていた。
まだ薄暗い道を、ランニングシューズの音を響かせながら駆け出す。
昨日の彼女の配信のせいだ。
『音無こゑ』ーーナヅキから受けた熱は、まだ確かに残っていた。
朝の空気を肺に押し込んで、揺れる気持ちを押し込めるように、一歩ずつ前へ。
「……すげぇな、ほんと」
思わず、ぽつりと漏れた言葉。
歌っている声が、ただ楽しくてたまらないって響き方をしていた。音大のときより、もっと自由で、もっと真っ直ぐだった。
それに、最後のあのひとこと。気にしていた方言を、自分の言葉として選んだ。
あんなの、応援せずにはいられないじゃん。
胸の奥に残っていたわずかな羨ましさを振り払うように、ペースを上げた。
掃き掃除をしていた手を止めると、まだ眠たげな声が玄関から聞こえた。
「は、花守くん……おはよ」
ナヅキが、ゆっくりと玄関に現れる。手には赤いスープジャー。昨日渡した夜食のスープを入れていた。
「おはよう。……それ、どうだった?」
ナヅキは照れくさそうに視線を逸らして、そっと手渡してくる。
「ありがと。……ほんに、め……とても、美味しかった」
柔らかく笑う口元が、まだ少し眠たそうで。思わず、昨夜の配信の余韻が蘇る。
「あはは、津軽弁、使ってもいいのに」
「……わがってる。伝わる範囲で、な」
彼女なりの気遣い。けれど、今朝はちょっとだけ砕けてる気がする。
「今、お腹は?」
「……ん、空いでら」
お腹を撫でながら言うその仕草に、一瞬目が泳ぐ。昨夜とは違ってTシャツ一枚。その下から、ふと見えた白い肌に、心臓が強く跳ねる。
「朝ごはん、用意してあるよ。食堂行こっか」
「うん……こごさいだら太る……」
「じゃあ、朝ごはん抜く?」
スープジャーを軽く振ってからかうと、ナヅキはむくれ顔になった。
「あっためのやめらぃね」
「ん?」
聞き返してしまい、しまったと思う。昨日みたいに方言を気にしているのかもしれない。
「美味しいがら、やめるのはムリだ」
でも、目をまっすぐ合わせて言った。薄紫色の目を優しく細めて、はっきりと。
その言葉が、なんだかとても嬉しかった。
並んで歩く足取りが、昨日よりも少しだけ近く感じた。
食堂に入ると、昨日の味噌汁の匂いがほんのりと残っていた。
キッチンに立ち、味噌汁を温め直しながら、冷蔵庫から常備菜を出して並べていく。
オープンキッチンの向こう側で、ナヅキが気まずそうに眉を下げる。
「……わだし、配信が夜中さあるがら……寝坊する日、これがらもあるど思う……」
味噌汁の湯気越しにこちらを見て、そっと続けた。
「……明日がら、起ぎていっしょに食べる……努力すっから」
その“いっしょに”という一言が、胸に響いた。
「無理しないで。配信ってリズム崩れるよな。……でも、朝ごはんは、また用意すればいいし」
「……ありがと」
並べてられた食事を前に、遠慮がちに言いながらも、箸を手に取る様子はどこか安心しきっていて。
それが見られただけで、少し報われるような気がした。
朝食を食べ終えたナヅキが、そっと湯呑みを持ち上げたタイミングで、俺は話を切り出した。
「そういえば……昨日の配信。最後、方言で締めてたよね」
ナヅキの動きがぴたりと止まる。
「……見でだの?」
「うん。スープ作りながらだけど、リアルタイムで」
数秒の沈黙。ナヅキは顔を赤らめて、小さく呟いた。
「……やだっ、なんか恥ずかしい」
俺もつられて、笑いながら言う。
「でもさ、ちゃんと伝わったよ。声も、歌も、すごい心地よかった。……それに、ナヅキらしい言葉で締めてくれて、なんか、すごく……いいなって思った」
言いながら、自分でもちょっと照れくさい。
ナヅキは目を伏せながら、ポツリと呟いた。
「……大学んときも、そゆこと言ってくれだよね……」
その言葉には返さず、代わりに食器を水に沈める音を響かせた。
「……あ、今日、わたしちょっと出るな。……午後からダンスレッスンで」
「ダンス?」
「3D配信あるから……ちゃんと動げるようにせねばなって」
「そっか。大変?」
「だいぶ、体バキバキなる。でも……動いでみるど、表現の仕方がなんも違うがら。面白いよ」
そう言って、ナヅキは少しだけ背筋を伸ばしてみせた。普段よりもキリッとした雰囲気が、新鮮だった。
支度を終えたナヅキが、玄関で靴を履きながら手を振る。
「夜、戻るがら」
「いってらっしゃい。無理しないでね」
ナヅキはふっと目元だけで笑うと軽く頷いて、音森荘を出て行った。
光を受けて揺れる髪。手にした日傘をクルリと回しながら。
いつの間にか、外の光は照りつけるような陽射しに変わっていて、少しずつ温度を上げていた。
ふと、玄関の掃き掃除の続きをしようと箒を手に取った時だった。
「おっはよー! お兄さーん、今日もやってる〜?」
甲高く、よく通る声が通路の先から響いてきた。
見ると、色素の抜けたような金髪を低い位置でツインテールにして、白いキャップをかぶった女の子。
大きなリュックを背負って、両手をぶんぶん振りながら弾むように近づいてくる。
「……えーっと、今日は確か……」
「うちー?橘ひまり!今日からここの寮に住むやつー♪」
満面の笑みで自分を指さしながら、勢いそのままに、ぐいっと距離を詰めてきた。柑橘系の香りがふわりと漂った。
ナヅキの残した穏やかな温度が、炭酸みたいな刺激にかき消されていく――そんな気がした。