第4話 深い呼吸—sideナヅキ—
見知らぬ朝の匂いで、ふと目を覚ました。
見慣れない場所にいることを、まだ眠気の残る頭が思い出す。
引っ越して一晩しかたってないから当たり前だろうか。まだ、自分の匂いと部屋の匂いが馴染んでいない。
でも、決して嫌なわけではない。
カーテンを開けるともう日は高く昇っていた。昨日は配信の余韻もあってなかなか寝付けなかったからだ。
未だにぼうっとする自分に喝を入れようと2つの窓を開ける。
風と共に9月の暑さが入ってくるけど、今までよりは少し涼しい。これは季節の移ろいか、住んでいる場所の影響か。
一度深く呼吸をして昨日より少し息がしやすくなっていることに気付く。
近くの小学校から聞こえる声、鳥のさえずる音、車のエンジン音……少し前まで聞く余裕のなかった日常の音楽がまた微かに戻ってきた。
——シャッ、シャッ、シャッ
それらの音に紛れて玄関を掃く音が聞こえる——花守くんの音だ。
「ふふ。昨日もそご掃除すちゃーね」
思い出したとたん、胸の奥が暖かくなる。
もっと、呼吸がしやすくなる。
音大の頃、ほとんど話さなかった相手。
副科でたまたま一緒になって、わたしの歌を聴いた花守くんとても真っ直ぐに褒めてくれたのが嬉しかった。
それでも数回しか話したことはない。
でも、なぜか今、いちばん近くにいてくれてる。——その時から訛っても笑わないでいてくれた、あの人が。あの時のままで。
不安はまだ、消えてない。
でも、昨日よりもほんの少しだけ、わたしは前を向いている。
『訛りもナヅキのアイデンティティだ』
そう言って励ましてくれていたのはマネージャーさんだ。
『lyric colour』へ所属してからずっと担当してくれている。
彼女の信頼に応えたかったけど、わたしまだそこまで強くなかった。
どうしても思い出してしまう。
昔、訛りが出ただけで、笑われたこと。
高校までは祖母の家で生活をしていた。父は転勤族で、母は勤めていて、わたしの話し相手はいつも祖母だった。
地元でさえ学校では、祖母譲りの言葉が浮いていた。
気づけば口を閉ざす時間が増えて、そのぶん、祖母と交わす会話だけが、心の支えになっていった。
そんな祖母の膝枕で聴いた子守唄は、いま思えばわたしの原点だ。
一人で出来る『歌』という遊びにハマっていって、話さなくても歌が仕事になれば良い、そんな風に思っていた。
転勤族の父が東京にいるタイミングと合って、思い切って東京の音大に通ってみた。
ー
「今の言い方……ちょっと変じゃない?」「てか、それ標準語で言ってみて?」軽いノリに隠れていた『異物扱い』――たしかに、悪気はなかったかもしれない。馴染めないわたしへ『訛り』というキャラをくれたんだろう。
けれど、あの時の『笑い』は、今でも耳の奥に刺さっている。
――じゃあ、なんでVtuberなんてやってるんだろう。
きっかけは、ただ『歌いたい』だったはずだ。
誰にも見られずに、自分の声だけで誰かと繋がれるなら、やってみたいって。それだけだった。
……なのに、今では「津軽訛り」が“売り”みたいに扱われている。
バズったのは偶然だった。配信切り忘れ……配信終わりにマネージャーへ訛り全開の電話していた音声が流れて。
終わった、率直にそう思った。
けど、逆だった。
「癒された」「もっと訛って」「方言助かる」……コメント欄はお祭りみたいだった。
そのあと、登録者数は一気に跳ねた。収益も、再生数も。事務所は喜んでくれて、担当のマネージャーも「やっぱり訛りはナヅキのアイデンティティなんだよ」って何度も言ってくれた。
でも、わたしの心だけは、いつまでも取り残されたままだった。
『声』を武器にする職業なのに、『自分の言葉』を少し、信用できなくなった。
歌は今でも、もちろん好き。
配信も、嫌いじゃない。得意では、ないけど。
聴いてくれる人がいるのは、本当にありがたい。奇跡だと思ってる。
だけど、誰のために、どんな自分を届けているのか、だんだん分からなくなっていった。
配信当初から『歌』を楽しみにしてくれてる古参のリスナー。
バズってから『訛り』を聞きにきている大多数の新規のリスナー。
訛っていれば喜ばれる。
分かっては、いる。
全部引っくるめて、受け入れられたら一番良いんだと思うけど……まだ、そこまで強くなれない。
マネージャーさんはそんなわたしの迷いに気づいてくれていた。
「だったら、一度環境を変えてみよう。都会の真ん中より、もう少し静かな場所で。気分も、受け取り方も、少しずつ、きっと変わる」
その言葉に甘えさせてもらったのが、今の『音森荘』だった。
正直、不安はあった。
慣れない土地で、慣れない共同生活。
“寮”といっても、どんな人がいて、どんな日々が待っているのか、見えない未来はぼんやりと怖かった。
けれど、暑い中、迷子にもなって、泣きそうだった昨日、最初に見えたあの人の顔で、不安の半分以上がふっと軽くなった。
たぶん忘れているだろうって、わたしからは言い出せなかった。
わたしは彼の声と、穏やかな雰囲気はずっと覚えていたけど。
彼がいたこと、それが今のわたしには思っていた以上に救いだった。
花守くんに案内してもらって、柄にもなく多分、浮かれていた。
昼食を一緒に食べて、買い物にも付き合ってもらって。
たわいもない会話の中に、気づいたら隠そうとしていた話し方が出ていて、驚いたのは自分の方だった。
訛りを出さないように、言葉を選んでばかりいたのに。
彼の前だと、昔の「わたし」を出しても良いと、なぜだか思えた。
———
帰り道、差し出された日傘のプレゼント。
思わず嬉しくなって、くるっと回ってみせた時、彼が何か言いかけた顔をしたのを、わたしはちゃんと見ていた。
……見られてる。今のわたしを。
訛りも、多分バレている葛藤も、不器用な取り繕いも、全部を含めて、『秋月ナヅキ』として――。
わたしという人間を、ちゃんと見ようとしてくれる人が、ここにいる。
そう思っただけで、胸が少しだけ、ほどけた。
その夜、配信を始める直前、深呼吸を一つしたわたしは、自分に問いかけた。
……ほんのちょっとでいい。
少しだけ、本当の自分を出してみてもいいかな。
⸻
配信の枠を開けた。
サムネは控えめに。タイトルも、気負いすぎないように。
だけど、最後の曲紹介の時だけ、小さく笑って――
「今日は、わたしの歌を聴いでけだっきゃ、嬉すいです」
言ってしまったあと、心臓が跳ねる。
でも、モニターの向こうから届くコメントは、驚くほどあたたかかった。
「おかえり」「訛りいいね」「落ち着く声」「涙出そう」「ずっと聴いてたい」
なぜか、その一言一言が、今夜はちゃんと胸に届いた。
少しだけ踏み出した足は、まだおぼつかない。
だけど、歌も、自分自身も、初めて少しだけ「配信に乗せられた」気がした。
わたしは、わたしの声を、ほんの少しだけ、好きになれそうな気がしていた。