第36話 また始まる場所で
4月の終わり。ゴールデンウィークが来て、町の声が一段と賑やかになってきた。
この季節になると、音大のキャンパスを思い出す。
まだ緊張しながら楽器を抱え、予約をしていた練習室に走り込んでいた日々。
今は、その練習室ではなく、子ども音楽教室の面談室に座っている。
面接官は穏やかな女性だった。僕の履歴書を見て、音大中退という肩書にも驚かず、むしろ「それでも音楽を続けたいと思ってくださったことが、うれしいです」と微笑んだ。
「今のうちの子どもたちは、音楽を“うまくなる”ためだけじゃなく、“楽しむ”ためにも通ってきます。花守さんのような方が、きっと必要です」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
ナヅキが言ってくれた言葉と重なる。
今度は、逃げずにちゃんと向き合いたい。
“楽しい”を信じていた自分を、もう一度思い出すために。
———
「……よがった、受がったんだ」
数日後、夜の寮のリビングで、その報告をナヅキに伝えると、彼女は麦茶のグラスを揺らしながら、ゆっくり頷いた。
「おめでと。……がんばれよ、せんせ」
「先生って柄じゃないけどな……。でも、ありがとう。ナヅキがチラシくれなかったら、たぶん応募してなかったよ」
「ん。……わたし見る目、案外あるっきゃ」
少しぶっきらぼうに言って、ナヅキは少しだけ笑った。
その笑顔は、照れと、どこか誇らしげな空気をまとっていた。
———
一方その頃、雪代ゆりはというと、事務所の打ち合わせ室で真剣な顔をしていた。
「……なので、私は“Tintale”の活動に集中したいので、プロデュース業への転向は見送らせて下さい」
社長や脇に控える雨音が頷く。すでに彼女の提案は受け入れられている。
ただ、本人の心は不安定ではなかった。むしろ、その目はどこまでも前を見ていた。
──まだやれることがある、そう思えるうちは走り続けたい。
それを“支えてくれる”場所があるから。
———
そして、ひまり。
週に数回、都内のスタジオに通ってはボーカルレッスンを重ねている。
「もうちょっと、息を流すように……! はい、“な〜つの ひかりが〜”」
「な〜つの、ひかりが〜……!」
声はまだ不安定だ。でも、彼女の目は真剣だった。
3Dお披露目ライブで得た手応え、それを忘れないように絶対に“信頼されるリーダー”としての姿を見せたい。
その一心で、彼女は前に進み続けていた。
———
夜、寮の屋上。
誰もいないその場所に、俺はひとり腰掛けていた。
手には、受かった子ども音楽教室の研修資料。
そしてポケットの中には、ナヅキにもらったあのチラシ。
見上げた空は、ほんのりとオレンジから群青へと変わりつつある。
そのグラデーションのなかに、ほんの少しだけ、“希望”の色が見えた気がした。
「……俺も、やれるよな。ここからでも、きっと」
そう呟いた瞬間、誰かが階段を上ってきた気配がした。
振り返ると、ナヅキがアイスを持っていた。
「……屋上、涼しそうだと思って。……てがるに祝杯だべ」
彼女はそう言って、僕の隣に腰を下ろした。
「ありがとう」
「ん」
手渡されたアイスを口に運ぶと、ほんのりと甘くて、冷たい。
でも、その冷たさが、今は心地よかった。
「……明日から、またがんばれる気がする」
「そりゃ、よかった。……でも、無理すんな」
「うん。ナヅキも、ね」
2人で並んで空を見上げた。
これが“終わり”ではない。始まりだ。
音楽とまた向き合い始めた俺と、
ステージで光を放ち始めた彼女たち。
それぞれの道が、交差しながら、未来へと続いていく──。




