第35話 踏み出す色
ライブ翌日。寮の中、音はないのに空気は少しだけざわついている。
まるで祭りの後のように、空気に余韻が漂っている。
昨夜は遅くまでみんなで打ち上げをして、朝になってもなお、どこか夢の続きにいるような気がしていた。
疲れているのに律儀に朝食を食べに起きてきた3人。
その朝食の後片づけを終え、廊下を歩いていた俺は玄関で足を止める。
見慣れた背中が、静かに立っていた。
ナヅキだった。
黒いパーカーに、すっぴんのまま。それでも白磁のような肌は4月の柔らかい日差しを反射していた。
昨夜のステージとはまるで別人のように、彼女はただ玄関から外を眺めていた。
「……起きてたんだな」
声をかけると、彼女は小さく頷く。
「……昨日の、ライブ」
ぽつりと呟くその声は、いつもより少しだけ、優しくて、寂しげだった。
「まだ、夢みたいだ。……でも、ほんとに、やったんだな、わたしたち」
「うん。すごかったよ。三人とも」
ナヅキは照れたように俯いて、すぐには何も言わなかった。
だけど、しばらくして、ポケットから何かを取り出して俺に差し出した。
「……これ、前に見づけた。……べつに、深い意味は、ないけど」
それは、一枚の折れたチラシだった。
「地域こども音楽教室 講師募集」の文字が、少し擦れた印刷で記されていた。
「ナヅキ……これ……」
「うん。……別に、深い意味はねけど、でも、見たどき、なんか、思い出してしまった」
彼女は視線を外したまま、続ける。
「わたしが、奏太のピアノ聴いたときのこと。……わたし、たぶん、あんときから思っとった。奏太は、“教える人”の音してだ」
淡々とした声だった。でも、言葉のひとつひとつは、とても温かかった。
俺はしばらくチラシを見つめ、それから、そっと胸元に仕舞った。
「そのチラシ見だら、奏太が子どもに囲まれて、笑っでる姿、見えだ」
「……ありがとう。正直、昨日、ステージの3人を見て……すごく嬉しかったけど、ちょっとだけ、寂しかったんだ」
「うん」
「気づいたら、みんな前に進んでて。俺は、ライブが終われば、また“管理人”で。3人とも動き出した今度こそ、多分俺が今回みたいに音楽をやることはない。……辞めることと、もう一度向き合うこと、どっちが怖いかなんて……分からなくて」
ナヅキが、初めて僕の目を見た。
その瞳に宿るのは、迷いではなく、強さだった。
「──奏太は、もう戻っとるよ。音楽んとこまで」
「……え?」
「昨日、ステージで歌っとったのはわたしたち。でも、“この曲”を、うちらにぐれたのは、奏太だ
“Tintale”は、あんたがおらんと、できんかった」
胸の奥が、熱くなる。
言葉にしようとしたけど、声にならなかった。
「だから……自信がねぇなら、代わりにわたしが、信じる。講師でも、先生でも、裏方でも。奏太は、ちゃんと“音楽”のそばにおる」
ナヅキの声は、まっすぐだった。
その言葉は、なによりの答えだった。
「……ありがとう。俺、応募してみるよ。管理人しながらでも、できるはずだ」
そう告げると、ナヅキはふっと、いつものように目をそらして呟いた。
「……うん。……それなら、もうちょっと、わたしもがんばる。今度は、もっと高いとこ……めざす」
そう言って、彼女は小さく笑った。
それは、これまででいちばん穏やかで、芯のある笑顔だった。
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その夜、俺は机に向かい、少し震える手で応募フォームを開いた。
自己紹介欄に「音楽大学中退」と打ち込み、最後の「志望動機」に迷いながらも、こう書いた。
──もう一度、“楽しい”を、子どもたちと探してみたいと思いました。




