第30話 無責任な提案
寮のリビング。
夕食の片づけも終え、ひと息ついた時間。
集まってもらった三人の前で、俺はテーブルの端に置いたノートパソコンを閉じた。メールを一つ送っておいた。
心なしか手が汗ばむ。緊張している。
「……あのさ、今日、ちょっと話したいことがあるんだ」
三人の視線が一斉にこちらへ向く。
雪代さんは穏やかな笑みを浮かべているけれど、その奥にはどこか探るような鋭さがある。
ひまりは素直に驚いた顔のまま、小さく首を傾げて。
ナヅキは無表情を装っているけれど、膝の上の手がそっと握られているのが見えた。
俺は一度だけ深呼吸をした。息を吐き切る。言葉を選ぶ時間は、もうたくさん取った。
「俺は、この寮の管理人で……でも今から言うことは管理人の範疇から飛び出しているし、俺のエゴでしかないんだけど……」
言いながら、手の中にある“余計な感情”をそっと手放すように、言葉にする。
「……俺、怖さを伴いながらも、楽じゃない楽しいことを頑張るみんなを尊敬してるんだ」
テーブルの上に目を落とす。自分が誰よりも痛みから目を逸らしてきたことを知っている。
それでも、今は向き合いたいと思えた。
「音大辞めたの、“楽しい”だけじゃ続けられないって思って、音楽が楽しくなくなるのが怖くて離れたのに……。“嫌い”よりも遠い位置まで来ちゃって、目を向けると余計に痛くて……」
ナヅキがゆっくりと目を伏せる。
「最前線で戦っているみんなに、これからも戦って、って言うのはとても無責任なんだけど……
やっぱりまだみんなには……歌や配信に向き合うみんなを見てると、まだ戦った方が良いんじゃないか、まだ戦っていて欲しいって思ってしまうんだ。
だから、俺にできることで、みんなの背中を少しでも支えられたらって、そう思った」
そして、ようやく本題を口にする。
「みんなで、ユニットを組んでみたらどうかなって思って」
一瞬、時間が止まったような気がした。
無理もない。
雪代さんは今、プロデュース業への転向を打診されていて。
ひまりはまだ経験が浅く、自分のことで精一杯なはずで。
ナヅキは、誰よりも寡黙で慎重な人だ。
けれど、それでも言いたかった。
「もちろん、無理にって話じゃない。ただ……それぞれ違う立場にいる三人が、支え合えたら、もっと遠くに行けるんじゃないかって思った」
「ユニットっていっても、べったり一緒にいる必要はない。活動の中心はそれぞれで良いと思う。でも、誰かが立ち止まりそうなとき、一緒にいられる形があったら、きっと心強いと思うんだ」
顔を上げる。目の前には、まだ何も返ってこない三人の表情。
俺は小さく頭を下げた。
「……管理人って立場なのに、勝手にこんなこと言ってごめん。俺のエゴで、雪代さんを裏方じゃなく、また表舞台に立たせる提案をしてるのも分かってる。ひまりやナヅキの今のペースに、勝手に踏み込んでるのも」
目を閉じて、苦笑した。
「でも、それでも、どうしてもこの話を……今のうちにしたかった」
沈黙。
ふっと空気がほどけたのは、雪代さんの声だった。
「……ずるいわね、あなた」
そう言って、微笑むその顔は、まるで光を見つけた子供のように明るい。
「私、きっとずっと言い訳を探してた。“裏方に回る時期だ”なんて、格好つけて、怖かっただけ。でもね……今の話を聞いて、またちょっとワクワクしてる自分に気づいたの」
その瞳に、決意が宿る。
「また飛び込みたいと思える海があるなら、私はその波に乗ってみたいわ」
ひまりが、息を飲んでいた。
雪代さんの覚悟に、何かを受け取ったように。
「……うち、ずっと不安だったんだ」
ぽつりと、呟いた。
「雪代さんが裏に回るかもって噂を会社で聞いたとき……うちが、頼りないからだって思った。新人が上手く活動出来てないから、現場経験のある雪代さんが裏に回る必要があるだって。それで、自分でも“うち、ダメだったんだ”って。でも、今の話聞いて……そんな後ろ向きじゃ余計にダメだって、思った」
唇を噛み締めて、ぱっと顔を上げる。
「やるー! うち、もっと成長して、雪代さんにも、ナヅキちゃんにも“この子と組んでよかった”って思ってもらいたいー!」
ひまりらしい、明るくて真っ直ぐな声。
それが場の空気を一気に動かしていく。
そして――最後に視線が集まるのは、ナヅキだった。
ナヅキは、静かに、少しだけ視線を泳がせながら。
「……筆触分割って、あるべ? いろんな色とタッチで、近くで見だらバラバラでも、離れで見ると、より鮮やかに一枚の絵になってらの」
皆が耳を傾ける。
「それど同じだなって、思った。みんな別々でも……目指す場所が一緒なら、きっと、意味のある絵になる。……そういうことだべ」
小さく、でも確かに――ナヅキが微笑んだ。
その笑顔が、胸の奥で熱を灯す。
「……ありがとう」
俺は、そう言うしかなかった。
ここにいる三人が、俺の言葉を受け止めてくれたことが、何よりも嬉しかった。
誰かの背中を押せたなら。
それだけで、音楽と、もう一度向き合える気がする。




