第3話 鼻歌の響く帰り道
「め!……なんぼめっきゃの」
小さな声でナヅキがつぶやく。箸を口に運ぶたび、目を細めて、うんうんと頷いている。
小動物みたいだな、とふと思う。表情がころころ変わるのが面白い。
「……美味しい?」
「……ん……大変美味しゅうございます」
「急に丁寧。キャラ変わった?」
「えへへ。訛り出過ぎたから、照れ隠し……」
ナヅキは口元を手で隠して笑った。音大の頃、あんな顔を見た記憶はない。
「大学の時もそんな感じだったっけ」
「んー……しゃべんなかった。……今もだけどな」
「いや、今はけっこう全開だと思うけど」
「それは……花守くんが笑わねがら、だよ」
ぱっと咲いたような笑顔がテーブル越しに向けられる。何でもない台所の景色が、一瞬だけ色付いた気がした。
そのとき、製氷機がカランと音を立てる。
現実に引き戻された俺は、グラスの水をひと口飲んだ。
「午後はどうするの?」
「業者さんが機材のパソコン持ってきてくれっから、それセッティングすて……あどは、ちょこっと買い物」
「俺もちょうど買い出しがあるんだ。一緒に行こうか。近くを案内するよ」
「ほんと!? たげ嬉すい!」
寮に来るだけでも迷ってたくらいだし、道はまだ不安なんだろう。
ナヅキはまた、ぱあっと嬉しそうな顔を見せた。それがまぶしくて、思わず目を細めた。
昼食を片付けて、俺はひとりキッチンに立つ。ばあちゃんに仕込まれた手つきで、保存もきく常備菜を数品仕込んでいく。
換気扇を回していても、甘辛く煮詰めたタレの匂いが食堂にふわりと流れていった。
「……美味すそうな匂いだな」
ひょこっと顔を出したナヅキが、鼻をひくつかせて言う。
「秋月さん、荷物の運び入れ終わった?」
「うん。パック頼んでだがら、丁寧にやってけだよ」
さすが大手のVtuber事務所『lyric colour』所属。引っ越し業者の使い方も抜かりない。
「細かいもんは後でええがら、先に買い物行がね?」
「ちょうど良かった!俺もひと段落したから今まさに行きたいところだったよ」
「へへ、やっぱ優すいしゃべり方だな」
そう言って微笑むと、ナヅキは「準備してくるね」と2階へ駆け上がっていった。
数分後。
「……そりゃ、こうなるよな」
降りてきたナヅキは、全身黒づくめ。ぶかぶかのパーカーにマスク、帽子。寮に到着したときと同じで真っ黒で怪しげだった。
「まあ、日焼けで痛くなるよりはいいか」
まだ残暑のきつい九月の陽射しを浴びながら、俺たちは並んで歩き出した。
「……暑いね」
ぽつりとナヅキがつぶやいた。
さっきまでの明るい調子とは打って変わって、声も低い。
その変化に驚いて、俺はついナヅキの横顔を見てしまった。
「……声と、話し方でバレっから」
彼女の声は、まだ少しイントネーションが不自然だ。けれど、さっきの訛りは抑えている。
きっと、外ではそうやって、気づかれないようにしているんだ。
「そっか、気をつかってるんだな。でも……訛りも、ナヅキらしくて俺は好きだけど」
そう言うと、ナヅキは一瞬立ち止まり、俯いた。
長いまつげが伏せられたまま、小さな声で答える。
「……勇気、出だっきゃ……そうすっから」
彼女の中には、俺なんかにはわからない怖さや、気持ちがあるんだろう。
何十万もの人に見られる世界で、彼女はたったひとりで戦っている。
俺が下手に踏み込むべきじゃない。
そう思ったとき、不意に強い風が吹いた。
その風が、言葉に詰まった空気をふわりと攫っていく。
「……でも、『も』だから。訛りがないのも、訛りも。どっちも、好きなんだ」
ナヅキが顔を上げて、ふっと笑った。
まるで、風に揺れる花みたいに。
「ありがと。……変な感ずだな。副科でちょっと一緒であっただげなのに……安心する」
「あはは、緊張してるとこに知ってる顔がいたからじゃない? 砂漠の水、みたいな」
「……でも、その水……大事にしてぇな」
そう言ったナヅキの目が、柔らかく笑っていた。
この数時間で、どれだけ彼女が俺に心を開いてくれたのかが、分かる。
⸻
買い物を済ませて、施設の出入り口で待ち合わせる。
俺が先に着いて、しばらくしてから黒づくめのナヅキが現れた。
「買いたいものは見つかった?」
「日用品ばっかだがら、すぐだった」
「そっか。それじゃ、はい。これ——」
俺は袋から一本のシンプルな折りたたみ傘を取り出して、差し出した。
「え……これ?」
「引っ越し祝い。管理人からって言うと色々ややこしそうだから、元同級生から、ってことで」
「わぁ……ほんに、もらってもいいの?」
「もちろん。もらってくれなきゃ、むしろ俺が困る」
ナヅキは一瞬ぎこちない動きで傘を受け取ると、そのまま駆け足で外へ出て、
勢いよくバッと傘を開いた。そして、こちらを振り返って——
「見で!似合うびょん!」
屈託のない満面の笑み。気にしていた訛りも、今は全開だ。
「こぃ、涼すいっ」
黒い帽子を取って、くるりとその場で一回転。
帽子に押さえられていた髪が風に舞って、甘い香りがふわりと鼻先をかすめた。
その無邪気な仕草も、髪についてしまっている帽子の跡さえも、彼女にはとてもよく似合っていた。
⸻
寮への帰り道、日傘をくるくると回して、上機嫌でナヅキが鼻歌を歌い始める。
その調子に合わせて、俺も自然と口ずさんでいた。
「鼻歌泥棒が来たべ」
そう言いながら、ナヅキの紫苑色の目が優しい光を帯びる。
言葉なんてなくても、心が通じたような、そんな時間だった。
くすんだ白い壁が見えたとき、少し名残惜しいような気持ちがした。
ナヅキと一緒に奏でた鼻歌は、久しぶりに自分が奏でた音楽は、ちゃんと、音楽を好きだった頃のままだった。