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第29話 夜の相談


 翌日の深夜、食堂でインスタントのココアを入れる。今日一日の記憶は曖昧だった。


 

 大きく息を吐き出すと、小さな足音が近づいてきた。

 俺はもう一つ、ココアを入れる。



「ん……奏太」


 ナヅキだった。もこもこの部屋着姿で、手にはスマホを握っている。


「あ、物音うるさかった?」


「寝られなぐで……奏太も?」


「うん、ちょっとね……」


 ココアをかき混ぜながら湯気を見つめる。

 

 ナヅキはソファに腰かけ、スマホで何かを流し始めた。聞き馴染みのある音源に、ナヅキの歌が重なって流れる。


「今日、録っだやづ……」

 と、ぼそっと言う。


「そっか。相変わらず綺麗な声だね」


「……ありがど」


 それっきり、沈黙が落ちた。


 お互い言葉を探すみたいに、ただココアの香りとナヅキの録音が流れる空間で息を整えていた。


「奏太……」


「ん?」


「奏太は“誰かを支えることのできる人”だど思う。……これ、ここに来たがら歌えたと思う」


 そう言われた瞬間に息は整い、呼吸はしやすくなる。


「ナヅキ」


「ん?」


 2人して「同じリアクションだ」と笑う。



「前、美術館行ったときにさ……俺、音大を辞めた理由、話しただろ?」


「……ばあちゃんのこと……も、言っでだ……」


 ナヅキが、ゆっくりとこちらを向く。静かな瞳に灯る優しさに、目が奪われそうになり俯く。


「……あのとき、“楽しい”ってだけじゃ続けられないって思ったって、言ったけどさ」


 ココアをひと口飲み込む。熱い塊が喉を通っていく。


「正直、“楽しい”って思える自分を信じるのが怖かったんだ。自分の音楽がどこまで通用するのか、わからなくなって……怖くて、弾くのをやめた」


 自分でも驚くほど、言葉が震えていた。


「音楽で食べていくことも、学び続けることも、全部ちゃんと向き合わなきゃって思うほど、自分の音がどんどん響かなくなって……弾くのが怖くて、弾かなくなった。でも……弾かなくなったら、もっと怖くなった」


 ココアの甘さが、乾いた喉にしみる。


「……音大を辞めて、音楽から逃げて、ばあちゃんを言い訳にして……辞めてからも、まだずっと怖かった」


 ナヅキの視線を感じる。逃げずに、俺は続ける。


「さっき聴いた、ナヅキの歌……ちゃんと前に進もうとしてる声だった。……前は音楽で戦えている人が羨ましかった」 


 ナヅキは膝を抱えて、黙って俺の話を聞いていた。


「でも、ここでナヅキたちと接して、みんな怖さを抱えてるのが分かって、羨ましさは純粋な尊敬に変わっていったんだ」


 目を逸らさず、瞬きもしないで。

 ナヅキは聞いてくれた。


 しばらくして、小さな声がこぼれる。


「……奏太」


「うん」


「奏太が言うように……わたしだって、こわいよ。

“楽しい”だけじゃ続けられねぇって思うこと……いっぱい、ある。のどが痛ぐなって……声が出ねぐなって……あ、もうだめだって思う夜もある。

わたしの経験じゃ伝えきれない思いもある。

歌だけでなぐで、配信でもな。

……ほんどは、“楽しい”って思うことすら、だめなんじゃねぇかって、思うごとも、ある」


 ナヅキの目が揺れていた。


「……でも、ここで奏太に会えだがら、奏太がいてくれるがら、……わたし、歌も配信もやれたんだよ」


「ナヅキ……」


「こわい時も、自分の声が嫌いになりそうな時も……楽しいって思える時も……奏太が一緒にいてくれっがら、全部自分なりにできでる」


 頬が赤くなるナヅキは、尚も目を逸らさずにそう言った。


 胸が痛くなるくらいに、嬉しかった。


「ナヅキ……ありがとう」


 その言葉しか出てこなかった。

 ココアは冷めていたけど、熱くなった体にはちょうど良かった。

 


「……ナヅキ」


「ん?」


「自分のエゴでしかなくて、誰のためにもならないかもしれないけど……悔いを残しそうな辞め方をする人がいたら、俺は止めたい……勝手に自分の過去を投影するなって話だけどさ……」


 言葉を絞り出すような声だけど、確かに心からの気持ちだった。



 ナヅキは小さく笑った。


「ん……奏太なら大丈夫……頼んだ」


 

 それだけ言うと、ナヅキは「ねむ……」と欠伸をして立ち上がり、置いてあったスマホをポケットにしまった。


 廊下に戻る小さな背中が、不思議と大きく見えた。

 自室に戻るナヅキが一度だけ振り返って、小さく手を振った。


 それを見て、俺も小さく手を上げる。

 


 甘いココアの残り香が、夜の空気に溶けていった。


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