第28話 笑顔の理由と胸の痛み
秋の冷たい風が、街灯を揺らす。
夜の帰り道、雪代さんの歩幅はいつもより少しだけ遅かった。
「……遅くなってごめんなさい」
「大丈夫です。ひまりもナヅキも配信で忙しそうにしてましたし」
答えながら歩幅を合わせると、雪代さんの長い銀髪がふわりと揺れてサンダルウッドの甘い香りがした。
気分転換に、と誘われた食後の散歩。
寮の前まで戻ったとき、雪代さんが小さく呟いた。
「……もう少しだけ、散歩しない?」
「どれだけでも良いですよ」
そう答えると、雪代さんは少しだけ笑った。
坂道を登る途中、彼女はずっと黙っていた。俺も黙っていた。
落ち葉を踏む音と、遠くで犬が吠える声だけが夜に溶けていく。
頂上の小さな公園で立ち止まると、雪代さんは街の灯を見下ろしながら言った。
「私がもし……表に立つのをやめることになったら、どう思う?」
夜風が冷たくて、言葉が喉に詰まる。
「……雪代さんが新たに飛び込みたい場所があれば、もちろん応援します。でも、まだ決めかねてるんですよね?」
「そうね。……社長に勧められたの、プロデュース側への転向を。『お前だから任せたい』って」
声に棘はなくて、でも芯の硬さがあった。
「“潮時”じゃなくて、私の才能を活かすタイミングだって……。きっとあの人なりの、優しさなんだと思うわ」
「信頼してるんですね」
「lyric colour立ち上げからの戦友だから。私の声に賭けてくれた恩もあるわ」
当時を思い出すように雪代さんは優しく微笑む。
でも、街灯の光が彼女の瞳を照らして、その奥が揺れているのがわかった。
「ここが、プレイヤーとしての私のゴールなんだ、到達点なんだ、って思う自分もいる……。笑えなくなるのは怖い。現にうまく笑えていなかったのを昔からの戦友は気付いてた」
震えるような声で「でも」と雪代さんは続ける。
「でも……笑う理由を失うのはもっと怖いの」
その言葉が胸に刺さった。
音楽で笑えなくなりそうだった俺は、一番笑顔にしてくれたはずの音楽から離れてしまったから。
あの時、何を言われたかったのだろう。
思考がまとまらない。
何も分からないまま、口を開く。
「……す、すみません。俺には……何て言えばいいのか……」
声が震えた。
「俺……音楽を辞めたんです。雪代さんの経験とは全然違うのでおこがましいんですが……少しだけ、なんとなくわかる気がしちゃって……」
夜風が冷たく頬を撫でる。
「でも、だからこそ、何て言えばいいのか、わからなくて……すみません」
俯いたまま言うと、雪代さんは小さく笑った。
「……奏太さんらしいわね」
「え?」
「わからないって、ちゃんと言えるのは、強さだと思うわ」
笑った顔が少し寂しそうに見えたのは、瞳に映った自分の顔だろうか。
「ありがとう。話を聞いてくれて」
その言葉が、胸の奥にずしりと落ちた。
短く、でも深く呟くと、雪代さんは振り向き、坂を下り始めた。
帰り道、坂を降りながら無言が続いた。
夜風に混じって、乾いた落ち葉の匂いがした。
「おやすみなさい、奏太さん」
「おやすみなさい」
雪代さんが笑って振り返り、2階に上がっていった。
その背中を見送りながら、自分の手を見つめた。
結局、俺は何も言えなかった。
支える側でいたいくせに、何もできない。
それでも、俺にできることを探したい。
この寮で笑う雪代さんを、見続けたいと思うから。
秋の風が冷たくて、遠くで犬が吠える声が夜に溶けていった。
コンコンコン
管理人室にノックの音が響く。
ゆっくりとドアを開けるとナヅキが立っていた。
「……話、終わったが?」
無表情に見えるけれど、その瞳は揺れている。
「うん……ありがとう」
ナヅキは一瞬だけ視線を逸らし、また戻す。
「……奏太、泣いでら? そった奏太だから雪代さんは話したんだと思う。わたしは奏太ば信じる」
それだけを言い残し、ナヅキは「遅くに、ごめん」と廊下の奥へ戻っていった。
自室の布団の中で、天井を見つめる。
雪代さんがどこに進もうとも笑顔でいてくれること。
その理由が、あの人自身の中で見つけられるように。
俺にできることは何かあるだろうか。
それは“管理人”の範疇からは大きく外れてしまうかもしれない。
目を閉じると、ナヅキの言葉が思い出された。
信じてくれる人がいるなら、俺ももう一歩踏み出せる。
音楽から離れたことの経験が、誰かの役に立つ可能性があるのなら、思い返して生じる胸の痛みなんか。
俺は布団に潜り、深く息を吐いた。




