第26話 揺れる、金木犀
秋の空気は澄んでいて、坂を下る風が金木犀の匂いを運んでくる。
それなのに、最近は少しだけソワソワして落ち着かないのはどうしてだろう。
原因は、何となく分かってる。自惚れじゃなければ。
音森荘の朝はいつも通りだった。いや、違う。
少しずつ、確実に“違って”きている。
朝、俺が食堂でコーヒーを淹れていると背後から声がした。
「おはよう、奏太さん♡」
雪代さんが笑っていた。
“♡”なんて見えないはずなのに、声に乗った柔らかいニュアンスに心臓が跳ねる。
さすが10年間も、自分の声を武器にして闘ってきたVtuberだ。呼吸も、発声も、狙い通りの声色が自在に響く。
「あ、お、おはようございます……」
「ふふ、そんなに慌てちゃって。私、何もしてないわよ?」
いつもの落ち着いた笑顔に見えるのに、その瞳はどこか柔らかくて、今までよりずっと近い。
「……心臓に悪いんで、やめてください……」
「まあ。私が奏太さんの心臓を動かせるなんて、悪くない響きね?」
冗談めかした雪代さんの言葉に、マグカップを落としそうになる。
それを両手で抑えながら、コーヒーの香りの中でごまかすように息を吐いた。
小首を傾げて微笑む雪代さんは、なぜ顔を出さないVtuberを選んだのか、疑問に思うほど魅力的だった。
――ずるくて、キレイな人だ。
その言葉が喉元まで出かけて、飲み込んだ。
昼前、ひまりが元気いっぱいに駆け込んでくる。
「かなたーん♪」
「お、おう……」
その勢いのまま背中に抱きつかれる。
「んふふー♪うち、今日もライブの練習だよー♪その前にかなたんパワー充電するねー♪」
「ちょ、ちょっと待って、ひまり……包丁持ってるから……」
「大丈夫だってー♪」
笑顔で腕を絡ませてくるひまりは、本当に太陽みたいだ。
過ぎた夏が、そこにあるように弾ける様な夏の匂い。
でも、その腕が匂いが俺の体温に触れるたびに、また心臓がうるさくなる。
「ほら、近いって……!」
「なんでー?まだまだ全然遠いくらいなのにー?」
「や、もうゼロ距離だって……!」
顔を見上げるひまりの笑顔が、いつもよりほんの少しだけ赤い気がして、俺は思わず目を逸らした。
「んふふー♪かなたん、顔赤なってるー♪」
「そりゃなるって、こんなん……!」
「いえーい! やったー♪」
笑いながら腕を組んでくるひまりの体温が、また心臓を打ち鳴らす。
夜、遅めの夕食後に配信準備をしている雪代さんとレッスン帰りのひまりが笑い合っているのが見えた。
二人の笑顔を見ていると、なんだか眩しくて直視できなくなる。
(なんなんだろう、これ……)
“家族みたい”と言われてきたこの寮の空気が、少しずつ変わっている。
変わるのが怖い気もするし、変わるのが当たり前な気もする。
以前、ばあちゃんと話したことが頭を過ぎる。
『何言ってんだい。男手で、安パイ、掃除に料理……奏太しかおらんよ』
『チャンスがなかっただけなんて言わせないよ。あたしゃ色々お客さんから色々聞いてんだから。奏太のチキンなエピソードを』
恋愛でのトラブルが無縁だと思って管理人を任せてくれたばあちゃん。
ちゃんと“管理人”をしなければ……
そんなことを考えているうちに、あっという間に時間が経っていた。
深夜、なかなか寝付けずにキッチンの整理をしていると、配信を終えたナヅキが食堂にやってきた。
「……」
無言でこちらを見て、すでにパジャマの裾を握っているナヅキ。
「どした?」
声をかけると、ナヅキは一瞬だけ目を逸らし、唇を噛む。
「……か、肩……貸すて」
「肩?」
「……ん、肩……」
言葉少なに、でも勇気を振り絞るように言ったナヅキは、そっと俺の肩に頭を預けた。
「……ちょっと硬い……」
「え、えっと……大丈夫……?」
「……ん」
ナヅキの髪がかすかに首元をくすぐる。
近い距離、柔らかい重み、ドクンと跳ねる心臓。
普段の不器用な彼女からは想像できない行動に、動けなくなる。
「……ん、ありがど……」
そのまま数秒だけ頭を預けた後、すっと離れるナヅキ。
白磁のようなはずのその顔は耳まで赤くなっていて、俺の目を見ない。
「……おやすみ」
そう言ってナヅキは小さく手を振り、そのまま早足で部屋に戻っていった。
誰もいない夜の廊下。
冷たい秋の空気が漂うのに、体は火照っている。
雪代さんの柔らかい声、ひまりの無邪気な笑顔とスキンシップ、
そしてナヅキの不器用な勇気。
(……どうしてだろうな)
俺はまだ、誰にも答えを出せないでいる。
みんなも明言することは、避けている。
でも。
(このままじゃ、きっといられない……)
そう思った瞬間、廊下の窓を揺らした風が、金木犀の香りを連れてきた。
俺は立ち尽くしたまま、寮の静かな夜に深呼吸をした。




