第23話 熱と、恋と、
高揚感は、まだ胸の奥に残っていた。
あの夜、防音室で久しぶりに今の自分で歌うことが楽しかった。時計を戻す努力ではなく、進めることへの希望が湧いた。
喉が少し痛いのも、声がかすれるのも、昨日の熱気のせいだと思っていた。
でも。
(……あれ、熱い)
朝起き上がろうとした瞬間、ぐらりと視界が傾いた。
額に触れると、ひどく熱くなっている。
喉が焼けるように痛む。
「嘘……」
年甲斐もなくはしゃぎすぎたことが原因なのだろう。
昔の私なら、多少の熱があっても仕事へと向かっていた。
でも今は――
思わずスマホを握りしめる。
頭がぼんやりする中で、浮かぶのは“あの人の顔”だった。
「雪代さん?」
コンコン、とドアをノックする音の後、少し驚いた声が聞こえた。
部屋の扉を開けると、そこには買い物帰りの奏太さんがいた。
「……あ、奏太さん」
情けない声が漏れる。
「顔、赤いですよ……熱、測りました?」
言われて、自分の顔が火のように熱くなっていることに気づく。
「……大丈夫。大丈夫だから……」
多分、これは熱だけでなくて、甘えたいと思った顔が不意に近くに来たからだ。
「ダメです」
即答されて、胸がぎゅっと掴まれるような感覚が走った。
こんなに真っ直ぐな目で見つめられるのは、久しぶりだった。
体温計は無情にも、38.6℃を示していた。
「やっぱり熱ありますね。今日は歌わずに休んでください」
「だめ、昨日あんな風に歌えて……思いが冷めないうちに、もう一度歌っておきたいの……!」
必死で言葉を紡ぐ。
また時計の針を戻そうと気持ちが弱くなる前に。一番再生回数の伸びた過去の自分に頼ってしまう前に。
「歌わなくていいです」
「……え?」
真剣な表情で言い切られて、思わず息を飲む。
「今は歌うことより、大事なことがありますよ。ちゃんと治して、また歌えばいいんですから」
「……でも」
「“でも”は、ダメです」
奏太さんは小さく笑った。
「俺は、雪代さんに無理して歌ってほしくないです。……昨日、管理を依頼したのは他でもない雪代さんじゃないですか」
「あっ……」
『……ワインも保存状態によっては痛んじゃうわ。私がより“深く”なれるよう、しっかりと管理をよろしくね、奏太さん』
昨日、私が言ったことだ……。
奏太さんは穏やかに微笑みながら、声色だけイタズラっぽく変える。
「俺は厳しいですよー。今日は一歩も部屋から出れないくらい付きっきりで管理しちゃいます」
喉の痛みよりも、胸の奥が痛くなる。
どうしてこの人は、こんなに優しい顔で笑うのだろう。
ベッドに戻され、布団をかけられる。
「水分取ってください。食べられそうなら、あとでお粥作ります」
「……すみません」
「管理人の仕事ですから」
そう言って笑う顔が、本当にずるい。
視界が滲んで、涙が落ちそうになる。
「……あのね、奏太さん」
「はい?」
「私、10年もずっとVtuberとしてやってきて……みんなの求めてるものは分かってる。どの『白雪セラ』を期待されてるから分かってる」
声が震える。
「でも、止まっているのは苦しかった。……その先にもっと良い自分がいるんじゃないかって、思い込んでいたから」
涙が一粒、頬を伝う。
でも、この涙は悔しさじゃない。
ようやく流せた、安堵の涙だった。
「……もう一歩進む勇気を、ありがとう」
目を閉じると、布団越しに感じる温かさが残る。
こんな風に誰かに、日々変化していく自分を肯定されたのは、いつぶりだろう。
Vtuberの先駆者として、“聖域”のように扱われてからは、なかったように思う。
目を開けると、夜になっていた。
少しだけ体が軽くなっていて、目の前にいた奏太さんが笑顔で「お粥できましたよ」と言った。
スプーンですくって口に運ばれるお粥は、優しい味がした。
「美味しい……」
「そりゃ良かったです」
笑顔を見ていると、胸がまた熱くなる。
(……ああ、これは)
恋だ。
多分……絶対、間違えようがない。
胸の奥で確かに灯った想いが、もう消えないことがわかる。
(私……この人に恋をしてしまったんだ)
お粥を食べ終わる頃には、熱も少しだけ下がっていた。
でも、胸の熱だけは、ずっと残り続けていた。
夜風が窓からそよぎ、カーテンを揺らす。
熱で火照った頬を撫でるその風は、少しだけ心地よかった。
(また歌いたい。これからも、あなたに、変わっていく私を見ていて欲しい……)
目を閉じると、昨日の歌の残響と、今日の笑顔が胸に広がった。
そしてそっと、小さく笑った。




