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第22話 日々深まるモノ


 防音室の扉を閉めると、外の世界の音がすっと遠ざかる。



 ここは、音森荘にある防音室。


 もともとは音大生のためにばあちゃんが3部屋だけ作った楽器の練習部屋だ。

 2階は6部屋あるが1階の防音室は3部屋しかない。2階は古い寮らしく壁が薄いため各自配信は防音室にて行っている。


 ピアノや様々な楽器練習にも使っていたため、思った以上に広い。壁際には古いアップライトピアノも置かれている。


 その部屋の中央にマイクスタンドを立て、雪代さんはヘッドホンを装着していた。



「……改めて見ると思ったより、本格的なのね」


 引っ越ししてからは本社スタジオでしか仕事をしていなかった雪代さんは少し驚いたように部屋を見回し、ヘッドホンを首にかけて振り返る。



「祖母が気合い入れて作りまして……。俺もここで誰かが歌うのを見るのは初めてかもしれません」


 そう答えると、雪代さんは笑った。


「そう。じゃあ今日は記念すべき“初めて”ね」



 

 今日は雪代さんの“歌の収録”を手伝うことになった。

 ひまりとナヅキの歌が調子が良いのは、この寮に秘密があるのでは、と依頼された。


 実際にはひまりはカラオケ、ナヅキは美術館に行っただけだから秘密も何もないのだけど。

 それに設備もスタジオの方が明らかに良いとは思うけど、“気分転換”もここに来た3人には必要なんだろう。



 次の『歌ってみた』で歌う予定のカバー曲の仮収録を兼ねていて、「一人で練習するより聴いてもらえた方がいい」とのことだった。




「じゃあ、いくわね」


 雪代さんは小さく息を吐き、マイクの前に立つ。


 オケを流すと、部屋に軽快なイントロが広がった。

 明るくポップで、どこか切なさを含んだ曲。


 雪代さんの声が重なる。



 伸びやかで透明感があり、それでいて芯がある。

 音大でも上手な歌はそれなりに聴いてきたけど、ぶつかる音の波に圧倒される。


 でも――どこか力が入っているように聴こえた。





 一曲歌い切ると、雪代さんはヘッドホンを外し、大きく息をつく。


「……はぁ、思ったより疲れるわね」


「お疲れさまでした」

 

 ペットボトルの水を差し出すと、雪代さんはそれを受け取り、一口飲んでから少し目を伏せた。


「昔は、もっと楽に歌えていたのだけれどね」


 少し寂しそうに笑うその顔に、俺は何と声をかけていいか迷った。




「……ねえ、奏太さん」


「はい」


「どうして、今の私は歌うのがこんなに大変なんだと思う?」


 椅子に浅く腰掛けた雪代さんは床の一点を見つめていた。


「私ね、歌うことが好きだったの。ただ楽しくて、誰かが喜んでくれるのが嬉しくて……ずっと、それだけで良かったのに」


 水のボトルを弄びながら、雪代さんの指が震える。


「でも今は、“期待に応えなきゃ”って思うと、声が重くなるのよ。嫌でも数字で見えちゃうから……失敗できない、って……そんな気持ちばかり増えてしまうの……この10年……どの時期の数字が良いかなんて、一目瞭然だもの……あの頃みたいに歌わなくちゃ、って……」



 俺は少しだけ迷ったあと、椅子を引き寄せて雪代さんの隣に座った。


「……雪代さん」


「……?」


「僕は、今の雪代さんの声が好きですよ」


 その言葉に、雪代さんははっとしたように目を見開く。


「え……?」


「昔の配信も見ました。確かに明るくて、元気で、勢いがありました……それこそ今のひまりみたいに。でも、今の声にはその頃によりも“深さ”があります」


 小さく笑って、続ける。


「聴いてると安心するんです。歌っている人の人生がにじんでいて、あたたかくて……」


 雪代さんは驚いたように俺を見つめ、そして小さく笑った。


「……奏太さんって、ずるいわね」


「ずるい……?」


「そんなことを言われたら、もう一度歌いたくなってしまうじゃない」


 雪代さんはゆっくり立ち上がり、マイクの前へ戻る。


「もう一回だけ、“今の私”の声で歌ってみるわ」


 ヘッドホンをかけ直し、小さく深呼吸をする。



 イントロが流れる。


 一度目よりも、ずっと自然な声が防音室に広がった。


 張り詰めていた糸がほどけ、優しい息遣いがメロディに重なる。

 一瞬だけ声が震えたけれど、それは弱さではなく“温かさ”を帯びていた。


 モニターを見ながら、俺は息を呑んだ。


 この声なら、きっと届く。

 この声だから、届けられる。



 歌い終えた雪代さんは、ヘッドホンを外し、振り返った。


 頬が少し赤くなりながらも、その笑顔は柔らかかった。


「……どうだった?」


「とても良かったです。さっきより、ずっと」


 俺の言葉に、雪代さんは笑った。

 今までの“誰かのための笑顔”じゃなく、“歌いたい”と思えた自分自身の笑顔だった。




「私ね」


 椅子に腰かけながら、雪代さんは小さく呟く。


「今まで“歌わなくちゃ”って思っていたの。求められるから、期待されるから。でも……今日少しだけ思えたの」


 水のボトルをぎゅっと握る。


「“歌いたい”って」


 その言葉が空気を震わせ、胸の奥で小さく響いた。



「雪代さん」


「なに?」


「これからも、ありのままで歌ってください。その時々の雪代さんの声で……『あぁこんなに“深く”なれるんだ』『こんなに幅が“広がる”んだ』って楽しみにしてる人が……少なくともここに1人、います」


 一瞬だけ目を見開いたあと、雪代さんは頬を少し赤くして目を逸らす。


「……本当に、ずるいわね」


「え?」


「そんなことを言われたら……また歌いたくなってしまうじゃない」


 ふっと笑ったその横顔は、今までで一番素直で綺麗だった。




 食堂に戻って、紅茶を淹れようとキッチンに2人でいると雪代さんが一本のワインを見つける。


「……あら、このワイン、私のデビュー年のだわ」


「あ、それ、以前、祖母の小料理屋で常連さんに貰ったんですよ。飲んでもいいですよ」


「ふーん、やっぱりモテるのね……。でも、そうね。今日の自分にご褒美で、もらっていこうかしら」


 ワインを抱えた雪代さんは、得意げに笑って振り返った。


「……ワインも保存状態によっては痛んじゃうわ。私がより“深く”なれるよう、しっかりと管理をよろしくね、奏太さん(かんりにんさん)


 そう言って笑う雪代さんの笑顔に、俺も笑ってしまった。




 部屋に戻るために廊下を歩きながら、雪代さんがふと立ち止まる。


「ねぇ、奏太さん」


「はい?」


「……また、一緒に聴いてくれる?」


 その声は、夜風にかき消されそうなほど小さかったけれど、しっかりと届いた。


「はい、いつでも」


 その言葉に、雪代さんはゆっくりと笑顔を浮かべる。

 今度は視線を逸らさず、その笑顔を俺に向けながら。



ーー雪代さんは、“今の声”で歌うことを決めたようだ。


 きっとその声で、もう一度笑って歌うために。


 雪代さんの笑顔が、雪灯のように薄暗い秋の夜を少し明るく照らしていた。

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