第20話 海に飛び込む勇気を
秋の風が、寮の周囲の木々を揺らしている。
舗装された坂道を、雪代さんと並んで歩く。
「……この道、坂はちょっときついですけど、景色がいいんです」
「ふふ、本当に。空気も澄んでいて……都心から少し離れるだけで、こんなにも変わるものなのね」
雪代さんは小さく笑い、銀髪が風に流されてふわりと揺れる。
昨日までの“どこか作られた顔”ではなく、少し柔らかく見えた。
坂を登り切ると、小さな公園が広がっていた。ベンチに腰かけると、遠くで子どもたちの笑い声が響いてくる。
「……いい風ですね」
「ええ。こんなに穏やかな朝、久しぶりかもしれないわ」
雪代さんは深呼吸するように胸に手を当て、ゆっくりと視線を空へ向けた。
「今朝、ひまりちゃんとナヅキちゃんの笑顔を見て、思い出していたの。私にもあんなふうに、キラキラ笑えていた頃があったのよ」
「…………」
否定も肯定もできずおれは無言で続きを待つ。
「配信を始めた頃はね。歌うのが嬉しくて、みんなが喜んでくれるのがただただ嬉しくて……それだけでよかった」
秋風が落ち葉を巻き上げ、雪代さんの髪を揺らす。
「Vtuberを早く始めただけで……明らかに自分よりも実力のある後輩も多くなっても、まるで“聖域”みたいになってしまったわ。でもね……自分が望んで積み重ねた場所にいたはずなのに……ある朝、起きたら私、笑えなくなっていたの」
小さく震える声だった。
「出来ることより、出来ないことが増えていって……いつの間にか“笑わなきゃいけない自分”だけが残ってたの」
小さく寂しそうに笑うその横顔は、昨日よりずっと近くに感じられた。
「ここに来たのはね、もう一度“キラキラと笑える”かもしれないって思ったからよ」
その声は、いつもの穏やかな雪代さんの声だけれど、どこか小さく震えていた。
「……やっぱり、ファーストペンギンになれる人は凄いですね」
俺は少しだけ笑って答える。
「……え?」
「広がるVtuber業界に最初に飛び込んで……今も安泰のポジションから、また飛び込む先を探してる。自分の熱が向く方向を、探し続けてる」
秋の爽やかな風が、火種に酸素を送り込むように通り抜ける。
雪代さんの肩が、風で揺れる髪と一緒にわずかに震えた。
「俺はナヅキさんと同じ音大を途中で辞めたんです。先人たちが飛び込んでいった海に飛び込むことができなかった。だから今も“楽しさの先”で戦ってる雪代さんや皆は、仮に今はキラキラと笑えてはないとしても、“ギラギラ”はしてるんですよ」
雪代さんはアイスブルーの瞳を細めて、俺を見つめる。
「“ギラギラ”……ふふ、悪くないわね」
「俺は陸で応援することしかできないけれど……ここでゆっくり、雪代さんが飛び込むべき海をもう一度見つけてくれたら嬉しいです」
雪代さんはゆっくりと俺の方へ顔を向ける。
その瞳は潤んでいたけれど、笑っていた。
「……奏太さんって、ずるいわね」
「え?」
「そんなことを言われたら……少し、頑張ってみようかしらって思ってしまうじゃない」
小さく笑うと、雪代さんはベンチから立ち上がった。
「ありがとう、奏太さん。でもね、あなたは応援“だけ”じゃないわ」
「……?」
「帰る陸があるからこそ、私たちは海へ飛び込めるのよ。そして、もし飛び込んだ先で危険があったら……あなたは迷わず助けに飛び込む人だって思うわ」
「……浮き輪を持ってなら」
「ふふふ。なら、安心して飛び込めるわね」
帰り道、落ち葉を踏む音だけが響く。
時折雪代さんが笑顔で振り返るたび、その笑顔がほんの少しだけ“近く”なっているように思えた。
空は高く澄み渡り、秋の風は少し冷たくて心地よかった。
――雪代さんが、飛び込んだ先でまたキラキラと笑える日が来ますように。
そんな願いが、風に溶けて遠くへ流れていった。




