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第18話 その日の夜に


「……少しだけ、飲み直してもいいかしら?」


バスタオルを頭にのせ、髪を拭きながらの雪代さんは食堂に入ってきた。

 シンプルなルームウェア姿で、髪からは石鹸の香りが漂う。

 俺は直視できずに思わず目を逸らす。


「2人が気合い入れて買ったものがあるんで簡単なつまみを準備しますね……その間に髪だけも乾かしてきてもらえますか? 風邪ひくと良くないんで」


「ふふ、奏太さんの仰せの通りにするわね」



 蠱惑的に微笑んだ雪代さんは食堂から出ていく。

 

 風呂上がりの無防備な姿や急な名前呼びにドギマギとした。

 でも、気になってしまう心を落ち着かせるために大きく息を吐き、つまみにピンチョスを作っていく。

 


 遠くで笑う顔も、目の前で小さく笑う顔も、少し前のいたずらな笑みも……どれが本当の彼女なのか分からなかった。

 やはり捉えどころのない人だ。


 

 でも、雪代さんも何かを求めて“音森荘(ここ)”に来たはずだ。

 そうでなければ、最前線で10年も戦っていた『白雪セラ』が引っ越してくるはずがない。



 ーーたとえ、どんな理由だろうと俺は生活を支えるだけだ……。



 よし! と気合いを入れ直すも自分で考えた“だけ”に少し呼吸が乱れる。




 カチャリとドアが開く音がして雪代さんが入ってくる。


「お待たせ。準備ありがとうね」


「いえ。仕事ですからね」


 答えながら作ったつまみとワイングラスを机に置く。


「あら、私は“雪代ゆり”としているのに、あなたは“管理人さん”のままなの?奏太さん」


 雪代さんはそう微笑んで、隣の椅子をひく。

 俺は自分のワイングラスを持って、そこに座る。


「それなら、守奏太として、改めてよろしくお願いしますね。乾杯」


「お酒売り場だけの一期一会にならなくて良かったわ。乾杯」


 少し演技がかった笑みを浮かべ、雪代さんはグラスを傾ける。



「そう言えば、上で配信の準備をしている2人に会ったわ」


 ワインを一口飲んでぽそっと「あの子たち良い顔してたわ」と呟く。そして、また新しく見る表情で笑う。今度はから揶揄うような笑みだ。


「それで、奏太さんはどちらと付き合ってるのかしら?」


「ぶっ! ……どうしてそうなるんですか!」


 吹き出しそうになった口を押さえて答える。


「あら?それじゃ2人とも?」


「そんな訳でないですよ!……管理人として……接してますよ」


 ひまりとハグをした時の柑橘系の匂いとカラオケのぼやけた空調、ナヅキと手を重ねた時の柔らかさと爽やかな秋の風、頭の中に浮かぶものを慌ててかき消す。


「随分と間があったわね。ふふ、雨音ちゃんが薦めるくらいだから“管理人として”だけではないのは分かるわよ」


「……雨音さんが?」


 この音森荘をlyric colourの配信者寮とするにあたり、何度かメールでのやり取りをしていた。


「そ。雨音ちゃんの勧めなの。だから奏太さんと話してみたくてね」


 そう言いながら雪代さんはグラスを空ける。雪代さんへワインを注ぎ、俺もグラスを空けて注いでもらう。


 

 “雪代さんは何のためにここへ?”という疑問を口にしようとしたが、揺れる瞳を見てしまい思わず飲み込む。



くしゅん

 

 少しの沈黙を破ったのは雪代さんの小さなくしゃみだった。


「……っ、あ、ごめんなさい」


 少しの間、髪を乾かさずにいたからだろうか。恥ずかしそうに鼻を押さえる。


「奏太さんが心配してた通りになったわね……あら、笑わないでくれる?」


「すみません。でも、少しだけ……可愛かったので」


「……ふふ、可愛いなんて久しぶりに言われたわね」


 頬を少し赤くしながら、けれどどこか嬉しそうに笑う。


 雪代さんはグラスの残りを見つめると、一気に飲み干した。


「……これ以上は酔っちゃいそうだし、本格的に風邪ひいて移してもやだし、今日はこのくらいで」


 そう言った時、声がほんの少しだけ甘く揺れた。

 

 買い出しに行くときにナヅキとひまりが言っていた『お酒が、大好きだな!』『お酒が、ちょっと苦手ー♪』ってこういうことか。


 立ち上がろうとするその足取りが、ほんの少しだけふらつく。


「大丈夫ですか?」


「……大丈夫。けど、少しだけ酔ってるかもしれないわね」


 そう言って、テーブルに片手をつきながら笑う顔は、いつもの“どこか作られた笑顔”とは違った。


「今日はありがとう、奏太さん」


「いえ、こちらこそ」


「……また、一緒に飲んでくれる?」


 問いかけるような瞳に一瞬だけ息を呑んだ。


「はい、いつでも」


「ふふ、約束よ」


 とろんとした目でいたずらっぽく笑って、雪代さんはゆっくりと立ち上がった。


 それでもまだ少し赤い頬のまま、少しふらつきながらゆっくりと廊下へ歩いていく。


 振り返りもせず、その背中がふっと部屋の奥へ消えるまで、俺は動けなかった。


 静かな夜に、ワインの残り香が漂う。




 ――雪代さんは、何を探しにここへ来たのだろう。


 問いかけた言葉が胸の奥で揺れながら、夜が深まる音だけが、小さく部屋に残った。


 


 

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