第17話 3人目の入居者は
午後の寮は、いつもより少しだけ静かだった。
お酒売り場で選んでもらったワインに合うように、ビーフシチューをコトコトと煮込む。ナヅキとひまりは早くも準備に取りかかっていた。
どこから取り出したのか、普段は敷いていないランチョンマットを広げながら、何度も玄関の方を気にしている。
「……まだ来ねぇべか……」
「うぅ、緊張してきた……! うち、変なこと言わないように気をつけなきゃ……!」
あまりの緊張ぶりに、思わずキッチンから軽口を飛ばしてしまう。
「ひまりが“気をつける”って言う時点で、ちょっと心配なんだけど」
「かなたん、ひどいっ! 今日はまじめモードだよー?」
ひまりがわざとらしく唇を尖らせ、ナヅキが小さく笑う。
少しだけ空気が緩んだ。
――今日、午後から『白雪セラ』がこの寮にやってくる。
そう思うだけで、寮の空気はどこか張り詰めていた。
ナヅキにとっては“憧れの先輩”。ひまりにとっては“遠くの光”。
そして俺にとっては――まだ実感の湧かない、名前だけ知っている大物配信者。
ふとひまりが、ナヅキの袖をちょんちょんと引っ張る。
「ナヅキちゃん、セラ先輩ってさ、どんな人?」
「……わたし、一年目のときにイベントで一緒に歌わせてもらって……“もっと頑張りたい”って思わせてぐれだ……」
ナヅキは言葉を選びながら、目を伏せる。
ひまりもそっと笑った。
「やっぱり凄いんだ! うちも、セラ先輩の
“全肯定朝活”……学校行く前にずっと見てて、すっごく元気出てたんだよね……うち、セラ先輩みたいになれるかな」
「な。憧れで終わらせだくね……」
ひまりがぽそりと言った想いに、ナヅキの小さな決意が重なる。
二人とも、それぞれの想いを抱えてこの日を迎えたことが伝わってくる。
そんな時。
リビングの扉が、すっと音もなく開いた。
「――失礼します」
静かな声とともに現れたのは、銀色の髪をゆるくハーフアップにまとめた女性だった。
二人は死角で気づかず、俺だけが目を合わせる。
――あの時、酒売り場で出会った女性だ。
女性は驚きつつも、にこりと微笑んで手に持っていた紙袋を掲げる。
思わぬ再会に、俺もぎこちなく会釈を返した。
その姿を見て、ひまりとナヅキが同時に振り返り――固まる。
「え、え、え……いつの間に……!」
「……ど、どこから入ってきたんだべ……?」
女性は静かに笑い、すっと腰を落とす。
「さっき着いたんだけど……皆さん、忙しそうだったから」
上品で落ち着いた仕草。でもどこか、背負っている何かを隠すような瞳の揺れがあった。
「今日からお世話になります。『白雪セラ』こと――雪代ゆりです」
二人は慌ててぺこりと頭を下げ、俺も鍋の火を止めて軽く一礼する。
いつもの日常に、ほんの少しの“特別”が混ざった気がした。
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雪代さんは紙袋から瓶と小さな箱を取り出し、テーブルに置く。
「引っ越しのご挨拶よ。大したものじゃないけど……」
緊張した空気の中で見せる柔らかな笑顔に、二人の視線が釘付けになる。
「……ありがど、ございます……」
「わ、わぁ……!」
ひまりは声が裏返り、ナヅキは胸元で手をぎゅっと握る。
雪代さんは小さく笑ったが、視線を合わせることなく全体を見渡すように目を動かす。
その笑顔が、少しだけ“壁”に見えた。
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シチューの香りが漂うリビングで、テーブルを囲む。
ワインを注ぐと雪代さんはグラスを軽く回し、香りを嗅いで目を細めた。
「このワイン、あの時選んでくれたものよね。楽しみにしてたの」
「俺も、どんな味か気になってました」
グラス越しに笑みを交わす。
その笑顔は穏やかで、どこか寂しげだった。
「乾杯しましょうか。……今日からよろしくお願いします」
軽くグラスが触れ合う澄んだ音が響く。
「かんぱーい!」
「……かんぱい、だな」
ナヅキの持つグラスが、ほんの少しだけ震えていた。
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「セラ先輩! あの……うち、先輩の朝活配信大好きで! ずっと……!」
ひまりが勢いよく話すと、雪代さんは笑顔で頷く。
「ありがとう、そう言ってくれるのは嬉しいわ。でも――ここでは“雪代ゆり”として楽しんでもよいかしら?」
笑顔で告げられたその言葉に、一瞬だけひまりの笑顔が揺れる。
「そ、そっか……そうですよね……えへへ、わかった!」
笑顔を作り直したが、ほんのわずかに声のトーンが落ちていた。
ナヅキも言葉を探しながらパンをちぎり、ぽつりと呟く。
「……んだ……楽しい時間に、なればいいな……」
「なるわよ、きっと」
雪代さんは穏やかに答えるが、その目は笑っているのにどこか遠くを見ているようだった。
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食事が進むにつれ、場は和やかになっていった。
けれど、深い部分で「ファンと憧れの先輩」の距離は、埋まりそうで埋まらないままだった。
「じゃあ、うちらそろそろ配信の準備してくるね!」
食器を片付けながら、ひまりが笑顔で声をかける。
疲れているだろうと、すでに雪代さんには風呂を勧め、部屋へ案内していた。
「……わだしも、今日、少しだけ……やりたい配信あるがら……」
ナヅキも少しだけ緊張した顔で続く。
「片付けは任せて。頑張っておいで」
俺が声をかけると、二人は元気よくうなずいた。
「ありがとう♪ いってきまーす!」
「ありがと。……いってきます」
ナヅキとひまりは並んで廊下を歩いていき、部屋のドアが閉まる音がした。
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食堂に残った俺は、一人でシンクに立ち、皿を洗う。
静かになった空間に、さっきまでの笑い声が遠くで響いているような気がした。
――あの人は、思ったより遠い人だった。
そう思ってしまう自分が、少しだけ情けない。でも同時に、あの人がここで自然と笑ってくれる日を見たいと思った。
けれど、なぜ“伝説”の彼女が、こんな小さな寮に来たのか。
この寮で、何を探しているのか。
そんなことを考えていた時だった。
「お邪魔してもいいかしら?」
ふいに静かな声がして、顔を上げると、バスタオルを頭にのせ、髪を拭きながらの雪代さんが食堂に立っていた。
シンプルなルームウェア姿で、髪からは石鹸の香りが漂う。
「お風呂、ありがとう。すっきりしたわ」
雪代さんはゆっくりと微笑むと、ワインの空いたグラスを指さした。
「……少しだけ、飲み直してもいいかしら?」
小さな笑顔が、今度はほんの少しだけ“近く”に見えた。
雪代さんは何を探しにここへ来たのだろう。
ーーそんな疑問が、ワインの香りに紛れて胸の奥に沈んだ。




