第15話 lyric colour本社にて
都心のオフィスビルの廊下にヒールの足音が響く。空調が効いた室内は、残暑の九月には少し肌寒いくらいだった。
「雪代さーん!」
背後から弾けるような声が聞こえ、私ー雪代ゆりーは小さく振り返る。
「あら、雨音ちゃん?」
駆け寄ってきたのは、同じ事務所のマネージャー、雨音美羽だった。
「偶然お見かけして……つい!」
偶然にしては息が切れているのが微笑ましい。
「ふふ。それなら、下のカフェで一息つきましょ。奢るわ」
「さっすが一期生、白雪セラさん……!」
誇張気味な反応を流しつつ、ふたり並んで階下のカフェへ向かう途中、社内スタッフと何度かすれ違い、会釈を交わす。
「ほんと、人が増えたわね……。たまに来ただけじゃ顔も覚えきれない」
「実は私もなんです。気づいたら、年次で上から数えたほうが早くて焦りますよ」
飄々とした口調には、言葉とは裏腹に焦りなど感じられない。雪代はくすりと笑った。
カフェでコーヒーを頼み、雨音を見ると、聞いたこともないトッピングを注文していた。
「今年入った子に教えてもらったんです。追加料金はかかっちゃうんですけど……ごちそうさまです♪」
「……はいはい。変わってないわね」
未だに小規模だったときのような近しい距離感をとってくれることに思わず笑みが溢れる。
コーヒーを受け取って席に着くと思わず、長い息がもれる。
「まったく……あの頃は、こんな大所帯になるなんて想像もしてなかったわ」
「雪代さんが支えてくれたからですよ。私、学生の頃『白雪セラ』の配信を観て、Vtuber業界に入ろうって決めたんです」
真っ直ぐな言葉に、むず痒さを覚えつつも、胸の奥が少し温かくなる。
「……それより、『音無こゑ』ちゃん、元気かしら? あなたとの電話が話題になってたでしょう?」
ふと思い出して口にすると、雨音の表情がかげる。
「実は……あの配信切り忘れから、ちょっと元気がなくて。配信もお休み中なんです」
「……そう。訛りは個性にもなると思うけど……本人は気にしてるのね」
「はい。でも私は、それも魅力だと思ってます。だから、環境を変えてあげようってことで……こゑさん、寮に引っ越したんですよ」
「あら、少し前に社長が言ってた、あの寮のことね」
そこで、雨音の表情が変わった。少し迷いを帯びながらも、何かを決意したように口を開く。
「雪代さん……引退するって、本当ですか?」
カップを口に運ぼうとした手が、一瞬止まる。
「……もう、聞いたのね。まだ正式じゃないけど、考えてはいるわ」
「じゃあ、その前に。……少しだけでもいいから、あの寮に住んでみませんか?」
「……私が?」
「はい。『音無こゑ』は、雪代さんに憧れてVtuberを目指したんです。たった数ヶ月でいい、同じ空間で過ごしてほしいんです」
唐突な提案に、言葉が出なかった。
――私は、誰かに影響を与えられるとは思っていなかった。昔は珍しかった。ただ、それだけ。
「……あなたも社長と同じ考え?そろそろプロデュース側にまわらないかって言われたわ。……でも、残念だけど、私はもう、誰かのプラスにはなれないわ」
「私は社長とは全く考えが違います……。私……私が言うのはおこがましいんですが、こゑさんだけじゃなく、雪代さんも、配信者としてまだまだ成長できるって、そう思ってるんです」
その言葉に、胸の奥で、何かが揺れた。
「……あなた、ずいぶん口が回るようになったわね」
「マネージャー歴、長いですから!」
吹き出しそうになるのを堪えて、カップを置いた。
「……分かったわ。部屋の整理もあるし、あと一ヶ月だけ待って。それでよければ」
「ほんとですか!?」
「ふふ。あなたがそこまで言う、『音無こゑ』って子に、ちょっと興味が湧いてきたわ」
「今年デビューした『陽向レイ』も入るんですよ!明るくて空気も読めて、ムードメーカーです!」
「あの子も?……ふふ、じゃあ共同生活でも気まずくはならなそうね」
10月になり、引っ越しを前にふたりの配信を改めて観た。
『音無こゑ』は、透明感のある歌声に、言葉にできない“熱”が宿るようになっていた。
重ねすぎていたものを一度ほどいて、再度結び直したような……以前と同じなのに、明確に違う。
『陽向レイ』は、以前の“置きに行く”歌い方から、“楽しさ”が滲み出す歌へと変わっていた。
自信の芽が音に表れ、空間ごと明るく染め上げる。
もう十分にやりきったと思っていたはずなのに。
それでも、この心のざわめきは。
「……案外、まだ終わりじゃないのかもね」
静かな部屋に、自分の声が響いた。
風に、秋の匂いが混じる。
あの子たちの声が、画面越しに心を揺らす。
この風に吹かれて、もう一度だけ、歩いてみようか。




