第14話 解いて、重ねて、ひかるもの
ナヅキと並んで駅へ向かう道は、秋の風が心地よく吹いていた。
少し前を歩くナヅキは、手にした日傘をくるくるとまわしては、思い出したように振り返り、柔らかく笑った。
何気なく鼻歌をこぼすその声が、風に乗って耳に届くたび、どこか映画のワンシーンに紛れ込んだような錯覚を覚える。
今日向かうのは、美術館。印象派展が開催されているらしい。
「……でっけなぁ」
到着した建物を見上げて、ナヅキがぽつりと漏らす。
打ちっぱなしのコンクリートに支えられた箱型の建物は、外観からして重厚な存在感を放っていた。
「初めて来たけど、すごいね」
「……な、展示見る前がら圧倒さぃる」
高い天井のホールには、彫刻家の作品が静かに立っている。
人の声も足音も吸い込むような清閑な空間に、思わずナヅキとの距離が近づく。
ナヅキのいる左隣から伝わる体温が、空調の冷気と対比になって、身体の左右で温度差が生まれる。妙にくすぐったい。
「印象派、好き?」
展示室に入り、カラフルな配色の絵が並び始めたところで声をかける。
「……好ぎも嫌いもねよ。初めで見に来だ。ばって、すごかね……」
ナヅキは瞳を輝かせて、絵に顔を近づいたり、少し下がったりしながら、熱心に見ていた。
一つ一つを吸収しようとするその真剣な姿を微笑ましく思いながらも、胸の奥に僅かにざらつくものが生まれた。
懐かしくもあり、少し痛いような、蓋をしていた感情。
「なぁ……奏太くん……」
ナヅキに呼ばれて足を止める。目の前の絵画は、陽の移ろいを捉えた風景。一つずつ乗せた色が集まり、遠目に見ると輝く光のように見えた。
「近くで見るとごちゃらっとして見えるのに、離れると綺麗に見える……なんでだべ?」
「……ね。一つ一つの色を混ぜずに置いていくと、逆に鮮やかになることもあるんだって」
ナヅキの薄紫の瞳に、何かを追い求めるような色が宿る。憧れ、あるいは焦り。
「ナヅキ、このあと、少し喫茶店でも寄っていかない?」
小さく頷くナヅキ。その仕草はどこか、いつもより脆く、でも、確かに頷いた。
美術館を回ったあと、俺たちは喫茶店には入らず、併設されたコーヒースタンドで飲み物を買い、美術館の周囲にある池の見える公園へ移動した。
ベンチに腰掛けて、しばしの静寂。2人で水面に映る空を見る
「何か、つかめた?」
カップを手に、隣で伸びをするナヅキに尋ねる。
「……なんも。……伝える力って、すげぇなってだけ」
そう言って、ふぅっと長く息を吐いた。
「……“表現”って、奥が深けの……」
「それって……ひまりの歌のこと?」
ナヅキは視線を池の水面に落としたまま、頷いた。
「んだ。前の歌枠、圧倒されだ。……楽しいって気持ちが真っ直ぐ出で、ちゃんと届いで……うらやましがった」
「ひまり、歌に自信なかったのにね。でも、あの歌は本当に良かった」
「……わたし、その前から悩んでらった。伝わる歌って、なんだべ、って……先ば、越されちまったみてで」
焦るような、置いていかれるようなナヅキの声に、俺の心がまたざらりと波打った。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
「俺もさ。ナヅキを見て、羨ましいって思ってた」
「……へ?」
「音大にいた頃、ばあちゃんが入院して、それをきっかけに辞めたんだけど……本当は、自分の音楽に自信が持てなくなってた。“楽しい”だけじゃ続けられないって思って……いや、“楽しい”って気持ちも薄れてきて、それに目を向けたくなくて……逃げたんだ」
ナヅキがこちらを見て、何かを言いかけて、やめた。俺は続ける。
「でもナヅキは、“楽しい”のその先で戦ってる。今日も何かを得ようとしててさ。……その姿勢が、眩しかった……」
「奏太くん、いづも真っ直ぐ褒めるな……」
「ナヅキの良さなら、いくらでも語れるよ」
「……えっ」
突然、顔を赤くするナヅキに、慌てて補足する。
「あ、いや、歌のな! 歌の良いとこ!」
「ふふ……歌以外も、語っていいんだよ?」
イタズラっぽく笑うその表情に、どこか救われる。
「でもさ、今日の印象派の技法みたいに、一つずつを混ぜないで配置すると、逆にきれいに見えるっての、面白かったな」
「……一つずつ、な……」
ナヅキは手の中のカップを見つめながら、呟いた。
「わたし、いろんなこと重ねすぎだっだのかも。“伝えなきゃ”“評価されなきゃ”って。……楽しさどがの上に、どんどん塗ってった」
「重ねて塗って、重厚になっていく良さもあるよ。……全部を否定する必要はないよ。……でも迷ってるなら、今あるものを、一度分解してみてもいいんじゃないかな」
「んだな……筆触分割、だっけ? その技法みたいに……」
そう言ってナヅキは、また少し前を向いた顔をして笑った。
「じゃ、奏太ぐん。わたしば分解するから、良いところ、一個ずつ言ってけろ」
「じゃあまずは……透明感のある声!」
「やっぱ恥ずかし……ゆっぐりでいいがら」
ふいに左手が冷たく、柔らかい感触に包まれる。
手の上には、隣に座るナヅキの手が重ねられていた。少し湿っているのは、さっきまで持っていたアイスコーヒーの結露か、緊張か。
ひんやりとしたナヅキの手はお互いの体温が行き来して、ゆっくりと温かくなってくる。
その柔らかい感触が心地よくて、恥ずかしいのに振り払うなんて、出来なかった。
秋の風がまた吹いて、木の葉が揺れた。
ふと木漏れ日がナヅキを照らす。
目を細めながら口ずさむ鼻歌は、分厚い色を分解して“喜び”を取り出したような音色だった。
明日から11時頃の1日1回更新となります。
この作品をほんの少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思った方は、
リアクションや感想、ブックマーク、下にある星での評価をしていただけると嬉しいです。
よろしくお願いします!