第10話 ケーキを買って思う顔は—sideナヅキ—
改札を抜けて、大きく息を吐く。
まだ馴染まないこの町の空気は、湿ったアスファルトのにおいと、少し甘ったるい何かを混ぜたような匂いがした。
駅前の商店街を抜ける途中、小さなケーキ屋が目に入った。
ガラス越しに、明るい照明に照らされた色鮮やかなケーキが、ほんの少し、現実から浮いて見えた。
ふと、ひまりちゃんの顔が浮かんだ。
(……あの態度は、よぐなかった)
初対面、というほどでもないけれど。
昨日、彼女が寮に来てからも、わたしは必要以上に距離を取ってしまった。
壁を作っていたのは、きっと、わたしのほうだ。
ケーキ屋の閉店間際、端のほうにぽつんと残っていた3つのケーキを選んで、箱に入れてもらう。
ケーキを盾にするなんて、と自分で笑いたくなるけれど、なんだかそれが小さな勇気になる気がした。
(わたしのほうが、避けてた……)
ひまりちゃんは、悪い子じゃない。
むしろ、まっすぐで、よく笑って、まぶしいくらいの子だ。
でも、だからこそ――少し、こわかった。
学生のとき。
明るくて人気者の子に、訛りを真似されて。
それが“クラス公認のいじり”に広まっていったときの、あの笑い声が、今も耳に残ってる。
その子とは違う。
分かってはいたけど、花守くんが笑わずに聞いてくれた、あの場所を壊したくなくてーー距離をとった。
でも。
手に持ったケーキの箱を見下ろす。
これが、小さな一歩になるなら。
「……よし」
そうつぶやいて、寮の玄関の鍵を開けた。
ふわりと鼻をくすぐる、だしと醤油のいい香り。
花守くんが料理をしているときの匂いだ。
玄関でスニーカーを脱ぎながら、小さくひとりごちる。
「……ただいま」
つぶやきに返事はなく、でも、足音が近づいてくる。
「おかえりなさい、ナヅキ先輩っ!」
跳ねるような声とともに、ひまりちゃんが顔を出した。
高い位置のポニーテールに、ラフな部屋着。手にはペットボトルの水。
さっきまで配信してたんだろう。ほんのりと体温の残る雰囲気。
「……あ、ただいま」
緊張のせいか、声が少し詰まった。
訛りは……出てない、はず。いや、わからない。呼吸のリズムが合わない。
「今日、歌録りだったんですよね? おつかれさま〜」
「ん……ありがど。んと、ありがとう……ね」
言い直す瞬間、自分でもわかるほど顔が熱くなった。
――やば。訛った。
ふだん配信では少し気にしなくなった。でも、目の前で、リアルに聞かれるのは、別だ。
気まずくて、視線を逸らそうとした、そのとき。
「んふふ、ナヅキ先輩って、ほんっと天然なんですね〜」
くすっと笑う声。
ナヅキは一瞬、目を伏せかけた。
――笑った。やっぱり……
でもその直後、ひまりちゃんの声が続いた。
「今の、訛ったことに笑ったわけじゃないですからね!言い直さなくていいのに、って思っただけ」
ぱち、とまばたきする。
……ほんとに?
「……そいでも、笑うなや……」
小さく拗ねたように言えば、ひまりちゃんはほっぺをふくらませた。
「えー? だってさ、癒しボイスでズルいもん。ほんと、得してますってば!」
大げさに肩をすくめるその様子に、思わず笑いそうになって、唇を結んだ。
「……うるさい」
でも、その声は、少しやわらかかった。
心の中の緊張が、ひとつ、ほどけていく。
「ふたりとも、風呂は後にしてごはん食べない?ちょうどできるとこ」
食堂から、花守くんの声が聞こえた。
エプロン姿で、湯気の立つお玉を持って現れるその姿を、つい見てしまう。
――似合ってる。素敵だな。
そう思った自分に、驚いて、ほんの少しだけ眉を寄せた。
(……なに、言ってんだ、わたし)
「賛成〜! 今日は一緒に食べましょう、ナヅキ先輩」
ひまりちゃんが笑って言う。
ナヅキは、少しだけ考えてから、ことりとうなずいた。
「……そうだね」
そして、手に持っていた箱を少し掲げた。
「……お土産、買ってぎだ」
わざと強めに出したイントネーション。
ひまりちゃんはぱっと笑って、目を輝かせた。
「やっぱり、その感じのほうがいいじゃないですか〜♪」
そして箱を受け取りながら「ありがとうございます。冷蔵庫入れておきますね」と笑って受け取って食堂に向かって跳ねていった。
「……かなたん、今日もご飯ありがと〜!ナヅキ先輩も、買ってきてくれた〜♪」
その嬉しそうに報告する横顔を、ふと見つめた。
――ひまりちゃん、もしかして……
ほんのかすかに胸の奥がざわつく。
わけもなく、ひまりちゃんと花守くんの距離が気になる。
でも、それ以上は考えないまま、足を踏み出した。
食堂までの廊下。
一つ緊張がとけて肩が軽くなったけど、一つ気になることができて、心臓は早い。
———
食後に合計6個になったケーキの中からじゃんけんで狩った順に好きなものを選んだ。
まさか、ひまりちゃんもケーキを用意してるとは思わなくて、明日のおやつも出来たねと3人して笑った。
ケーキを食べながら目を細めていたひまりちゃんがぽそっと話す。
「ナヅキ先輩、訛りが出ないように、あのしゃべり方だったんですか?」
一瞬、心がびくってする。
でも、もう夕食のときに訛りを出していたことを思い出す。
「……んだ。笑われるのが、おっかなぐで……」
「可愛すぎてでしょ〜♪笑うわけないですよー!」
笑いながらも、ひまりちゃんの目はまっすぐだった。
ばかにする気なんて、これっぽっちもない。
「てか、かなたんもさ〜、さっきからやたら先輩に話ふってたけど、うちらを気ぃつかってたでしょ〜?」
ひまりちゃんは、まるで答え合わせをするみたいに、嬉しそうに言う。
その距離はやっぱり朝よりも、少し近かった。
ほんのわずかに笑顔が固まった自分に、気づかれないようわたしは目を伏せた。
「……まあね。秋月さんが訛りを気にしてるのは、なんとなく聞いてたから。ひまりに言うのは違うと思って……間に入るくらいがちょうどいいかなって」
そう言って、どこか照れくさそうに微笑む花守くんはケーキを食べ終え、席を立つ。
たぶん、ひまりちゃんと2人で話せる時間を作るためだ。そういう気遣いの、人だ。
「……やさしいな、ほんと」
流しへ向かう背中が、なんだか少し遠く見えた。
「……ナヅキ」
呼びかけるように、小さく言った。
「え?」
「わたし、ナヅキ」
何を言ってるんだろう。自分でも、わからない。
「……秋月……ナヅキさん、だよ?」
不思議そうにまばたきする花守くん。
横から、ひまりちゃんが口を挟む。
「にゃはは〜、かなたん、ほんっと鈍感! もっと仲良くしてってことだよー。名前で呼ぶくらいに、ねっ」
「……ああ」
少し考えて、花守くんはゆっくり頷いた。
「じゃあ……改めて、よろしく。ナヅキさん」
――さん、か。
ほんの少しだけ、胸がちくりとした。
でも、わたしも、“くん”だ。
この胸にちくりと走った痛みには気づかないふりをした。
今日のぶんの勇気は、きっと使い切った。
だから、もうひとつだけ、甘えてみる。
二つ目のケーキにフォークを入れながら、そっと深呼吸した。
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