第九章:種を蒔く者
それから幾つもの月日が流れた。
戦火がいくつもの国を飲み込んだ。
あの威容を誇った隣国の軍も、王の死と共に崩れ去り、
地図から国が消え、民が散り、土地だけが残った。
けれど、歴史の波が押し寄せても、風景がすべてを飲み込むことはなかった。
山の麓に、小さな村があった。
土壁の家が十ほど並ぶ、どこにでもあるような寒村。
川も井戸もなかったその地に、かつて一人の僧がやってきた。
粗末な法衣に、傷だらけの鉢をひとつだけ持って。
最初に彼が行ったのは、井戸を掘ることだった。
誰も水など出るはずがないと笑った。
だが数日後、水は湧き出た。
それをきっかけに、村人たちは僧の行動を少しずつ手伝うようになった。
荒れ地を耕し、麦を育て、柵を作り、野獣を防ぎ、
病人の世話をするための小さな小屋が建てられた。
字を知らぬ子供たちに、石の上に線を引いて教える小さな教室もできた。
彼は説法をしなかった。
説教もしなかった。
ただ、黙々と汗を流して働いた。
子供たちが泣けば、近くで火を焚いた。
腹をすかせた者がいれば、自分の分を分けた。
苦しむ者には、ただ隣に座り、ときに肩を貸した。
それだけだった。
けれどそれだけで、人々の顔は少しずつ変わっていった。
畑には緑が増え、笑い声が聞こえる日も多くなった。
ある日、土を運ぶ僧のそばで、子供たちが訊いた。
「お坊さま、ほんとは偉い人なんでしょ?」
「偉くなどありません。わたしは、ここにいる皆さんと同じです」
「でも、なんでそんなに静かに笑えるの?」
その問いに、僧はしばらく答えなかった。
やがて、遠くの空を見上げながら、静かに口を開いた。
「……昔、とてもたくさんのことを、ひとりの子から教わったのです。
その子が、わたしの先生でした」
子供たちはきょとんとしながらも、それを“すごい人”という意味で受け取ったようだった。
村の片隅には、小さな墓があった。
だれが眠っているのかを知る者は、もういなかった。
けれど、毎朝僧はその前に立ち、短く瞑目するのが日課となっていた。
その日もまた、朝の光が墓石を優しく照らしていた。
僧はその前にしゃがみこみ、手のひらで草を払い、
風に耳を澄ませながら、静かに微笑んだ。
そして、立ち上がったとき――
空の高みに、ふと、光が跳ねた。
それは雲間から差し込んだ太陽の光かもしれないし、
ただの錯覚だったのかもしれない。
けれど僧の目には、
一瞬だけ――
赤い髪の少女が、空の高みで、笑ったように見えた。