第八章:光の中の言葉
柔らかな光が、墓の上から溢れていた。
それは炎のようでも、霧のようでもない。
ただ、温かく、眩しく、それでいて優しい光。
その中心に立っていたのは、ひとりの女性だった。
赤く揺れる髪、青い瞳、すらりと伸びた四肢。
顔立ちはどこか、あの少女に似ていたが、
姿は、ひとまわり成長したように見えた。
僧は光に包まれながら、茫然とその姿を見つめた。
声にならぬ息が喉の奥にとどまり、やがて、掠れるような声が漏れた。
「……貴女は……いったい、何者ですか……?」
その問いに、女性はゆっくりと頷いた。
「私は、“悟り”を求める者を導く神。
あなたの心を成熟させるため、少女の姿となってそばにいた者です」
その声は、深い井戸の底から響くように澄んでいた。
僧は肩を震わせ、言葉を探しながら、また問いかけた。
「……この私に、数多の問いと揺らぎを与え続けておられたのは……やはり、貴女だったのですね」
「答えていたのではなく、あなたが問い続けられるように、私は“そこにいた”のです。
理解とは、言葉によって与えられるものではなく、
自らの傷みと歩みによって育まれるものですから」
僧は目を伏せ、唇を噛みしめた。
「……なぜ、あのような少女の姿を取られたのですか。
あまりに無垢で、挑発的で……心を掻き乱す存在でした」
女神は微笑みを浮かべた。
「未成熟で、自由で、真理に対して臆さない者。
あなたが最も避け、そして最も強く惹かれる存在――
それが、あの少女の姿だったのです」
僧の両膝が崩れ、彼はその場に座り込んだ。
「わたくしは……本当に、真理に近づけていたのでしょうか。
この命を賭けてまで、歩いてきた道に、意味はあったのでしょうか……?」
女神の声は、風の中の水音のように答えた。
「“真理”も、“幸福”も、人が形にした幻。
それを追い求めるがゆえに、人は道を踏み外すこともある。
けれどあなたは、幻想の果てにある“実”を見出した。
助け、問い、揺れ、失い、泣き――
そのすべてが、あなたの理解となりました」
僧は震える手で地を支え、額を深く地面に落とした。
「……わたくしは、あの子に……貴女に、
何も返せず、何も守れませんでした……」
少女の顔をした女神は薄く微笑み、穏やかな声で告げた。
「その悔いこそが、あなたを前に進ませるでしょう。
もう、あなたは一人でも大丈夫。
これからは、あなたが得たものを、他の者へ分け与えていきなさい。
それが、私の――私たちの願いです」
女神の姿が、ゆっくりと淡くなっていく。
その最後に、彼女は確かに微笑んだ。
それは、少女がときおり見せた、知っていて黙っている者の表情だった。
「また、会えるわ。あなたが“忘れなければ”」
最後の光の粒が夜気の中に散ったとき、
あたりは、かつてと同じ、静かな地上の風景に戻っていた。
けれど、何もかもが変わっていた。
僧はその場に、まだ膝をついたまま静止していた。
まるで、光の余韻が体の奥深くにしみ込んでいくのを、ただ黙って受け入れているようだった。
肌に触れる空気が、あたたかかった。
それは風ではなく、地面から、空から、どこからともなく滲み出るような温もりだった。
頬を伝う涙の跡が乾ききらぬうちに、彼はそっと顔を上げた。
空はすでに薄く明け始めていた。
東の空がわずかに白み、その輪郭が夜と朝の境をぼんやりと照らしはじめている。
小鳥が、一声、森の方で鳴いた。
それはどこにでもある朝の音だった。
だが僧にとっては、長い旅路の果てに聞く「新しい世界の始まり」の音でもあった。
「……終わったのか」
そう呟いた声は、自らの耳にも違って聞こえた。
乾いていた。けれど、しっかりと地に足がついていた。
墓の前に目を戻す。
積まれた石は、夜露に濡れて光っていた。
その上に、あの指輪がひときわ小さく、静かに置かれていた。
僧は手を伸ばし、そっとそれを拾い上げた。
金属の冷たさはなく、むしろ人肌のようにぬくもりがあった。
少女の指に光っていたときの記憶が、いくつも心の中に蘇る。
からかい笑い、問いを投げ、先を歩き、時に黙って佇んだ少女の姿。
僧は目を閉じ、指輪を掌に握ったまま、深く息を吐いた。
そして静かに、それを自らの耳たぶに通した。
わずかな重みが、今の自分を確かに証明してくれる。
「私は……これからどう生きるべきかを、見出した気がいたします」
誰に向けたでもない、けれど確かに聞かせたかった言葉だった。
立ち上がると、体は思ったよりも軽かった。
これまで歩いてきた道の重さが、今はただの記憶になっていた。
地平線に向かって、ゆっくりと一歩を踏み出す。
草の葉が、風に揺れて擦れ合う音が足元から聞こえた。
朝が、始まっていた。