第七章:命の値段
風が変わっていた。
乾いてはいるが、どこかやさしい湿り気を孕んで、ふたりの足元を撫でるように吹き抜けていく。
午後の陽が傾きはじめ、空はまだ青く、遠くの雲がゆるやかに色づきはじめていた。
ふたりが歩いていたのは、ひらけた農村地帯だった。
道の両側には、黄金に染まった麦畑が一面に広がっていた。
穂は重く頭を垂れ、風に合わせてさらさらと波を立てる。
その音は、まるで水のようだった。
静かで、途切れなく、耳に心地よい。
「……いい匂い。なんか、焼きたてのパンみたい」
少女がつぶやく。
僧はその声に頷くだけで応じた。
だが、ほんのわずかに口元が緩んでいた。
麦刈りの季節なのだろう。
遠くの畑では、村人たちが総出で作業に取り組んでいた。
陽に焼けた腕が鎌を振るい、笑い声や掛け声が時おり風に乗って届く。
その光景の中で、ひとつだけぽつんと異質なものがあった。
土手の陰、麦畑と道の間に、小さな籠が置かれていた。
その中には、薄布にくるまれた赤ん坊が眠っていた。
ほんのわずかに揺れ動く小さな胸が、かすかに命を主張している。
「……あれ、母親かな」
少女が視線を追う先には、若い女性の姿があった。
髪を布で束ね、素早い動きで鎌を振るっている。
赤ん坊に気を配っている様子はない。
すぐそばの命を忘れているかのようだった。
そのとき――
僧が、空気の微細な歪みに気づいた。
「……気をつけろ」
少女が目を凝らす。
あぜ道を、何かが静かに這っていた。
地面にぴたりと張りついた黒い筋。
日陰に紛れ、麦の影を縫うように滑る細長い影。
蛇だった。
大きく、滑らかで、獲物を目指すような執着を持っていた。
その頭は、籠の中の赤ん坊へと向かっている。
「……!」
僧が走り出そうとするよりも早く、少女が叫んだ。
「あなた、赤ちゃんを受け止めて!」
声と同時に、少女の身体が地面を蹴った。
土埃を巻き上げながら、彼女は蛇の前に割り込み、
籠をつかむと、力強く僧の方へ投げた。
蛇が跳ねた。
少女の腕に、鋭い牙が深く突き刺さる。
「――っ!」
彼女の叫びは短く、喉の奥で止まった。
次の瞬間、少女は畑の中に崩れ落ちた。
僧は籠を受け止め、そのまま赤ん坊を抱えたまま走り寄る。
「……なぜ……!」
少女はかすかに笑った。
顔は青ざめ、唇はすでに震えていた。
だが、その目はかすかに光を帯びていた。
「なんで……だろ。ずっと一緒にいたから、
あなたの考えが……移ったのかも」
腕はすでに腫れ上がり、黒い血がじわりと滲んでいる。
僧は必死に村人たちへと呼びかけた。
「誰か! 解毒ができる者は――!」
母親が駆け寄り、赤ん坊を抱き締めて泣き出した。
だが、周囲の者たちは戸惑い、誰も前に出ようとしない。
僧は少女の体を抱え、必死に毒を吸い出そうとしたが、
既に毒は全身にまわり始めていた。
少女はかすかに目を開ける。
「……死ぬな、私をひとりにしないでくれ」
僧の声が震え、指先に力がこもる。
だが、少女は薄く微笑む。
「変な人……
あなたが大事にしてるのは、真理とか、幸福でしょ。
わたしなんかじゃない……」
目を閉じる直前、その声はほとんど聞き取れないほどだった。
少女の身体から、力が抜け落ちる。
僧はその場で声を上げず、深く、深く、肩を揺らした。
涙が静かに、麦の地面に落ちていった。
少女を埋めたのは、村の外れ、木陰の傍らだった。
土は乾いており、鍬も使えない場所だった。
僧は素手で、石で、地面を掘り続けた。
爪が割れ、手の皮が破れ、血が滲んでも、彼は止めなかった。
少女の身体を土の中へそっと横たえると、
その上に、赤い石をひとつひとつ積み重ねていった。
最後に、彼女が身に着けていた布の端を墓標代わりに埋め込み、
その前に正座したまま、僧は動かなくなった。
時は流れた。
空が何度も色を変え、風がいく度も彼の袖を揺らした。
けれど、僧は一言も発さず、まばたきすら忘れているようだった。
村人が食事を運んできても、視線を向けることすらなかった。
その姿を、村人たちは遠くから見ていた。
「気味が悪い」と言う者もいれば、
「祈っているのだろう」とつぶやく者もいた。
しかし本当は、僧は祈ってなどいなかった。
彼はただ、少女の墓の前で、
崩れそうな心を、胸の奥でひたすら抱き締めていた。
「……なぜだ」
喉の奥で、ようやく声が漏れた。
それは風にすら聞こえぬほどの、かすれた呟きだった。
「なぜ、彼女だった?」
少女の顔が脳裏に浮かぶ。
短く刈られた赤毛。
少し吊り上がった瞳。
あの鋭く、そして時おり無防備だった視線。
彼女が生きていたということが、現実から遠ざかっていく。
「私が……“真理”を探していたせいか?
彼女が“変わってる”と言ったせいか?
なぜ、私ではなく、彼女だったんだ……」
言葉は地に吸われていく。
返ってくるものはない。
「もし、真理があるのなら――
それは、この喪失の意味も教えてくれるのか……?」
彼は顔を両手で覆った。
目を閉じても、まぶたの裏に少女の姿が焼き付いている。
走る姿。笑う声。あざけるような目。
赤ん坊を放り投げた瞬間の、決意に満ちた横顔。
「……わからない。
私は、何のために歩いていたのか。
何を信じて、何を求めて……
なぜ、彼女の命を……私が、救えなかった……」
彼は地に額をつけた。
土の匂いが鼻をついた。
その冷たさが、胸の奥まで染み込んでくる。
「幸福とは……
真理とは……
本当に、何かと引き換えにするほどの価値があったのか?」
そう問いかけながら、彼の中で一つの声がささやく。
――“お前は少女の問いに答えられなかった”
――“本当は知っていたのではないか?”
――“真理は、もうそこにあったのではないか?”
僧の肩が震える。
喉から絞り出すような嗚咽が漏れた。
何時間も、何日も、泣かなかったはずなのに。
今、彼の胸の奥から、滲み出るように流れていく。
涙は土に染み、ひとつ、またひとつ、石に落ちた。
そして、彼の意識が薄れかけた、そのとき――
墓に積まれた赤い石の一部が、ふわりと淡い光を帯びた。
はじめは熱気のゆらぎのようだった。
それがゆっくりと広がり、墓の上に柔らかな光が立ち上った。
その光の中に、ひとりの女性が現れた。
その姿は透けるようで、はっきりとしていた。
赤毛の輝き。青い瞳。
けれど、背丈も容姿も、少女のそれとはわずかに異なる。
それは、まるで少女が成長した姿のようだった。
僧は、その光に包まれながら、声を漏らした。
「……貴女は……いったい、何者ですか……?」
女性は微笑んだ。
その微笑は、あの少女がときおり見せた――“何かを知っている者の顔”だった。
「私は、悟りを求める者を導く神。
あなたの心を成熟させるため、少女の姿となって寄り添っていたのです」
光が、音もなく僧を包み込んでいく。
夜が明けようとしていた。