第五章:救いとその代償
風は変わった。
軍勢が通り過ぎたあと、道には砂埃と、剥き出しの現実だけが残っていた。
その日の午後、ふたりは小さな村にたどり着いた。
ひなびた木造の家が数軒、雨水をためた桶と、干からびた畑。
人の声は聞こえるが、そのほとんどは荒れていた。
村の入り口、古びた井戸のそばに、一組の親子が立っていた。
母親はやつれ、父親は頬をこけさせ、
手には金を受け取ったばかりのような布袋を握りしめている。
そのそばには、五つか六つほどの歳の男の子。
怯えた目で、母親の裾にしがみついていた。
彼らの前には、ロバを連れた男が立っていた。
顔を覆い、長い鞭を腰に巻いたその男は、奴隷商人だった。
「……あの子、売られるんだね」
少女の声は低かった。
僧は一歩、彼らに近づいた。
「お待ちなさい」
そう声をかけたとき、奴隷商人が眉をひそめて振り向いた。
村人たちが、遠巻きにこちらを見ている。
僧は、布袋に手を入れ、先日王からもらった金貨を取り出した。
少女が驚きの目でそれを見る。
「お前、何者だ?」
商人が警戒の声を上げる。
「これで十分だろう」
奴隷商人は金貨の質を確かめると、目を細めてうなずいた。
「……釣りはでねえけど良いんだな。」
男の子は母親の手を離れ、恐る恐る僧の方に視線を向ける。
「行っていいよ。母親のところへ」
そう促すと、子どもは駆け出した。
母親の胸に飛び込んで、やっと声をあげて泣いた。
その光景を見届けたあと、僧は静かにその場を離れようとした。
しかし、少女はその場にとどまったまま言った。
「ねえ、それでよかったの?」
僧は立ち止まる。
「……救えた命がある。それで十分だ」
少女はかすかに笑った。
それは、あざけりでも嘲りでもなく――哀しみを帯びた微笑だった。
「でもあの親、お金がなくなったら、
あの子、また売るよ」
僧の表情が一瞬曇った。
「分かっている。
けれど、わたしは今、あの子を救うことができた、だからそうした。」
「それって……ただの自己満足じゃない?
“今救えた”って、自分が安心するためだけの善意」
僧は何も言わなかった。
それは図星だったからではない。
その問いを、自分自身にずっと問いかけてきたからだ。
少女は歩き出し、僧の隣に並んで言った。
「あなたの“やさしさ”って、
本当に誰かのためになってるのかな。
それとも、あなたが“自分でいたい”ためのもの?」
「分からない。
施し、慈しみ、助け合い、それらは人の美徳だと私は思っている。
それらを失えば人は簡単に獣へと落ちるだろう。
私はまず人でありたいのだ」
風が吹いた。
ふたりの姿が、村の外れへと消えていった。