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第四章:王と金貨

女は卓の向こうで静かに香を見つめていた。

その目線をゆっくりと僧へ移すと、ふいに口を開いた。


「……あの。実は、あなたに個人的な相談がございますの。」


「ご相談……?」


「はい。どうか、おひとりで、隣の部屋へいらしてくださらない?」


僧が口を開きかけたとき、女は先に付け加えた。


「この子は、少しの間ここにいてもらえますか。

 料理を食べながら、ゆっくりしていてほしいのです。」


少女はわずかに眉をひそめたが、僧は一度だけ彼女の目を見て、うなずいた。


従者が軽く頭を下げ、僧を別室へと案内した。



---


部屋の扉が静かに閉められた。

外の喧騒は遠のき、室内には香と静けさだけが漂っていた。


女は僧の前に立ち、ゆっくりとベールを外した。


そこには、整った顔立ちがあった。

大きく整った目、形の良い鼻と口。

だが、目尻には深い皺が刻まれ、頬の張りはわずかに失われていた。

美しさと老いが入り混じった、不思議な存在感があった。


女はじっと僧を見つめた。

そして、その視線に熱を帯びながら、柔らかく語り出した。


「私は……忘れられないのです。

 かつて、私の中に燃えていたあの感覚。

 肌に触れる熱、目を閉じたときに残るぬくもり……」


彼女はゆっくりと、手を差し出した。


「人の情念は、罪なのですか?」


僧は目を伏せた。


「……その情念が誰かを傷つけるのなら、

 それは煩悩の闇へと変わるでしょう。」


「では、今、私はあなたを傷つけていますか?」


女の声は切迫していた。


「私は……見知らぬ男をこうして招き入れ、

 欲望をぶつけるように、幾度となく――

 でも、それでも満たされない。

 心が、飢えているのです。」


その目は、懇願とも絶望ともつかない色を帯びていた。


「あなたは違うと思ったのです。

 だから……どうか、私を抱いて」


彼女が一歩、近づく。


だが、僧は動かなかった。

いや、動けなかった。


女の姿の奥に、昨夜の少女の姿が重なった。

濡れた髪、寄り添ってきた肩、問いかけてきたまなざし――


それが重なった。しかし全く別の感情が沸き起こる。

醜く汚らしい汚物のような姿・・・。自分の心に沸き起こったのは嫌悪の気持ちだった。


「やめてください……!」


僧は震えるような声で言った。


「あなたの中にある渇きは、私では癒せません。」


女の瞳に、傷ついた獣のような表情が走った。


「たとえ一時でも、私の渇きを癒していただけないのかしら。あわれな衆愚に情けをかけるのも尊き者のつとめでは?」


僧は堪えきれず、身を翻した。

扉を開け、廊下を走り抜ける。


広間に戻ると、少女が適当に食事を摂りながら僧を待っていた。


「ここを出る。行こう」


僧は息を乱しながら言った。少女の手を強く握る。


少女は何も聞かず、そのまま扉の外へ駆け出した。



---


家を出たときには、空は少し曇り始めていた。

砂と風が町を撫でていた。


ふたりは道を戻り、人の目を避けるように歩き続けた。

少女は何も言わなかった。

僧もまた、長く黙っていた。


やがて、森の手前まで来たとき、僧がぽつりとつぶやいた。


「……人の情念というのは、恐ろしいものだ。

 けれど――

 同時に、悲しくもある……」


少女は足を止め、僧を見た。

なにか言いたそうに口を開いたが、言葉にはしなかった。


「……そうね」


それだけを言って、ふたりはまた歩き出した。


言葉の代わりに、風が木々を揺らしていた。


-----------------


空は抜けるように晴れていた。


風は乾き、砂塵を巻き上げながら、まっすぐに道を渡っていく。

ふたりの足が踏みしめるその道は、幅広く固く締まっており、

かつて大軍が通ったであろう轍の跡が、幾筋も刻まれていた。


僧と少女は並んで歩いていた。

遠くには、乾ききった野と、かすかに波打つ低い丘。

その先には、熱気に揺れる地平線が見えていた。


「……こんな広い道に誰もいないの、不気味だね」


少女がぽつりとつぶやいた。

僧は少しだけ首を傾けるようにして答えた。


「人の気配が消えた道には、理由があることが多い。

 誰かが恐れ、誰かが避けている。」


その言葉の直後だった。


かすかな振動が、地面を通して足元に伝わってきた。

少女が眉をひそめる。


「……なに?」


「踏み鳴らす音。多数の足と蹄だ」


その瞬間、丘の向こうから砂塵が上がった。

すぐに、それが単なる風ではないことが分かる。


鎧の光がちらりと閃く。

馬のいななきが混ざり、鋼のぶつかり合う音が空を裂いた。


「軍隊だ。……あれは、隣国の印だな」


僧の言葉に、少女は息をのんだ。


隊列はまっすぐふたりのいる道を目指して進んできた。

規律ある行進、そして中には明らかに武装した騎兵たちの姿も見える。


「隠れる?」


少女が問うと、僧は首を横に振った。


「広すぎて身を隠せる場所もない。

 下手に逃げるより、正面から立っていた方が安全だ」


「安全……っていうのは、楽観的じゃない?」


「だとしても、選べる道はない」


ふたりは道の脇に立ち、ゆっくりと接近してくる軍勢を見つめた。

馬蹄の音が地面を叩き、兵士たちの掛け声が、遠くから一塊のうねりとなって押し寄せてくる。


やがて、先頭の騎馬が僧と少女を視界に捉えた。

合図が飛び、軍列が次第に減速する。


中央の騎馬が前に出た。

甲冑の上からは刺繍の入った外衣を羽織り、腰には装飾付きの剣。

年齢は三十代半ば、髭を整えた男が馬の上からふたりを見下ろした。


「そこの者、何者だ。どこへ行く」


僧は静かに一礼し、落ち着いた声で応える。


「修行の旅の途中にございます。

 行き先は決まっておりません。風に任せて歩いております」


男は僧を一瞥したのち、少女の方に視線を移した。

少女は一歩も引かず、まっすぐに男を見返していた。


その様子に、男の口元がわずかに歪む。


「変わった組み合わせだな。……興味深い」


手を上げると、後方から従者がひとり駆けてくる。


「王が面白いものを見つけたと仰っておられる。

 ふたりとも、同行してもらおう。拒否は許されない」


少女は僧を見た。

僧は、ほんのわずかだけ目を細め、静かにうなずいた。


「分かりました。従いましょう。

 無抵抗であることが、誠意を示す唯一の手段ならば」


騎兵がふたりの前に立ち、左右から護衛するように並ぶ。

そして軍勢は再び動き出した。


今度は、ふたりもその列の中に含まれていた。


少女は、小声で僧に言った。


「やっぱり、変な道だったじゃない。

 誰も歩いてなかったのには、理由があったね」


僧は前を向いたまま、低く返した。


「道とは、誰が歩いたかではなく――

 誰と、なにを考えながら歩くかで決まるものだ」


軍勢が進むことしばらく。

幌をかけた輿が中央で止まった。

それを囲むように騎馬と歩兵が円を描き、空間が開けられた。


「王がお呼びだ」


先ほどの将官が馬から下り、僧と少女に目配せをする。


ふたりは誘導されるまま、輿の前へと進んだ。

そこで、僧は深く一礼し、少女もその隣に静かに膝をついた。


まもなく、輿の中から姿が現れる。


腰までを布の中から覗かせた男は、四十代半ばほどだろうか。

濃い眉に短く刈り込まれた髪、額には金糸のバンドが巻かれている。

肌は浅黒く、顔つきは鋭いが、その目はどこか疲れていた。


王は、僧の姿を一瞥したのち、

少女にしばらく視線をとどめた。

だが特に何も言わず、懐から一枚の金貨を取り出して、投げた。


金貨はくるりと宙を回り、僧の前の地面に落ちる。


「騒がせたな。取っておけ」


僧は金貨を見つめたまま、手を出さなかった。


「それでは――問おう」


王の声は朗々としていた。

だがその響きには、単なる好奇ではない、

何かを確かめようとする気配があった。


「お前は、何を求めている?」


僧はゆっくりと頭を上げ、静かに答える。


「私は、“真理”を求めて歩いております」


その言葉に、王は眉をわずかに動かした。


「……真理?」


「はい。

 人はなぜ苦しむのか。

 何が人を幸せにするのか。

 生きるとは何か――

 その問いの果てにあるものを探しています」


王は短く笑った。

冷笑でも、嘲笑でもなく、どこか懐かしむような微笑だった。


「そうか。

 私も昔は、似たようなことを考えていた。

 だが、今の私は“真理”より“勝利”を選ばねばならん立場だ。

 力がなければ、正しさなど誰も耳を貸さぬ。

 お前のような者が死んでも、風の音ひとつで消えるだけだ」


僧は、金貨の上にそっと手を置いた。

だが、それを拾い上げようとはしなかった。


「それでも、私はこの道を歩き続けます。

 たとえ誰にも聞かれず、見られずとも――

 この問いが、私の生きる理由ですから」


王はその言葉に何も言わなかった。

ただ、少しのあいだ沈黙したあと、再び視線を少女に向けた。


「お前は? この男と共に歩く理由はなんだ」


王の目が、少女へと向けられる。


少女は、一瞬だけ目を伏せるようにしてから、

今度はまっすぐに王を見返して答えた。


「この人、危なっかしいし、変わってる。

 でも――それが面白くて一緒にいるの」


風が吹き、少女の赤毛が頬をかすめた。

その目は、冗談めかしながらも、どこか鋭い光を湛えていた。


「それにね。

 この人が探してるものにも、ちょっと興味あるの。

 “もう知ってるのに、知らないふりしてる”――そんな感じがして」


王は一拍、黙ったまま少女を見つめた。


やがて、その顔にかすかな笑みが浮かぶ。

それは満足とも皮肉ともつかぬ、深く沈んだ微笑だった。


「……よい目をしているな」


王は腰を引き、輿の奥へと身を戻しながら言った。


「私が世界を制した時、会いに来るがよい。

 その時、私とそなたらの――

 どちらが正しかったかを問おう」


その言葉を合図に、輿が静かに閉じられる。

軍勢が再び動き出すと、馬蹄の音が大地を叩き、

騎馬と兵の列は、ふたりを残して去っていった。


広い道に、風と砂と、静けさだけが残った。


僧はまだ、膝の前に落ちた金貨をじっと見つめていた。

拾おうともせず、ただそこに置かれた“意味”を探るように。


少女が手を伸ばし、金貨を拾い上げた。

そして、手のひらで転がしながらぽつりと呟く。


「……これが、あの王の“武器”なんだよね」


僧は少女を見た。

少女は視線を外さず、今度は静かに問いかける。


「あなたには――なにがあるの?」


沈黙が落ちる。


僧は答えなかった。

だがその胸の奥に、何かがはっきりと問い直されているのを感じていた。


風が吹いた。

乾いた大地を越えて、遠くで雷鳴がかすかに響いた。

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