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第三章:揺らぎの炎

空が泣き始めたのは、午後の終わりだった。


最初は、木々の葉を濡らす程度の静かな雨だった。

だが、あっという間に空気は重たくなり、風が湿り、

次第に地面を叩く激しい音へと変わっていった。


森の中の細い道は、ぬかるみとなり、足元を奪う。

僧と少女は無言のまま歩を進めていたが、雨脚はますます強くなり、

まるで大地全体が水に呑まれようとしているかのようだった。


「ねえ……あそこ!」


少女が指を差した。

鬱蒼とした木立の向こうに、岩肌が露出した斜面が見える。

そのふもと、岩の庇のようになった影に、朽ちた石造りの小屋がひとつ、口を開けていた。


屋根は崩れかけ、壁は半分以上が崩落していたが、雨風をしのげる程度には使えそうだった。


ふたりは駆け込むようにして、そこに身を寄せた。


中は崩れた屋根の一部が床を覆っていたが、半分くらいは元の状態を保っていた。

火を起こせそうな場所も残っている。

割れた天井の隙間から雨粒がぽたぽたと垂れていたが、

それでも外よりはずっとましだった。


僧は濡れた法衣をしぼり、少女は長い赤毛を両手で持ち上げてはらっていた。


「まだ止みそうにないな。しばらくここにいるしかなさそうだ。」


外では、今も雨が地面を打ち、遠くで雷が低く鳴っている。

湿った空気が、呼吸のたびに肺を重くする。

このままでは風邪をひいてしまう。暖を取る必要があるが、あいにく火を起こすための道具は持っていなかった。

僧が悩んでいると、いつの間にか少女がたくさんの薪を手に持っていた。

「な、どうやって?」

「ないしょ。と言いたいけど、その後ろにあったよ。」

崩れた壁の後ろを除くと、確かに薪がいくつか落ちている。幸い、壁が雨を防いでくれたおかげで濡れていなかった。

僧も薪を拾い、中央の雨が当たらない場所に組んだ。しかし火種がない。

少女は腰に付けた小さな川の袋から火打石を取り出した。薪の下に置いた木くずや枯葉に火をつける。すぐに火は大きくなった。

屋根からこぼれる雨が時々垂れてくるが、十分な大きさになった火は消えそうにない。二人はその周囲に座る。はぜる火を見ながら僧はようやく安どの息を吐いた。

「本当に君には驚かされるな。いったいどれだけの隠し種を持っている・・・っ!」

少女は服を脱ぎ捨てて裸になっていた。脱いだ服を絞っている。しみ込んだ雨が大量に滴り落ちていた。

僧は慌てて視線を逸らす。

「す、すまない。」

少女は全く気にしていない。脱いだ服を火に充てて乾かし始めた。

「お坊さまも脱いだ方が良いよ。すぐに乾くから。」

そう言われて僧も法衣を脱いだ。少女の方を見ないようにして法衣を火に充てる。

「別に気にしないって。それよりそばに行っても良い?」

返事を聞く前に少女は僧の横に来て座る。裸でいることに全く躊躇がないようだ。

心を鎮めようと僧は目を閉じて暗記した書物をそらんじる。しかし集中できない。

少女は背中を合わせてきた。じんわりと体温が染みてくる。僧は自分の中によこしまな欲望が満ちてくるのを感じていた。


「お坊さまってさ……本当に人のこと“欲しい”って思ったことないの?」

ふいに聞かれて僧は少しだけ顔をそちらへ向けた。

その声には、普段のからかい混じりの調子がなかった。


「……欲しい?」


「うん。たとえば、人の肌とか、温もりとか。そういうの」


僧は黙ったまま目を閉じる。ふと背中に冷たい空気が感じられる。

目を開けると少女が僧の前に移動していた。

炎に照らされたその姿は幻想的であり、抑え込んでいた何かが外れる感じがすると共に耐え難い衝動が湧き上がってくる。

僧の股間を少女が見つめる。

その視線には怯えも動揺もなかった。

むしろ、喜色がわずかに混じっていた。


少女は視線を逸らさずに言った。


「人ってさ、食べたいとか、眠りたいとか、それと同じくらい――誰かに触れたいって思うものじゃないの?」

僧は衝動に抗いながら必死で声を絞り出した。

「……それは、人として自然なことだ。」


「じゃあ、抑えてるの? 欲しいと思ったことはある?」


僧は再び目を閉じた。


「……あるよ。もちろん。

 でも、それを追えば、見えなくなるものがある。」


「“真理”ってやつ?」


「そうだ。」


少女は近寄り、僧の顔に手を伸ばして触れる。


「でも、“真理”って、そんなに触れちゃいけないほど繊細なものなの?」


「繊細というより、深い。欲望は、表面にあるからこそ強い。

 だが、その奥にある静けさに、私は触れたいと思っている。」

僧の理性ははじけ飛ぶ寸前だった。もうこれ以上、私を惑わせないでくれ。

少女はわずかに笑った。

その笑みは、からかいとも同情ともつかない、曖昧な感情のにじむものだった。


「あなた、本当に変な人だね。」


その言葉のあと、少女は僧から少しだけ離れた。一糸まとわぬ姿で僧を見つめている。

僧は動かなかった。


沈黙。

雷の音が、また遠くで鳴った。


「もし、わたしがあなたを試してたら、どうする?」

少女の表情は恐ろしいほどに官能的で、男を惑わすような視線を投げかけていた。

「私は一時の感情に流されて真理を見失うのが怖い。肉欲はもっとも心を曇らせると教わったからだ。」

僧は必死に答えた。

少女がにじりよる。

「自分の言葉で話して。あなたは私が怖いの?」

「違う。信念を覆してしまう行為が怖いだけだ。」

「体の一部はそんなになっているのに?あなたの心はうそつきだけど、体は正直ね。」

僧は何も言い返せなかった。なぜ私は自分の体すら自由にできないのだろう。


少女はしばらく黙っていた。

やがて、元の場所に戻って座った。乾いた服を着る。


「つまんない。」

少女はくるりと反対を向いて寝転がった。すぐに規則的な寝息が聞こえてきた。


僧はよやく全身の力を抜いて、大きな息を吐いた。金縛りになったかのように全身がこわばっている。

乾いた法衣を手に取り立ち上がる。小屋の外へ出た。

いつの間にか雨は弱まり、雲の切れ間が見えていた。

法衣を纏い、先ほどの出来事を考えていた。なぜ少女は私を試すような行動にでたのだろう。普段は決してそのような行為はしないのに。

今まで自分が経験してきたものから比べると、肉欲の誘惑というものは抑えがたい衝動を呼び起こしてしまう。果たして真理を見つけても、欲望の力は変わらないのだろうか。

答えのない問いかけを僧は心の中で繰り返す。雨はほぼ止んで、わずかに晴れ間が見えていた。


次の日の早朝

重たい雲はまだ空に残っていたが、木々のあいだから覗く空は、青みを取り戻しつつあった。

森にこもっていた雨の匂いが、朝の冷たい空気と混ざり合っている。


二人は、朽ちた小屋を出た。


足元の土はぬかるみ、雨水がつくった細い流れが道を横切っていた。

濡れた葉が足音を吸い取り、森はしんと静まり返っていた。


しばらくは、ふたりとも無言だった。


僧は、少女の方を一度も見なかった。

しかし、少女は何度も僧の横顔をちらりと盗み見ていた。


その沈黙は、昨夜のやり取り――あの密室での一言一言が、

僧の中にまだ残響のように残っていることを、少女に告げていた。


やがて、少女がぽつりと口を開いた。


「眠れなかったんでしょ。」


僧は立ち止まりはしなかったが、一瞬だけ目を閉じるようにして呼吸を整えた。


「……眠ったような、眠らなかったような。」


「夢、見た?」


「見なかった。あるいは、見ていたとしても、忘れた。」


少女はくすっと笑った。


「見てたよ、きっと。」


僧は黙ったまま歩き続けた。


「ねえ、あなたってさ、自分のこと、ちゃんと知ってる?」


少女の声は、からかい半分、しかし少しだけ真剣だった。


「“欲望を抑えてる”とか、“真理を目指してる”とか、

 そうやって言ってるけど……

 ほんとは、自分がなにを恐れてるかも、ちゃんとは分かってないんじゃない?」


僧は足を止めた。


森の奥から鳥の声が聞こえる。

それが、なにかを遮るような静けさに変わる。


「……私は、自分の弱さを知っているつもりだ。

 それを抑えるために、歩き、学び、問い続けている。」


「でもそれって、“知らない”って言ってるのと同じじゃない?」


少女は、木の根に腰を下ろし、濡れた靴を脱いで足を乾かしながら続けた。


「本当に知ってたら、そんなに隠さないよ。

 怖がらないし、目もそらさない。」


「……君は、どうなんだ。自分を知っているのか?」


少女は一瞬だけ考えるような表情を見せた。


「知ってるよ。……でも、知らないフリしてる。」


「なぜだ?」


「だってその方が、楽しいから。」


少女の答えは、子どものようでいて、どこか悲しいほど大人びていた。

僧は何も返さなかった。


森を抜けたとき、風の匂いが変わった。


樹々のざわめきが背中に遠のいてゆき、代わりに人の声、家畜の鳴き声、

そして土と煙と油の混ざった匂いが鼻をかすめた。


小高い丘を越えた先に、町があった。


土色の煉瓦と、粗く積まれた石壁に囲まれた町並み。

低い屋根が連なる家々の間を、幾筋もの路地が蛇のようにのびている。

市場のざわめき、遠くで鳴る鐘の音、鍛冶屋の槌の響き。

乾いた空気に、活気と緊張が混ざっていた。


少女は立ち止まり、町の全景を見渡して言った。


「ひさしぶりに“人間の匂い”って感じだね。」


僧は答えなかった。

だが、その足取りがわずかに重くなるのを、少女は見逃さなかった。


町の入り口近くには、旅人向けの簡素な井戸と広場があった。

水をくむ女たち、薪を運ぶ子供たち。

その中を、僧と少女は無言で歩いた。


人々の目が、ちらちらと彼らを追った。


僧の法衣は雨で濡れており、ほこりと泥が裾にこびりついていた。

少女の衣は上等な織物だったが、同じく濡れてしわが寄っていた。

そしてなにより、ふたりの組み合わせは異様だった。

粗末な僧と、高貴な装いの少女――

その関係を測りかねる者たちの視線が、ひそやかに集まっていた。


少女は視線に気づきながらも、気にする様子はなかった。


「ねえ、お坊さま」


「……なんだい」


「さっきの話の続きだけど」


僧は歩きながらうなずいた。


少女はくるりと前に立ち、歩みを止めさせるようにして彼を見上げた。


「“欲望は表面にある”って言ってたよね。

 でもさ、表面にあるなら、触れたっていいんじゃないの?」


僧の目がわずかに揺れた。


「……何を言いたい」


少女は少し笑って、いたずらっぽく言った。


「だから、わたしを“欲しい”って思ったことあるのかって、もう一回聞いてるの。」


町の広場の隅、人通りの少ない石塀の影。


少女は一歩、僧に近づく。


僧は目を逸らすことなく、少女を見つめた。

だが、その視線には葛藤があった。


「君は……なぜそんなことを聞く」


少女はほんの少しだけ表情を曇らせた。

だがすぐに、それを打ち消すように笑った。


「試してるのかもね。あなたの“本当”が、どこにあるのか。」


「……人を試すのは罪だ。」


「あなた、試されるの嫌い?」


「……嫌いではない。ただ、恐ろしい。」


少女はその言葉に少し驚いたようだった。


「恐ろしいんだ?」


僧は深く息を吐いた。


「欲望は、拒むことも隠すこともできる。だが、消すことはできない。

 それに気づいてしまうことが、恐ろしい。」


少女はしばらく何も言わなかった。


やがて、彼女はすっと身を引き、僧の横に並んで言った。


「あなた、ほんとに変わってるね。

 ……だから、もっと知りたくなる。」


僧は答えず、ただ静かに歩き出した。

少女は、その一歩うしろをついていった。


石畳の道を、ふたりはしばらく歩いていた。

市場を抜け、広場のざわめきが背後に遠のくころ――

後ろから、何かがゆっくりと近づいてくる気配があった。


鈍い車輪の音と、牛の蹄のやわらかな足音。

ひときわ立派な牛車が、僧と少女の横をすっと通り過ぎていった。


屋根には彩色された布が張られ、木の車輪は鉄で補強されている。

牛は毛並みの良い大きな種で、飾りのついた首輪をしていた。


車はふたりの前方十歩ほどのところで止まった。

傍らにいた従者が呼ばれたようで、静かに近づいていく。

車内の帳がわずかに持ち上がり、そこから白い手が伸びた。

何かをそっと手渡される。


従者はうやうやしく受け取ると、すぐに僧の元へと小走りに向かってきた。

浅黒く日焼けし、しわの深い初老の男。

衣は簡素ながら整っており、よく訓練された身のこなしをしていた。


「ご主人からの喜捨です。」


男はそう言って、手に持っていた包みを僧に差し出した。


僧は静かに受け取り、深く礼をした。


「ありがとうございます。お気持ちに感謝いたします。」


男はうなずき、さらに続けた。


「それと、ご主人より。

 もしよろしければ、食事をお供に――と。

 ぜひ屋敷にお越しいただきたいとのことです。」


それだけ言い残すと、男は牛車の方へ戻っていった。

帳が再びわずかに揺れる。牛がゆっくりと歩み始め、通りの先へと進んでいく。


少女はしばらくその牛車を見送ってから言った。


「……なんか、変ね。」


「変?」


「うん。わたしたち、何もしてないよね?

 喜捨って、そういうものなのかもしれないけど――

 ちょっと出来すぎてるっていうか、こう……気配が濃い。」


僧は包みを見下ろした。

意外なほど重みがあった。


中身を確かめようとはしなかったが、

布越しに感じる重量感と形状は、食べ物だけではないと告げていた。


「……それでも、むげに断ることもできない。

 すでに喜捨も受け取った。感謝には応えねばならない。」


少女は腕を組んで眉をひそめた。


「あなたってさ、冷静そうに見えて、意外と感情に流されやすいよね。」


「そう思うかい?」


「思うよ。さっきから顔、ほんの少しだけ明るい。

 雨の森の中とは大違い。」


僧はそれに答えなかった。


少女は視線を包みに向けると、ふっと笑った。


「……まあ、いいけど。

 でも、注意しないとね。

 人の“善意”って、たまに毒が混ざってるから。」


僧は目を細めたが、それ以上は言葉を返さなかった。

牛車はすでに路地の奥へと歩みを進めていた。


そのあとを、ふたりはゆっくりと歩き出した。





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