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第二章:問いを投げる者

風は相変わらず乾いていたが、先ほどまでとは違う質感を帯びていた。

それは、誰かと並んで歩くということがもたらす、わずかな温度の違いだった。


僧と少女は、荒れた道を歩いていた。

右手には干からびた川の跡、左手には崩れかけた石造りの祠がぽつんと建っている。


「お坊さま、足、痛くならないの?」


突然、少女が問いかける。


僧は一瞥をくれてから、足元を見やった。裸足のまま、砂と石の上を歩いている。


「痛いときもあるが、気にしない。」


「ふーん。気にしないって、便利な言葉だね。」


少女はしゃがんで、小さな白い石を拾った。それを指先で転がしながら言う。


「でも、“痛みを気にしない”って、ちょっと変だよね。

 本当は痛いのに、気にしてないフリをしてるだけじゃないの?」


僧は一歩、また一歩と歩き続けた。

そしてようやく口を開いた。


「痛みは、感じるものだ。だが、それに心を支配される必要はない。

 私は、それを学ぶために歩いている。」


「学ぶってなに? 痛みからなにを学ぶの?」


「心の在り方だ。」


「意味、分かんない。」


少女は石を放り投げた。それはカラン、と乾いた音を立てて転がった。


「ねえ、あなた、怒ることってあるの?」


唐突な質問に、僧は少しだけ目を細めた。


「あるよ。人間だから。」


「でも、さっきの人たち――

 食べ物くれなかったり、無視したりした人たちに、怒ってなかったよね?」


「怒っても仕方がない。」


「でも怒らないのって、ちょっと不自然じゃない?

 わたしなら、投げられた石、投げ返してやるけど。」


「怒りは、たいていの場合、自分を傷つける。

 だから私は、それを放つ前に、自分の中で見つめる。」


少女はしばらく黙って歩いた。

その横顔は、まるで砂漠に落ちた雨粒のように、何かを吸い込んでいるようだった。


「ねえ、お坊さま」


「なんだい」


「わたし、そういうの全部ウソだと思う。」


「……ウソ?」


「人間って、そんなふうにきれいになんて生きられないよ。

 やさしくもなれないし、理性的にもなれない。

 それを“そうあるべき”って言い続けるのって、なんか苦しくない?」


僧は足を止めた。


空は高く、雲ひとつなかった。

少女の顔が、まっすぐに彼を見上げていた。


「……苦しいよ。だが、それでも私は、そこへ向かって歩こうとしている。」


少女は肩をすくめた。


「だったら勝手にやって。わたしは見てるだけ。」


「それでも、君は一緒に歩いている。」


「だから、面白そうだからって言ったでしょ。」


僧は一瞬困った顔をしたが、ふっと小さく笑った。


その笑みを見て、少女は一瞬だけ目を見開いた。

だがすぐに顔をそらし、黙って先を歩き出した。


陽が傾き始めたころ、道は森の縁へと差し掛かった。


それまでの乾いた荒野とは打って変わって、木々は密度を増し、

土は湿り気を帯び、落ち葉の上を歩くたびに、ふかりと足元が沈んだ。


鳥の声が遠くから聞こえる。風はやわらかく、緑の香りを運んでいた。

少女は枝葉に手を伸ばして触れ、しばらく口を開かなかった。


森の奥までは入らず、その手前にぽつりと人家があった。

古びた板張りの小屋のような家だったが、煙突からうっすらと煙が上がっている。


僧は少女に少しだけ待つように言うと、戸口へと向かった。


やがて、僧は鉄鉢を手に戻ってきた。

中には、温かい粥と、小さな干し肉がひと切れ入っていた。

少女は草の上に座って、石を積んでいた。


「久しぶりの食事だ。君も、どうかい?」


僧は木の皿に粥を取り分けて、少女に差し出した。

だが少女は首を振った。


「いらないよ。持ってるから。」


「……持ってる?」


少女は腰の後ろから、小さな包みを取り出した。

中には焼いたパンのようなものと、乾いた果物のかけらが入っている。


僧は少し驚いた。


「君は、どこにも荷を持っていなかったように見えたが……」


「見えなかっただけ。」


「どこに隠していた?」


「教えない。」


僧はわずかに目を細めたが、それ以上は問い詰めなかった。

少女はパンをかじりながら、僧をじっと観察していた。


「お坊さまって、飢えるのも“修行”なの?」


「修行というよりは、“学び”だ。」


「学び?」


「飢えることで、満ちることの有難さを知る。

 与えられないことで、与えることの意味を知る。

 失うことで、得ることの重さがわかる。」


少女は眉をひそめた。


「でもさ、それって全部“痛い思いをしないとダメ”ってことだよね?

 それって、なんだか変じゃない?」


「変かもしれない。だが、人は経験からしか深く理解できない。」


少女はパンのかけらをくるくると回しながら、つぶやくように言った。


「……だったら、わたし、もう何でも分かってるのかも。」


僧はその言葉に反応したが、すぐには何も言わなかった。

少女の声は、軽く言ったようでいて、その奥にほんの少しだけ、重たさがあった。


「君は、自分の苦しみを他人に話さないんだな。」


「話したって意味ないでしょ。

 “かわいそう”って言われるか、“仕方ないね”って言われるか、

 どっちかだけだよ。」


「それでも、話すことで何かが変わるかもしれない。

 少なくとも、自分の中の何かは。」


少女は首を横に振った。


「そんな期待、持ってるほうがつらいよ。」


僧はうなずいた。ゆっくりと、ひと匙の粥を口に運ぶ。


しばらく沈黙が続いた。


森の中で、虫の声が遠く鳴き始める。

空にはかすかに夕焼けの色が差し込んでいた。


「ねえ、お坊さま。」


少女が唐突に言った。


「あなたさ、“真理”とか“幸福”とか言ってるけど、

 もし誰かが、ぜんぶ教えてくれるって言ったら、どうする?」


「……教えられたものは、真理ではないかもしれない。」


「どうして?」


「真理とは、自分で歩いて、探して、

 それでも見つからない何かの中に、

 やっと気づくようなものだと思う。」


少女はパンを食べ終え、立ち上がった。

そして、草の上にしゃがんだままの僧に、いつものように軽い口調で問いかけた。


「ねえ、お坊さま。」


「なんだい。」


「あなたさ、“真理”って自分で探さなきゃ見つからないって言ってたけど――

 それって、本当にそうなの?」


僧は少女を見上げた。少女の瞳は、夕焼けの光を映して澄んでいた。


「つまり?」


少女はつま先で地面の小石をつつきながら、さらりと続けた。


「探し回らなきゃ見つからないものなの?

 もうすでに持ってるとか、気づいてないだけってこと、ないの?」


「……」


「それか、ほんとは知ってるけど認めたくないだけとか。

 分かってるのに、分からないふりしてるとかさ。」


少女は顔を上げて、まっすぐに僧の目を見た。


「あなたの言うことって、ちょっと現実味がないの。

 だって人って、“今”を生きてるじゃない?

 お腹も空くし、痛いし、怒るし、笑うし。

 そんな人たちに、“歩いて探せ”って言ったって……」


言葉を切り、少女はふっと息を吐いた。


「わたし、思うんだ。真理って、もっと近くにあるんじゃないかなって。」


僧は言葉を失った。

少女の言葉は、まさに彼の胸の奥に眠っていた“ある考え”を、正確に掘り当てた。


――真理は遠くにあるのか?

――それとも、すでにここに在るものを、ただ自分が見ていないだけなのか?


彼が僧院を出たのは、「学び」の中に本質がないと感じたからだった。

経典の文字、教義の繰り返し、悟ったふりをする者たち。

それらすべてに、真理の匂いはしなかった。


だから彼は歩き始めた。

外の世界へ、地を踏み、人と触れ、痛みと共に歩くことを選んだ。


けれど――


その「外」すら、幻想だったのかもしれない。

もし本当に“真理”があるならば、どこにいてもそれに気づけたはずなのではないか?


少女の問いに、反論はなかった。


彼の沈黙に、少女はそれ以上何も言わず、森の方へ向かって歩き出した。


僧はしばらく動かずに座ったまま、手の中の鉢を見つめた。

中には、食べ残したわずかな粥と、冷えかけた干し肉がある。


夕闇が、森の入り口を深く染めていく。


僧は立ち上がり、静かに歩き始めた。


その背を、少女が振り返って待っていた。

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