表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/9

第一章:沈黙の町と死にゆく者

とある昔、世界がまだ整っていなかった頃の話。


 ひとりの若い僧がいました。

 持ち物は、くたびれた法衣と、鉄でできた鉢ひとつ。

 彼が求めていたのは、ただひとつ――「真理」。


 なぜ人は苦しむのか。

 なぜ争いは絶えないのか。

 そして、どうすれば本当の幸せにたどりつけるのか。


 そんな理想を胸に旅をしていた彼の前に、ある日ひとりの少女が現れます。


 口が悪くて、どこか大人びていて、でもどこか寂しげな、不思議な少女。


 「それって意味あるの?」

 「本当に誰かのためになってるの?」

 「あなた、自分のことも分かってないでしょ?」


 彼女の言葉は、僧の信じてきたものを、ひとつずつ崩していきました。


 これは、ひとりの僧とひとりの少女が、

 世界の中で“人としてどう生きるか”を探していく物語です。


 厳しさも優しさも、汚さも美しさも――

 全部ひっくるめて、「それでも人は生きる」ということを、

 歩きながら、迷いながら、見つけていく話。


 ちょっと切なくて、ちょっとあたたかい、そんな旅の記録です。

風が乾いていた。


はるか昔、時代の名がまだ与えられていない時代。

果てしない荒野の、そのまた外れに、ひとつの小さな町があった。


町とは言っても、そこに活気はなかった。

荒れた道の両脇に、崩れかけた焼きレンガの家々が並んでいる。

屋根はところどころ崩落し、壁には大きなひびが走り、

かろうじて形を保っている家々の窓も、目のように固く閉ざされていた。


誰も声を発しない。

犬の遠吠えも、子どもの泣き声も聞こえない。

ただ、乾いた風が土と砂を巻き上げて通りすぎていくだけだった。


そんな道を、一人の僧が歩いていた。


男はまだ若かった。

肩幅は細く、背は高く、肌は旅と日差しでやや焼けていたが、端正な顔立ちをしていた。

その目はまっすぐに前を見据えており、迷いの影を感じさせなかった。


身にまとっているのは、洗い晒しの薄い法衣――

布地は色褪せ、裾は破れ、足元の土と同じ色に染まっていた。

だが彼はそれを気にも留めず、裸足のまま静かに歩き続けていた。


その手に持っているのは、たったひとつの鉄鉢だけ。

それは彼の唯一の所持品だった。


僧は道の両脇にある家々のひとつに近づいた。

玄関らしき場所の前で静かに立ち止まり、手を合わせ、深く一礼する。

そして何も言わず、鉢を胸の高さに持ち上げた。


しばし、静寂。

扉は開かれない。

物音ひとつない。


僧は気を悪くした様子もなく、また一礼し、次の家へと向かう。

また、礼。無言の鉢。応える者なし。


それを何度か繰り返すうちに、僧はある家の前でふと足を止めた。

閉じた窓の木戸の隙間から、小さな目がこちらをうかがっている。


気配に気づいた僧がそちらを向くと、

その目は驚いたようにぱちりと瞬き、次の瞬間には、

窓は音もなく閉じられた。


僧はただ静かに目を伏せ、また一礼した。


人々は彼を恐れているのではない。

ただ、何かを与えることができないことに疲れ果て、閉じているのだった。


僧は町の端までたどり着いた。

結局、どの家からも食べ物は与えられなかった。

けれど彼は、落胆した様子ひとつ見せなかった。


その顔は、風に削られた岩のように静かで、

目は変わらず、まっすぐに前を見ていた。


町を抜けて、しばらく歩いたところだった。


舗装の剥がれた道の脇に、何かが転がっている。

風に舞う埃の向こう、倒れ伏す人の影――裸同然の老人だった。


骨と皮だけになったような腕が、かすかに動いた。

息はある。だが、それもいつ絶えてもおかしくないほど弱々しい。


僧は静かに膝をつき、声をかけた。


「……大丈夫ですか」


反応はない。

僧はそっと肩に手を置き、もう一度、耳元で囁くように言った。


「聞こえますか。……何か、必要なものは?」


そのとき、老人の手がわずかに動いた。

その手が、僧の法衣の端をつかんだ。

力はまったくないのに、必死に縋ろうとするようだった。


「……何か……食べるものを……」


嗄れた声だった。命の奥底からしぼり出されたような声。


僧は、ゆっくりと首を振った。

そして、すまなそうに、しかしまっすぐに老人を見て言った。


「申し訳ありません。私は何も持っていません。

 この鉢と、この法衣だけが、私のすべてです。」


老人は、かすかに目を閉じた。

あきらめとも、悲しみともつかない表情が、枯れ木のような顔に浮かぶ。


僧は黙って、その手を握りしめた。


指は冷たく、皮膚は乾いて裂けそうだった。

それでも、彼はその手を、しばらくのあいだ離さなかった。


太陽が傾き、風がやや湿気を帯びてきたころ。

老人の呼吸は、もう聞き取れなくなっていた。


僧はその顔に手を添え、目を閉じさせた。

そして、短く、静かに、祈りの言葉を唱える。


「願わくは、この魂が安らぎの地へと至らんことを。」


周囲に誰もいなかった。

誰のためでもなく、誰の耳にも届かぬ祈りだった。


僧は遺体を抱え、道から外れた林のそばまで運んだ。

掘れるほどの土を探し、手で、石で、木の枝で、地面を掘る。


時間がかかった。手のひらが擦れて赤くなった。

それでも彼は黙々と、掘り続けた。


やがて、夕日が林の端を照らし始めたころ。

小さな墓穴が出来上がり、老人の遺体はそこにそっと横たえられた。


僧は祈りの言葉を唱える。

今度は、長く、少し声に出して。

空へ向けて語りかけるように。


「名も知らぬ者よ。

 あなたの生に、意味があったかどうかは、誰にもわかりません。

 けれど、あなたの死は、私に問うものとなりました。

 ……どうか、安らかに。」


そして、土をかける。

風が、木々の間を通り抜ける音だけが、耳を打っていた。


墓の上に、小さな石を積んで印をつけた。

線香も、花もない。

ただ、黙って手を合わせた。


そのときだった。


「……どうして、お墓を作ったの?」


背後から、少女の声がした。


振り返った僧の目に映ったのは、道端の土の上に静かに腰を下ろす、ひとりの少女だった。


年の頃は、十か十二か。

まだ幼さの残る頬と、どこか大人びた輪郭が同居していた。

ややつり上がった目元に光るのは、鋭い青。

短く刈り込まれた赤毛が風に揺れている。


細く、まっすぐな手には、金の指輪がいくつもはめられていた。

身体にまとっているのは、光沢のある、きらびやかな衣。

絹のように滑らかなそれは、彼女の年齢には不釣り合いなほど洗練されていた。


この荒野の村々を見慣れていた僧にとって、

少女の姿は、まるで異邦から現れた幻のようにすら見えた。


不思議なのは、その物腰だった。


年齢に似合わぬほど落ち着き払った態度と、

子供らしからぬ抑揚を帯びた言葉。

瞳の奥に浮かぶ、底知れない知性と、どこか哀しげな冷たさ。


「君は……ここで、なにをしているんだ?」


僧が問うと、少女は首をかしげて、墓の方を見た。


「それ、あなたが埋めたの? その人、知らない人でしょ?」


「彼を看取ったのが私だから。埋葬する責任がある。」


「ふーん。そういうのって、しなきゃいけないことなの?」


少女は、あくまで無邪気な口ぶりで言った。

だがその視線は、僧の答えを“試す”ように真っ直ぐだった。


「君は、他人にやさしくするようにと教わらなかったかい?」


僧がそう尋ねると、少女は少しだけ目を丸くして首を傾げた。


「そんなの、知らないよ。

 どうして“やさしくしなきゃいけない”の?」


その問いは、まるで刃のようだった。


僧はすぐに答えず、数秒だけ視線を空に投げてから、少女の目を見返した。


「人が人であるためには、他者と共にあろうとする心が必要だ。

 優しさは、その心のかたちのひとつだよ。」


少女は小さく鼻を鳴らした。


「それって“きれいな言葉”ってやつだよね。

 でもほんとは、みんな自分のためにやってるんでしょ?

 助けると気持ちよくなるから。感謝されたいから。」


「それが事実だったとしても、行いそのものには意味がある。

 結果として誰かが救われるなら、自分のためだったとしても構わない。」


少女は何も言わずに、地面に落ちていた小石を指先でいじった。

そのしぐさすら、どこか大人びて見える。


「君の親は……近くにいるのか?」


僧の問いかけに、少女は顔を上げ、こともなげに答えた。


「いないよ。知り合いも、誰も。」


「では、どこから来たんだ?」


「覚えてない。気づいたら、ここにいたの。」


それが本当かどうか、僧には判断できなかった。

だが、その声に混じるわずかな哀しさが、嘘をついていないことだけは伝えていた。


少女は立ち上がり、僧のすぐそばまで歩み寄った。


「わたし、あなたについていく。」


「……なぜ?」


少女はにっこりと笑った。


「だって、面白そうだから。」


「面白そう……?」


「うん。あなたの顔、すごく真面目で、頭の中、ぐるぐるしてるでしょ。

 そういう人と話してると、退屈しないの。」


僧は困ったように眉をひそめた。


「私は旅の者だ。食べ物も、金もない。君を養う余裕などない。」


少女は肩をすくめた。


「別にいいよ。わたし、そういうの期待してないし。

 ついていくだけだから。勝手に。」


僧はしばらく沈黙した。

彼女が冗談を言っているわけではないことは、すでに分かっていた。


「……君がそのうち飽きて、どこかへ行くだろうと思っておくよ。」


そう言うと、僧は静かに歩き出した。

少女は少し離れて、後ろから黙ってついてくる。


しばらくして、少女が口を開いた。


「さっきの話だけど、“優しさ”って、本能じゃないの?

 だって動物だって、自分の子どもにはやさしくするじゃん。」


「それは保護の本能だ。だが、人の優しさは、もっと複雑で、

 時に理性と葛藤しながら生まれてくる。」


「じゃあ“理性”がないと優しくなれないの?

 理性って、便利だけど、すっごく嘘くさいよね。」


僧は答えず、歩みを緩めた。

その横を少女がすっと並んで歩く。


「わたし、あなたにいろいろ聞くからね。

 つまんない答えだったら、どんどん意地悪するよ。」


僧は一瞬困ったような顔をしたが、ふっと小さく笑った。


「それでも構わない。」


少女は目を細めて笑った。


風が吹いた。少女の赤毛が、僧の肩に一瞬ふれた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ