初夏のかぐわしさ
久しぶりの投稿です。初夏の「教育ユートピアの風景」をお届けします。
そろそろこの学院こと「とある教育ユートピア」に初夏がやって来た。青々とした草木が実に香しい。この初夏を過ぎればじめじめとした夏がやって来る。そうすると夏休みに入るのだが、この季節は1年の学習の集大成が結集する季節でもある。
つまりこのじめじめとした夏の暑さが来る前のさわやかなこの季節は、1年または半期以上の学習の成果を試す、主に「口頭試験」のシーズンなのである。
この学院こと「とある教育ユートピア」では主に口頭試験に重きが置かれてる。ペーパーテストがないわけではないが、各人の理解度ならびに知性と徳のリンケージなどに重点を置かれてるために、日々の生活の中での価値観だとか、そこでのカウンセリングのような対話だとか、そして授業の内容の理解度だとかを様々な角度から見るためにも、このような試験内容になっている。
教育内容の形骸化とテクニカルなものに重視する傾向をできるだけ遠ざける、このような意図があるわけだ。若干主観的な試験方法かも知れないが、優秀な人を選抜する事を目的としてないので、それはそれで問題ない。
そこでの教育内容や意味に対して、どのような行動に出力するかが重要なのであって、意味を吟味するような事がとても大事だと考えるのがこの「教育ユートピア」の世間一般とは違う所だ。
各人の意味論に対するコミットメントを常に考えるのがこの学院こと「とある教育ユートピア」の教育のキモだったりする。
この学院こと「とある教育ユートピア」を運営する狸は、相対主義、政教分離のイデオロギーかも知れないが、知識と思想の分離、人生観に働きかけないアカデミックな知識に未来を感じる事ができなかった。一般人の世界から遠ざかった、精密かつマニアックなデータブックの作成は何の意味があるのだろうか?こんな学問の意味を感じられない事には到底耐えられないのが狸だ。
少なからず学問的なものが一般人の生活に還元されずとも、そこから未来や元気が出てくる何かがなければならないのではないか?
学問から未来を切り拓いて欲しい。それが狸がこの学院こと「とある教育ユートピア」である所の「でっかい私塾」を開いた動機だったりする。
戦前の天皇制ファシズムの反省からの政教分離イデオロギーとしての学問と思想の距離感はわかるのだが、人生観、生き方にコミットメントしない学問は、一般人と関係のないものだ。
某SNSで様々な素晴らしい研究をされてる大学関係者の方々の思想が一律に「信仰なきキリスト教保守主義」なのはどうしたものかと常に頭を抱えていたのが狸だ。どうにもこの民衆不在感はどうしたことかと。
そうだ。近年どこも二極分化が良いことだとされてるからこそ、「20世紀の大衆」のような二極分化されてない所を目指そうと。その担い手になりゆる人を、あらゆる面からフィルタリングして集める事にしたのだった。
「完璧」というのは玉の事だ。玉はダイヤモンドやルビーなどの硬石に比べると大変傷つきやすい。「易経」では、完璧が極まると崩れてしまう。崩れない程の程々が良いのだ。
ここ近年は、「完璧」や「二極分化」が良いことだと熱愛とも取れる信念に突き動かされてるように見える。
それと違う流れはどうであろうか?と。
口頭試験は何日もかけて1日何時間とゆっくり行われる。その風景はまるで禅問答だ。傍から見ては正解などわかるわけがない。
こうやって密かに禅問答のような中から、理解度、進捗度を確認してるのだ。そして人生にどのように価値観がコミットメントしてるかについても。
この口頭試験については、日々の授業内容を消化してないと難しく、対話のカウンセリングの経緯も掛かってくる。試験対策などほぼ不可能に近いものだ。
それくらいじっくりと時間をかけて試験が行われる。それにかける教員やスタッフの労力は半端ではない。
だからこそこの学院こと「とある教育ユートピア」では、口頭試験などの濃厚な有人環境を構築するためにも、各種手続きなどは極力デジタル化をして、書類書きや申請などの雑務に極力振り回されずに、教育と研究と人間関係のケアなどに全力投球できるような環境を構築してる。
何でも電子機器のタッチだけで完結する環境には感動すら覚えるものだ。その浮いた時間を徹頭徹尾振り分けてるのだから。
口頭試験はこうやって過ぎて行くのでした。