狸の野望「学識の深さで測られるもの」
ここは誰が呼んだか「とある教育ユートピア」であると。狸は密かな野望を持ってました。それは、ただの「でっかい私塾」でしかない「とある教育ユートピア」が世間で影響力を持った暁には、世間一般にあるような「学校のブランド(学歴つまり学位ではなくて)」ではなく、学識の深さで知識人の価値が測られる世の中になる事を企んでの事だった。
今の日本では、世間の中で学識の深さを測られる事はまずない。出身校のブランドや雰囲気、頭の良さ、話題の豊富さといった「漠然としたもの」で良し悪しが判断されるだけだ。高学歴なのに学位ではなくて、その学校の持つ「雰囲気」などを尊敬したりする態度は、未だに19世紀半ばの時代から進歩してない発想ではないか。
世間一般で、学校のブランドなどで常にランキング付けなどがされるのを見て、全然知的生産的ではないのではないか?それ以外に時間を使うほうが良いでは?と思っていたのだった。
もしかしたら、多くの同国人は実は西洋の知が嫌いなのではないかと思うのだ。アカデミックな世界の衰退は、本来は高学歴であるはずの経営者などが、アカデミックな世界特有の厳密な思考を嫌ってるのではなかろうか?と。修士、博士などの学位持ちが就職などで敬遠されるのも、大学院に行くとあらば、西洋の知の思考が本格化するので、西洋の知そのものを嫌いなのではないかと。
狸が思うに、江戸時代の蘭学の時代から、日本は西洋の知を導入するにあたって、如何にキリスト教的な人文知をスルーして裏切りながら、近代化を促進するという命題が隠れた国是だったのではないか。それが現代にまで続いてるのではないか。
そう思えば、中世以来の大学システムである学位や、論文の内容などが一切考慮されないのは納得の行くものである。キリスト教と共に発展してきた大学システムが、日本では中核のみをくり抜いて取り入れて来た意味がよくわかるではないか。
中世の大学では神学、哲学、医学(外科医は職人だよ)、法学などが偉くて、自然科学系は偉くない。しかし、江戸時代の蘭学や英国に密航した薩摩藩の留学生は、「分析化学」などの実学を取り入れて来た。
神学や哲学、法学などの「キリスト教的人文学」はハナからお呼びではなかったのだ。最近は、トマス・アクィナスなどの中世哲学の本が復刻されたり、中世哲学の本を欲してる向きがあるのだが。
そう考えると、修士、博士が就職で敬遠されるのも、嫌ってるのは「キリスト教的な思考」だとわかるわけだ。
そう考えるととても納得が行くものだ。
そして近代教育がややこしくしてるのは、近代教育の意味が主に明治以降の「立身出世」と、欧米に追いつけ追い越せの近代国家を作る以外の目的がなかったからだ。だからそれ以上の深い思考や学識などは問題にされない。「欧米」というお手本があってそれをコピーすれば良かったからだ。
しかし昨今の欧米の失速ぶりを見ると、いつまでもそうやってるわけにはいかないのではないかと狸は思ってる。
欧米に追いつく時代は、某国の政治・宗教指導者が持っている、刑務所の中で毎日違う説法ができるような、知的な超能力は必要とされなかった。
しかし西洋文明が曲がり角に来てるからこそ、そのようなお化けのような知的体力が必要とされる時代だと思う。
だからこそ、学生達には「お化けのような知的体力」をつける為にも、毎日規律訓練でバシバシしばいてるわけなのだが。
狸は縁側で昼寝しており、現場の教授陣がそれをやっている。
学生達は、既存の大学と違って「ルネッサンス人」の如く幅広い学識が身につくのでした。