司書曰く「役に立ってる気がしなかった」
ここは誰が呼んだか「とある教育ユートピア」であると。遊び人の司書は、ここで学生達の支援をする事に大変な生き甲斐を感じてました。今まで時々短期アルバイトをするものの、やってる仕事が全て金というデータに換算されて、「役に立ってる気がしない」と。
これは所謂マルクス主義で言うところの「疎外」というものだが(注 労働の成果がバーチャルな数字でしかない貨幣に換算されてしまう問題。作者はあまりマルクス経済学には詳しくないので割愛します)、そんな事は司書はそこに来るまで知る由がなかった。司書が若い頃だった1990年代には、東西冷戦終結後のために、マルクス経済学は時代遅れだと思われていたからだ。
ここにジュラ紀の遺物如き、マルクス主義ならびにマルクス経済学に詳しい住人に話を聞いて、そのような現象を指す言葉が見つかった感じだった。
弁当屋にいた頃、別に格安弁当は我々がやらなくても困るわけではないだろうと薄々感じてたものだ。格安弁当に向けられる「感謝」というのは金の数字の多寡でしかなく、格安弁当が1000円なら素通りされるだけのものでしかない。
断っておくが、ここは別にマルクス主義のイデオロギーを奉じる場所ではない。様々な宗教、民族の留学生並びに教授陣がおり、宗教者もスタッフとして抱えてる。「宗教は民衆の阿片」と言った昔の共産圏ではそんな事はなかなかできる芸当ではない。
ここではダイレクトに人の役に立ってる感がある。ブックガイドや本棚作りやレファレンスにそれを感じることができる。
学生達の成長を一緒に喜ぶ事ができるのがとても楽しい。
遊びながら働いていても、一緒に何かやって少しでも貢献できている感じがとても良い。
ここで暮らす限りは給料はないが、世間の給料の出る仕事よりも何十倍もの生き甲斐を感じてるのだった。
暮らすには不足なく、世間ではちょっとした小金がないとできないような道具を使った事がここでは何でもできる。消費生活よりも、何かを「する」事が好きな人間には暮らしやすいのであろう。
生活保護での収入で消費生活の片隅で埋没するよりも楽しくて生き甲斐がある事に満ち溢れていた。
TRPGで遊んでくれる仲間もいるしな。そういった環境は実に代え難いものがあった。
ちょっとしたお手伝い的な仕事をして何かの役に立ちたい人間は思ったほど多いかも知れない。