狸がこの「でっかい私塾」を開いた理由
ここを誰が呼んだか「とある教育ユートピア」であると。図書館の司書は、集中して働くことができない遊び人だが、一方で学生達は厳格な暮らしを送っていた。西洋文明を超克して、未来を切り開くための徹底的な規律訓練が行われていた。
並の知的体力、行動力では西洋文明の行き詰まりを乗り越える事はできない。そもそも、山奥の打ち捨てられた神社の御祭神の狸が、この「でっかい私塾」を運営しようと思った動機は、大学教員などの現代の知を担う人達が、社会に対して何も価値を提言できない事に対する危機感から来ている。
現代のアカデミックな世界の知は、あまりにも恐竜模型のように標本化された知でかつ、価値観や思想を提唱する事の忌避感で、深刻な相対主義が隅々までも行き渡っている。
かのようになったのも、戦前のファシズムなどの反省で、アカデミックな世界に簡単に価値観を持ち込むと、安易な似非科学などの温床になる事に対する防波堤だった。
しかし、思想性を排除した知というのは、単なる精密なデータブックでしかない。しかも、主観的なものを排除して、自然科学のように扱う人文学など何の意味があるのか?
狸には、立派に西洋文明の知の危機に感じられたのだ。
西洋文明の知の危機と言えど、狸は安易に大学を改革するべきとは思ってなかった。ここで下手に改革すれば大学が安易なカルト化する可能性がある。
日本の経営者の多くは、本当は西洋の知が嫌いなのではないかとさえ思う。アカデミックな世界の厳密な思考ができない人が多い。厳密な思考を手放してしまえば、これまで以上に西洋文明の知の危機が加速する。
それに改革というのは身内でやると徹底して成功させるのは難しいもので、どうしても成功させるにはアウトソースするしかないものだ。
それならば、学校法人でも何でもないただのいち「私塾」がやってしまえば良い。
既存の大学はそのままにして、それを乗り越えるものを別の所に作れば良いからだ。
新たな西洋文明のフェーズに進むためにも、この「でっかい私塾」では、既存の大学とは違う教え方をしていた。それは西洋文明を破壊するものではなく、新たな西洋文明の再解釈でもあったのだ。
新たな「西洋の知」の流れの潮流を作りたかったのだ。
だからこそ、学生達には厳格な規律訓練にて、知的体力、行動力などを人並み以上につける必要があると感じてる。それを支える司書などはぼんくらであっても、学生達はそうではなかった。