0.5くらい風が吹く
雨を打たれるアルメリアの花をぼんやりと眺めていた。ピンク色の花びらに触れようとしても、ベランダの窓が遮って届かない。当たり前だ。
なんだか恥ずかしくなって、誰も見ていないのに、ごまかすみたいに窓ガラスをなぞってみる。ばかみたい。
しばらくそうしていると、ふと幼馴染の青風トオルとの思い出が頭をよぎった。
どうしてあんなことを彼に聞いたのかは、もう覚えていない。
小学生――多分低学年の頃、偶然帰り道が一緒になった時のことだ。
『トオルは、生きてて何が一番いや?』
『夫婦げんか』
即答だった。私も、彼の言葉に思わず共感したのをよく覚えている。私の両親もよく喧嘩していたから。
トオル、元気にしてるかな。
なんとなく、彼に会いたくなった。
幼馴染といっても、もう10年以上話していない。トオルが今どうしているかなんて知らない私は、付き合いの長い友だちを通じて、なんとか彼の連絡先を手に入れた。
トオルにメッセージを送ってからはとんとん拍子で話が進んだ。日時と場所の候補を丁寧に複数提案してくれて、あっという間にその日が来る。
「久しぶりだね、トオル」
「久しぶり、凪崎」
居酒屋を希望したのは私。変に気を遣うような場所にしたくなかったから。
居酒屋といっても個室のある雰囲気の良いところで、悪くないなと思う。
個室に案内されるまではなんともなかったのに、個室の中で面と向かってトオルの顔を見るのは少し、むずがゆい感じがした。
「この間ふとトオルのことを思い出してね、なんとなく元気かなって気になって、連絡した」
我ながら、なんじゃそりゃと言いたくなる理由だったが、本当なのだから仕方がない。私は多分、明確な理由があってトオルに会いたくなったのではなく、トオルに会いたくなった理由を探すために、トオルに会いに来た。
「実はさ、俺もついこの間思い出したんだ、凪崎のこと」
トオルの真剣な表情が、私には珍しく感じられた。
「ほんとう?」
「凪崎から連絡が来た時に」
……これは意外。
「冗談とか、言うようになったんだ」
「あー、ごめん。つまらなかった?」
「ううん。面白い」
「それ、ほんとう?」
「うそ」
そんなやりとりがあって、私たちはおかしくなって笑った。
こんなにトオルと冗談を交わせるとは思ってなかったな。
トオルは子どもの頃とは打って変わって話すのが上手になっていた。もしかしたら、元々苦手ではなかったのかもしれない。小中学校の頃の私はまだ女の子で、彼もまだ男の子だった……トオルは男子とはよく固まっていたけれど、女子とはほとんど交流がなかったっけ。
「凪崎、他にも注文する?」
「じゃあ、マッコリで」
「好きだな、マッコリ」
「うん好き。甘めなのがいい」
「相変わらず甘いのが好きだな」
「いいでしょ別に」
それにしても、相変わらず、ねえ。トオルだって相変わらずだけどなあ。
トオルは私のことを、今も凪崎と呼んでいる。ヤエではなく、凪崎と名字で呼び捨てにする。
「トオルの方は……相変わらずシャイだね?」
トオルが私のことを名字で呼び捨てるようになったのは、中学に入ってからだろうか。私はずっと彼を『トオル』と呼んでいたのに、トオルの方は私のことを『ヤエ』と呼ばなくなった。
それはきっと、彼がシャイだったから。今だってよく口は動いているけれど、トオルは私の目を真っすぐ見ようとはしない。恥ずかしがりやなところは相変わらずだなあ。
私の言葉をトオルがどう受け取ったのかは分からない。伏し目がちになったかと思うと、トオルはテーブルの上で手を組んだ。
「実はさ」重たい声で言う。「凪崎さん、って呼ぶべきか今も迷ってる」
「あはっ、なにそれ」
何を言うかと思えば、真面目な顔しておかしいの。
トオルの冗談に私が笑っていると、彼はいたってそのままの調子で続ける。
「いやさ、もう俺たちもいい大人だし、あんまり呼び捨てあうのもどうなのかなって。会うのだってもう、13年ぶり? になるしさ」
トオルが「凪崎さん、凪崎さん……うーん、馴染まんなあ」と天井を見上げてブツブツ言っているのも、なんだかおかしかった。それに『馴染まんなあ』って、言い方がおじいちゃんみたい。
「じゃあさ。私はこう呼ぼうか。トオルさん、って」
トオルの冗談に軽く乗ったつもりだったのに。でもそれが思いの外、しっくりくる感じがしてびっくりした。
トオルの目が一瞬丸くなり、手に持っていたジョッキの中で氷がカランと鳴る。
「凪崎、それはだめだって」
「どうして?」
「むしろ距離が近い感じがする」
「馴染まんなあ?」
「いや馴染むとか馴染まんとかじゃなくて、その――」
トオルは大きな手で口元を隠した。
「――恥ずかしい。ちょっとね」
ああ、変わっていない。
トオルの一人称はいつの間にか『僕』から『俺』になっていたけれど、子どもっぽいところもまだ残っていたんだ。
「ねえ、トオルさん」
「おい凪崎さん」
「へへへ。ねえ、トオル。なんで『僕』って言うのやめたの?」
「急だな」
「トオルさんって呼ぼうか? ん?」
「俺が俺って言うようになったのはだな」
「うん」
「多分、反抗期のせいだ」
反抗期なんて言葉、トオルの口から出るなんて意外。
「俺の両親さ、離婚したんだよ」
「え、私のとこもだよ」
私たちはお互いに見つめ合った。
トオルの両親の夫婦仲が良くないのは知っていた。昔は――といっても幼稚園のことだけれど――彼の家に遊びに行くことも時々あって、だんだん夜が近づいてくると彼のお母さんが不機嫌になるのを知っていたから。
「父さんがさ、浮気してたんだよ」
「ああ、やっぱり」
言ってしまってから私は自分の口を押さえた。
「ごめん」
「ううん。やっぱり、って感じだろ?」
「うん。でも、どうして反抗期と浮気が関係あるの?」
「それは俺が、二人に『離婚すれば?』って言ったから。あんまり喧嘩ばかりしてるからさ、俺もいい加減イライラしちゃって」
「反抗期でイライラしてたから、言っちゃったんだ」
「そう、反抗期。それはもうバチバチに。で、その翌週には父さんは出ていった」
「それってさ、ずっと離婚したかったんだね」
「そうらしい。あんまりあっさり別れたから、俺も拍子抜けしちゃった」
「案外そういうものだよね」
「だな。それで、いつのまにか『俺』になってた」
「えー、そういうものなの?」
「俺だってよく分からん。けど、自分ではそんなに違和感はないかな」
「いいじゃん、意外と似合ってる」
「意外とか言うな。それで、凪崎んとこは……どっち?」
「わたしんとこはお母さん」
「ああ、やっぱり」
「やっぱり、って感じでしょ?」
「……きっかけは?」
「よくわかんない。けど、私が大学に入ってから三年目だったかな。ちょうど今くらい」
「ん? 俺のところもそうなんだが」
私たちはお互いに顔を見合わせる。
「まさかね」「いやないない」
私たちは大いに笑った。「だとしたら最悪だ」とか「そんなの近所だからもっと早くに噂になってるはずだ」とか、色々話した。
トオルと話していると、昔の重苦しい記憶が軽くなる感じがする。こういう話ってあんまり笑えないから、友だちにも言わなかった。けど、トオルとは笑える。
「私たちってさ、ぜったい結婚とかしちゃだめだよね」
トオルに会いたくなった理由が、なんとなく分かってきたような気がする。
「だめだな」トオルは迷いなく答える。「浮気した男の息子と、浮気した女の娘が結婚なんて……ろくな未来が見えてこない」
「うん、私もそう思う。けど、浮気してない女の娘ならいいの?」
「もちろん」
「じゃあなんで彼女つくらないの」
「俺がいつ彼女がいないって言った?」
「いるの?」
「いないけど。できたこともない」
「ほらやっぱり」
「そういう凪崎はいないの?」
「いないよ。できたこともない」
「はあ? ぜったい嘘だろ」
「なんで嘘つくの」
「いや凪崎きれいだから」
「ありがと」
「高校では? 何もなかった?」
「女子高だったから」
「あ、そっか。大学は?」
「女子大」
「……まじか。徹底してるな」
トオルは信じられないって顔をするけど、本当だから仕方ない。大学の時に付き合いで合コンに行ったことも何度かあるけれど、私には向いていなかった。今にしても、職場に恋愛なんて持ち込みたくない。
「ねえ、そんなことよりさ」
トオルが私に『きれい』と言ったことの方が問題だった。恥じらいも含みも一切ないあの言い方、女と交流のなかった男にはできないように思う。
「女の子の友だちはいるんでしょ」
「まあ、いる」
「その子たちとは付き合いたいとは思わなかったの」
「思わんでもないけど、思うと付き合えなくなる」
「どういうこと?」
「一線を超えないから友だちとして付き合える。一線を超えようとすると、とたんに今までのように話せなくなる。なんていうのかな、俺の場合、友人と恋人は地続きになってなくて、完全に別の次元なんだよ」
ああ、なるほど。トオルは壁を作っているんだ。
「俺はさ、0か1しかないんだ。他の人たちには多分、0.5くらいがあるんだろうけど、俺にはそれが難しい」
もしかして、今もそうなのかな。
「トオルはさ、私から連絡が来てどう思った?」
「え? まあ正直驚いた。もう会うことはないだろう……なんてことすら考えなかった相手だったから――」
「ちょっとは期待した?」
私のかぶせるような問いかけに、トオルは目を丸くする。
それからしばらく「うーん」と唸ってから、真面目そうな顔で言った。
「0.5くらいかな」
アルメリアが散ったベランダに出ると、涼しい風が吹いてくる。
「……気持ちいい」
どうしよう。今日も大した予定はないけれど、ずっとこうしているのも悪くないな。
そう思っていると、部屋の方から音楽が聞こえてきた。
「トオルかな」
少し急いで部屋に戻ると、テーブルの上でスマホが『トロイメライ』を奏でていた。トオルが好きな曲らしいから、なんとなく着信音に設定してみたやつだ。
しばらくゆったりとした音楽に耳を傾けていたが、はっとして電話に出る。
「どうしたのトオル、今日は休日なんだけど」
「凪崎と俺って仕事の関係だっけ」
「ううん、ただの幼馴染」
「だよな。今日って暇だったりする?」
「うん。トオルの着信音をゆっくり聴くくらいには」
「どおりで電話に出るのが遅いわけだ」
「ごめんね」
「いいや、まったく気にしてない。俺も急に電話をかけたからさ」
「急って、いつも急でしょ」
「凪崎もな。それで、ご飯でもどう?」
「うん。いこいこ。あ、お店は私が決めていい? 行ってみたいとこある」
「了解。じゃあ、また後で」
「また後で」
居酒屋で再会して以来、私はトオルと連絡を取り合うようになっていた。
お互いがなんとなく気が向いた時に誘い合って、ラーメン屋とか回転ずしとか、そういう気取らない店に行くのが楽しい。川沿いの公園を歩きながら、趣味の話をするの聞くのも楽しい。
多分、彼も私も、そういう関係が欲しかった。
トオルはあの日、0.5くらいなんて言っていたけれど、私たちの今の関係は実際のところ0.1くらいだろう。それでもいい。別に0が1にならなくたっていい。ずっと0しかなかった私たちにとっては、0.1で十分楽しいのだから。
でもきっと、私たちはこれからゆっくりと時間をかけて、0.5くらいの幼馴染になる気がする。そうなったらいい加減、名字呼び捨てはやめさせよう。凪崎さんはだめ、ヤエさんがいいな。ヤエと呼び捨てにするよりも、その方がトオルは恥ずかしがってくれるに違いない。
「あれ――」
――なんだろう。かすかに風を感じたから振り返ると、閉め切れなかったらしい、ベランダの窓が少しだけ開いている。
「……0.1くらいだ」
思わず窓に駆け寄った。なんだか窓をぜんぶ開けたくなって、でもやっぱり開くのは半分だけにする。それから、半開きの窓を写真に撮ってトオルに送った。
しばらくして、トオルからメッセージが返ってくる。
『……なにこれ?』
私は答えを教えずに、待ち合わせ場所だけ指定した。
トオルに会って、早く教えたい。
0.5くらいだよ、って。




