9. かすかな不安(※sideウェイン)
「……また今日も途中で止めただと?」
「はい」
報告に来た俺の侍従が、責めるような視線を向けてくる。
イルゼの王妃教育が全然進まない。結婚して最初の数週間は、二人だけの蜜月を過ごしたいと言うイルゼの可愛い我が儘を俺が押し通し、勉強も覚えていくべき公務の内容も何も学ばせずに、二人だけの時間をたっぷりと楽しんだ。
いくら何でもそろそろ勉強を始めなくてはな、と俺が言い出すと、イルゼは「はぁい」としょんぼり答えたものだ。
それから更に数週間。
まだまだ初歩中の初歩の段階だというのに、イルゼは毎日音を上げているらしい。
『こんなに一度にたくさん覚えられるはずがないでしょう?!私はついこの前まで、ただの子爵令嬢だったのよ?!王妃教育なんて欠片ほども受けたことがないのに、こんなにたくさんの外国語を覚えろなんて無理よ!もっと時間をかけて、ゆっくり優しく教えてちょうだい。私は王太子妃なのよ。私を不愉快にさせないで!』
教師たちに向かって、こんなことを叫んだというのだ。あのしとやかなイルゼが。にわかには信じがたい。おそらくは侍従たちが、俺に大袈裟に伝えてきているのだろう。
しかしイルゼは一体どういうつもりなのか。あんなに言っていたではないか。もしも自分が王太子妃に選んでもらえたら、死に物狂いで勉強すると。愛も知恵も兼ね備えた妻となって、俺を支えると。彼女は確かにベッドの上で何度もそう言っていた。
俺は先日の夜、できるだけ優しくイルゼに諭した。
「イルゼ、一介の子爵家の娘だった君にとって、王族として学ぶべき内容はあまりにも多岐に渡り、想像を絶する大変さだとは思うよ。だが、これは王太子妃として君が挑まなくてはならない試練だ。……俺との未来のために、どうか頑張っておくれ」
「……でも、殿下……」
「な?俺たちの真実の愛を貫くためには、ここは乗り越えなくてはならない壁なんだよ。分かっておくれ、愛しいイルゼよ」
「……。……はい」
「……頑張れるね?」
「…………はい」
イルゼは目を伏せ、小さな声で答えた。……相当辛いのだろう。あれほど俺のために頑張ると言っていたイルゼでさえ、こんなに意気消沈してしまうとは。
それを思えば、やはりフィオレンサはすごかったのだろうな。
彼女の優秀さには、教師陣も舌を巻いていた。ブリューワー公爵家の娘として幼少の頃から叩き込まれてきたのもあるだろうが、それにしてもあらゆる科目で抜きん出ていた。大陸で使われている言語は一通り修得し、流暢に会話ができるほどだったし、近隣諸国の文化や歴史、各国独自の作法に関する知識なども完璧だった。俺の方が何度もフォローされたものだ。王宮の誰もが彼女を褒めそやし、素晴らしい王太子妃となられるであろうと口を揃えて言っていた。
「……。」
……いや、だから何だと言うのだ。それは当たり前のことだ。何せあの女は将来の王妃の座に納まるために必死だったのだから。ブリューワー公爵家総出で、彼女に知識を叩き込んできただろう。
イルゼはこれからなんだ。
今始めたところなんだ。長い目で見ていくしかない。
この子なら、きっとやってくれる。誰よりも真摯にひたむきに、この俺を愛してくれているのだから。
俺のために全ての苦労を乗り越えてくれるだろう。真実の愛の力で。