当事者不在の迷走婚約解消劇
「ねぇ、いい加減気付いてくださる? レオンは貴方なんて好きじゃないの、私を愛しているの、さっさと婚約解消してレオンを自由にして頂戴」
春の訪れを祝う園遊会の最中、美しい声で居丈高に告げたのはシルヴェストル公爵家のマルティーヌ・リオンヌで、言われたのはアルノー伯爵家のニナ・アルノー令嬢である。そして問題のレオンとはバルテル伯爵のレオン・バルテルの事で、ニナの婚約者なのだが、何故かマルティーヌをエスコートしてこの場にいる。
ニナは困ったように頬に手を添え「あらまぁ」と零した。
会場の穏やかな談笑が消え去り、皆一斉に三人に注目して静まり返る。
一見して絵になっているのはレオンとマルティーヌだ。
氷のような冷たさを思わせる銀髪に、宝石を埋め込んだような青い瞳。騎士として鍛え上げた引き締まった体は一般男性の中でも頭一つ分高い。怜悧に整った顔に笑顔が浮かぶことは滅多になく、無表情か不快さを微かににじませる。今も周囲すべてが不快だと言わんばかりに眉根を寄せているが、それすらレオンの麗しさを損なわない。
それに対を成すように、マルティーヌは陽射しを束ねたような輝かしい金髪に、春の息吹を思わせる緑の目。ほっそりとした手足は滑らかで、豊かな胸を強調するような細い腰は美しいバランスを保っている。美の女神の化身と言ってもほとんどの者が納得するその相貌は、いつも自信にあふれた華やかな笑顔を浮かべている。もっとも、今マルティーヌが浮かべているのは勝利を確信した嘲笑だが。それでもなお、美しい。
陰と陽の代表作のような二人が並ぶ姿は、誰の目が見ても嚙み合っていて、事情を知らぬものが見れば、マルティーヌに苦情を言われたニナこそが邪魔者に見えるだろう。
なんせ、ニナは凡庸すぎる容姿だ。
国で一番多い配色であろう明るい栗色の髪に濃い栗色の瞳、何度か会わなければ覚えられない特色のない顔、標準的な肉付きに標準的な身長、令嬢たちが集まれば埋没すること間違いなしの容貌の少女、それがニナである。
似合いの二人を邪魔している平凡な少女というようにしか見えないが、エスコートも受けていないが、それでもレオンの正式な婚約者はニナである。
だが、この場に居合わせている貴族達は皆知っている。レオンとニナが婚約者らしい交流をほぼしていない事を。そして、このところレオンが社交の場に出る時に横にいるのはマルティーヌである事を。
そんな状況で、レオンとマルティーヌ、そしてニナが集まっての先ほどの発言である。誰もが固唾をのんで見守ってしまう。もしやこんなめでたい場で、婚約の解消なんていう縁起でもないことが行われてしまうのか。
そして、婚約が解消されるという事は……。
「ちょっと待ったぁ!!」
静寂を切り裂いたのは若い商人の男。現在国一番の商会で飢饉の時に国へと貢献した功績でこの園遊会へ唯一呼ばれた平民、デュラン商会の後継のアルバンだった。ここにいる貴族のほとんどが一度はデュラン商会で買い物をしているだろう。ゆえに、アルバンの顔も人となりもわかっている者が多い。そしてそのわかっている者達は一様に「まさか!」とその先を予測して慌て始める。
「高貴な方々の会話に口を挟む無礼、平に、平にお許しください。私はデュラン商会のアルバンと申します」
言いながらも無礼と思っていないのか、興奮した様子で平然と三人に近づいていく。近づいて、ニナの前まで来ると片膝をついて手を差し伸べる。その姿に、会場中がどよめく。
「レオン・バルテル殿がニナ・アルノー嬢との婚約を解消するというのならば! 私、アルバン・デュランは! ニナ・アルノー嬢に婚約を申し込みたく思います!!」
堂々たるプロポーズは、会場にいる特定の者達に火をつけた。
「何を言う! デュラン商会の者よ、下がるがいい、流石に無礼が過ぎるぞ!」
三人、いや、今となっては四人に近づきながら叫んだのは、デュラン商会が出てくるまで覇権を握っていたオブリ商会を持つ壮年のエリオ伯爵、カミーユ・エリオだ。
もし本当に婚約が解消されれば、確かにニナは令嬢として傷がつき、次の婚約に政略や幸福を見出すことは難しい。裕福な商人に嫁いで平民に落ちるのはままある話だ。それを考えればアルバンの申し込みは妥当ではある。
だが、早すぎる。まだレオンとニナの婚約は何も動いておらず正式な婚約者同士だ。これはただの平民の無礼としか見なされない。
だからカミーユの発言は正しい。正しかった。この後に続く言葉が無ければ。
「アルノー伯爵令嬢に婚約を申し込むのは私だ! 平民の出る幕ではないわ!」
「エリオ伯?!」
そう言ってニナを守るように前に立ち、アルバンと向き合った。かつてと今の商売敵であるせいか、貴族と相対してもアルバンに怯んだ様子はない。立ち上がり睨みつけている。
まさかの申し込み二連続。
確かにカミーユは三年前に妻を亡くしている。瑕疵ある令嬢が後妻として年嵩の貴族に嫁ぐというのもまたよくある話だ。が、まだ婚約は解消されていない、それなのに。貴族達はあまりの展開に頭がくらくらしてきた。その間にも喜劇は進む。
「失礼ながら、エリオ卿では親と子程の年齢差ではではありませんか」
「貴族の間でこの程度の年の差などよくある事だ」
「うむ、確かにな。だがニナ嬢の為を思えば其方よりふさわしい者はいる。我が息子とかな」
「ワロキエ公?!」
さらなる参戦者は国王の従兄弟であるワロキエ公爵クレマン・ドメストルであった。
流石に口を挟めなくなったアルバンが歯噛みしていると、カミーユが動揺に震える声で問いかける。
「お待ちください、御子息には婚約者がいらっしゃったかと……」
「それはルイの方であろう。ピエールはまだいない」
「ピエール殿はまだ六歳ではありませんか!」
「何、年の差だけで言えば其方の二十の差より少ない十の差だ。何も問題はなかろう」
「ピエールは我が妹と婚約を、という話が出ておりませんでしたか?」
呆れ声で言いながら六人に近づいたのは第三王子のシャルルだった。
「む、だがそれはまだ口約束の域で……」
「妹は既に楽しみにしておりますし、ピエールもその気になっていましたよ」
「むぅ……」
「忘れないでくださいよ。さて……アルノー伯爵令嬢、次の婚約者が私でも構わないかな?」
「シャルル王子殿下?!」
まさかの王子参戦。
確かにシャルルは十五で十七のニナとは年の差もない。だがしかし、そもそも伯爵家。さらには婚約解消をされそうな立場。この状況で継承権を持つ王子との婚約など成り立つわけがない。
「お、お許しください! ニナは、ニナは我が伯爵家の大事な娘です! もし仮に婚約解消されたとしても我が家で守ります!」
「姉上一人くらい私が生涯養いますとも! ええ、ご安心ください姉上!!」
泣きそうな顔と声で訴え出たのはアルノー伯爵とニナの弟リュックで、その横でやはり泣きそうな顔でコクコクと頷くのはアルノー伯爵夫人である。三人とも顔色を悪くしながらもニナを守るようにピタリと寄り添う。愛する家族が婚約解消されそうだと思ったら多くの様々な立場の人間からの求婚の嵐。三人からしたら何の悪夢なのか。胃が痛いし血の気が下がる。もう家族みんなで家に帰って震えながら嵐が去るのを待ちたい気分だ。
「まぁまぁ、国を動かす方々が何ですか、皆一度落ち着きなさい」
穏やかな口調でアルノー伯爵一家に微笑みかけてきたのは、国教神殿の最高司祭のジョルジュ二世であった。
「難しいことは考えなくてよろしい。アルノー伯爵令嬢が婚約解消をされて心が疲れたというのなら、我が神殿で保護しようではないか」
さも名案のように囲い込みの提案をされた。
「「「お許しください!!!」」」
ニナ以外のアルノー伯爵家が叫んだ。
困ったことがあるならニナ・アルノーに相談しろ。それはここ数年、社交界に広く知れ渡っている話だった。
社交界でアルノー伯爵家と言えば『不可侵のオアシス』である。
程よく栄え程よく田舎という平和なアルノー領の領主は、その土地の気質なのか、何故か代々温和な人ばかりで、嫁いでくる人も婿に入る人もなんだかのんびりした人ばかり引き当ててきた。そこで生まれ育つ子供など言うまでもない。
裏心無くいつも笑顔で優しいアルノー伯爵家の人々は、場の緩衝役、揉め事の仲裁役、絶対安心の人数合わせ等、要は様々な場の雰囲気を良くする客人として重宝されてきた。
南の辺境の絶対守護者で王都にあまり興味のないルーセル侯爵をトップに担ぐ中立派閥というのも信頼を得る上で大きかっただろう。
そういった打算抜きにしても、神経を張り巡らせて渡り歩く社交界において、何も構えず嘘や建前を使わずに話せる相手はまさにオアシスで、アルノー伯爵家は純粋に多くの王侯貴族に好感を持たれていた。
そんなこんなで、やたらと人脈が出来てしまい、やたらと国中の情報と人の心を和ませる技術と気質が濃縮されていった。
冷静に考えれば情報の中に各所の汚点やら機密やらも多少なりとも含まれているのだが、そこはアルノー伯爵家なら悪用はしないだろうと信頼されている。なんだか上に立つ者達の考えとして危うい気はするものの、アルノー伯爵家は実際それを裏切らずにここまで来た。ゆえに、信頼はさらに厚くなっている。
さて、そんなアルノー伯爵家だが、では縁付きたいのかというと、皆曖昧な笑顔になる。
領そのものは特色も特段のうまみもなく、集まる人脈と情報は魅力だが、下手に活用したらアルノー家の信頼を失墜させるので諸刃の剣。それならばお飾りの妻や夫に、なんて事をすれば、善性の塊のような伯爵家一族が総出で怒るし、他の貴族からも睨まれる。そしておまけで言ってしまうと、悲しいかな、アルノー伯爵家は代々特別賢いわけでもなく特別頑強なわけでもなく特別容姿が優れているわけでもない、ただただ人柄がいいだけの凡庸な者ばかりだった。
結果としてアルノー家の婚約結婚とは、身内やごく親しい家、たまに純愛という、政略とは程遠いものであった。
頼りになるし、いてもらわなければ困る。アルノー伯爵家が困っていたら皆手を貸すだろうし、祝い事があれば皆駆け付けて喜ぶだろう。けれど、手に入れようとは思えないしもし手に入れても少し困る。それがアルノー伯爵家。
社交界における『不可侵のオアシス』はこうして生まれた。
そのアルノー伯爵家の第一子がニナ・アルノー。
ニナはこれぞアルノー伯爵家という少女だった。
何処をどう見ても平凡な少女。外見だけでなく、頭の良さも身体能力も何もかも普通。選ぶ服装や装飾品は流行りを押さえながらも誰もが使いやすい大人しめのものばかり。しかし、いつもおっとりと微笑んでいる少女は、最早いるだけで空気を緩める雰囲気をまとっていて、相対すればどんなにきつい性格の人も毒気を抜くかのように丸くしていた。
そんなアルノー家の特徴をこれでもかと濃く引き継いだ少女は、実は両親ですら及ばぬほどに交友範囲が広い。
ニナには、他にない才能が一つあった。
自発的なアイデアは出せないが、相談事に関しては恐ろしく適切な解決方法を見いだせる、という才能が。
零から一は生み出せない。けれど、一を二に増やすには、という事に対しては、二に増やすだけでなく五にも十にも増やせる答えを導き出せる。ニナ自身はすべてを理解しているわけではない。ただ、聞いていると思いつく、閃く、盲点をつける。だから本人はいつも「素人の考えですから、そんなに本気にしないでくださいませ」と前置きをするのだが、言われた方はなるほど、その手があったか、と膝を叩く。そしてニナの意見をもとに動けば本当にその通りになってきた。
それゆえにあらゆる人間が、あらゆる団体がニナに相談してきた。
そんなニナは姉である。そう、アルノー伯爵は弟のリュックが継ぐので、ニナは基本どこかへ嫁に出る予定なのだ。
アルノー家に非ざるかつてない争奪戦が起こった。
ニナのその才を求めて多くの釣り書きが届いた。どうかお願いしますと必死に訴えてきたのは商売もやっている男爵家や子爵家で、自分達ならニナを守れるし高みへ導けるとアピールしてきたのは伯爵家と侯爵家、各派閥の者を紹介して囲い込みを図ってきたのは公爵家と王家だった。王家と公爵家の対応はさすがに震えながら派閥のトップに頼った。何なら釣り書きとは違うが、神殿からも豪商からもうちに所属しませんかと誘いが来た。もう意味が解らなかった。
そうして最終的にニナの婚約者の座に納まったのは、バルテル伯爵家のレオン・バルテルだった。
貴族社会には珍しく、利益を求める積極的な政略というよりは両家共に子供の才と現状の自領を守るためという消極的な政略で決められた婚約であった。
そう、ニナだけでなく、レオンもかなりの争奪戦が起こっていた。
そもそも、バルテル伯爵家は武に秀でた家で、軍閥のトップのガルシエ公爵家に代々仕え、自身も騎士を多く輩出してきた。だが実のところ、騎士の才よりも秀でていたのは育成の才だった。
近衛も騎士も軍の一般兵も、バルテル伯爵家には何かしらの形で一度は世話になっている筈だ。それ位、人を見抜き、鍛え、育て上げることに優れていて、その専門職についていた。
ここ数代は人材の育成だけではなく、武器の製作も関わるようになっていて、ますますもって戦う事や守る事を生業とする者はバルテル伯爵家に世話になっているし、ガルシエ公爵をはじめ上からの覚えもめでたい。
そんなバルテル家に生まれたレオンは、沈着冷静で負け知らずの騎士に成長し、その過程で王太子に見いだされ、現在は側近として敏腕をふるっている。彼が側近となってから、王宮の不正と王太子のサボりが減った、仕事が早く片付くようになった、と評判だ。
強く、賢く、見目好く、騎士精神を携えた真面目な人物。そんなレオンは、当然のように令嬢からも夫人からも熱い視線を送られることとなる。
つまり、レオンその人もバルテル伯爵家も魅力的で、近づきたい者が多いのだ。
とはいえ、バルテル伯爵家は少し力をつけすぎた。ガルシエ公爵家に仕える家として、これ以上軍閥の中で力をつけるのはためらわれる。また、レオンも王太子に仕える身として、王家への目が厳しい貴族派閥や動きづらくなる上の爵位の家とは繋がるわけにはいかなかった。
バルテル伯爵家の希望は現状維持。強固な中立派閥の伯爵以下の令嬢で、欲が無く愚鈍でなくレオンの邪魔をしない人物。
アルノー伯爵家の希望はニナの保護。ニナの才を当てにしたり扱き使ったりする必要がない安定した家と、ニナの才を使おうとしない誠実な人物。
両家の希望が見事一致して婚約は結ばれた。
二人の婚約は一瞬にして貴族の間に広がり、そして皆、口惜しくも認めざるを得なかった。
レオンを求めていた者は、アルノー伯爵を、しかもニナを敵に回すことはしたくない。ニナを求めていた者は、バルテル伯爵家とその後ろにいるガルシエ公爵家に文句など言えない。ある意味、一番綺麗に収まったかもしれないこの婚約。
ところが、婚約者となった二人の交流は、親達が心配し周囲が邪推するほど薄かった。
初対面の時に、お決まりの「後は若い二人で……」とバルテル伯爵家の庭の散策に放り出せば、二人は四阿でとても長く話しこんでいた。親達はそれを遠くから見守っていた。
どうやら当人同士も問題なさそうだ、と安心した親達は、ご機嫌で婚約を正式に成立させた。二人もそれに対して納得して了承していたように見えた。
それなのに。
「ニナ、レオン君と何かやり取りはしているのかい?」
「はいお父様、誕生日にプレゼントを頂きましたわ。勿論わたくしも贈らせていただきました」
「うん、そうか……うん、あの、二人でどこかに出かけるとか……」
「それはありませんねぇ、レオン様はお仕事がお忙しいですから」
「うん、そうか……そうかぁ……」
レオンの仕事の事を出されれば何も言えなくなる。なんせレオンは王太子の側近なのだ。婚約者との息抜きより王太子の命令の方が圧倒的に強い。
だが、本当に仕事ばかりなのだろうか? 一回も出かけることが出来ないほどに? あとそのプレゼントは侍女に任せたものではなかっただろうか。
「レオン、ニナ嬢との仲は順調か?」
「はい父上、互いに時節の折りには手紙にて近況を書き、どのような生活をしているか把握しております」
「うむ、そうか……うむ、あの、把握して、それで?」
「問題があれば解決に助力しようかと思っていますが、幸いにも互いに恙無く日々を送れているようなので安堵しております」
「うむ、そうか……そうかぁ……」
何事かがあれば力を貸そうとは決めているらしい。その事はいい。子供達が平穏な日々を過ごしている事もわかった。その事もいい。
だが、それはただの報告書なのでは? いやいやもしかしたら熱いラブレターの可能性、は……無いだろう。だって貰った手紙は他の書類や手紙と同じ場所に保管されている。
これは危ないかもしれない。
親達はうっすらとこの婚約に危機感を覚え、何かにつけて二人を会わせようと頑張るが、当の本人達が「仕事が」「都合が」「体調が」「天候が」「鏡が割れたので」「黒猫が横切ったので」「多分ニナ嬢は望んでいないと思います」「多分レオン様は望んでおりませんわ」とのらりくらりと避けに避ける。
叱っても宥めすかしても同じ。二人は年に数回の手紙のやり取りと誕生日のプレゼントの贈りあいだけで胸を張って「何も問題ありません」と言う。会おうとしない。
政略結婚などこんなものだ、という思いもあるが、そう割り切るには両家共に子供をまっとうに愛していた。結婚後の事を考えれば、婚約者とはより良い関係を作るために努力した方がいい。険悪な夫婦より気の置けない夫婦の方が幸せになれるだろうから、もう少し交流してほしい。そんな親達の願いは届かない。
婚約から二年。親達のあれやこれやは何の成果もなく、お互い同じ王都のタウンハウスで生活しているにもかかわらず、片手で足りるほどしか会っていない。しかもその数回は貴族が義務として参加する夜会等で、エスコートの時のみ一緒にいる状態であった。要は私的に会った事など一度もない。
周囲がもしやこの婚約は失敗だったのでは? 本人達がいがみ合っているのでは? という疑惑を持ち始めた頃、レオンはニナではなくマルティーヌばかりをエスコートするようになった。
外務卿として国を支えるシルヴェストル公爵の愛娘、マルティーヌは、自身も沢山の言語を巧みに使い輸出入の流れを読む才女である。
王太子が外交を執り行う時にはシルヴェストル公爵と協力するので、自然、側近のレオンも間接的な上司としてシルヴェストル公爵と知り合う事となった。マルティーヌとの縁もそこからであろうと言われていて、振り返れば初めてマルティーヌをエスコートした時も他国の使者を歓迎する会の時であった。
片や特殊な才能を持つとはいえその他は凡庸でほとんど会わない伯爵令嬢、片や仕事で何度も会い支え合う才能あふれる美貌の公爵令嬢。
レオンの心がどちらにあるかなど、周囲の者は簡単に推測できた。
そうして舞台は整い喜劇が始まったのである。
自分が始めた婚約解消の舞台が、何故かニナの争奪戦という舞台に変わってしまった。
呆然と事の成り行きを見ていたマルティーヌだが、逆にこれは好機だと気が付く。
「ま、まぁ、アルノー伯爵令嬢は本当に人脈が広いこと! でもこれなら何の憂いもなく婚約は解消できるわね!」
美しい声を張れば、ニナ争奪戦に参加していた者達が、ああそうだったこの令嬢が言い出したから始まったんだった、とレオンとマルティーヌを振り返る。
「さ、遠慮せずアルノー伯爵令嬢に言ってちょうだい、レオン」
促すマルティーヌが改めてレオンを仰ぎ見ると、果たしてそこには、冷たい眼差しでマルティーヌを見下ろす怒りを隠さない男がいた。
「え……?」
びくりと体を震わせるマルティーヌなど気にせず、レオンは無言のまま失礼にならないようにエスコートの手をほどき、ニナへと近づく。
「……私とニナ嬢の婚約は、王家が正式に許可を出している筈だ」
ようやく口を開いたレオンは、不快さを前面に出して語りだした。シャルルとクレマンは口を一文字に引き締め、国王と王妃がばつが悪そうに一つ咳払いをした。
「王家が許可を出しているという事は、我々の婚約誓文書は神殿が管理している筈だ」
吐き出される声には冷たさしかない。ジョルジュ二世と付き添いの司祭たちは手で祈りの印を刻みながら目を逸らした。
「シルヴェストル公爵令嬢に愛などない。上役であり公爵家であるシルヴェストル家からの依頼だから任務として何回かエスコートをしただけだ。伯爵家に断る余地などないではないか。しかも、家族もエスコートをせず伯爵家の男に押し付けるなど、表に出せぬ理由があるのだと思うではないか」
言外に、やりたくなかったしマルティーヌに瑕疵があるのでは、と匂わせる発言に、マルティーヌ含めシルヴェストル家の者が一斉に怒りと羞恥で顔を赤くし口を開閉させた。
「そもそも何故婚約解消前提で話をしているのだ。私もニナ嬢もそんなことは一言も言っていない。それとも私が契約も礼儀も無視する傍若無人の無法者だとでも?」
勘違いと思い込みでニナの取り合いを始めてしまったアルバンとカミーユは何も言えずに俯いて身を縮めた。
「何よりも」
ニナのところへたどり着いたレオンの顔を見て、アルノー伯爵家の面々は覚悟を決めたようにニナから離れる。
それに目礼をしてから、レオンはニナの肩を抱いて宣言する。
「私はニナ嬢を好ましく思っているし、いずれ結婚するのはニナ嬢だけだと思っている」
熱はこもっていないものの一応は愛の告白らしきもの。ニナは「あらまぁ」と目を丸くしてからふわりと微笑み、聞いていた令嬢達はきゃあ! と、黄色い声を上げた。
全方位を冷静に打ち抜くレオンの言葉に、ようやく吐き出す言葉を決まったらしいシルヴェストル公爵が「レオン! 貴様、優秀だと目をかけていたのに付け上がりおって!」と叫んだ。その次の瞬間、会場中に響き渡る笑い声が全員の耳に飛び込んできた。
「いや、見事! 正論も正論だ。さすが我が右腕、レオンの言い分に否やを唱える者などいないだろうよ」
笑い声の主はレオンの主にして王太子のフィリップだった。様々な表情をしている周囲を面白そうに見回しながら、にんまりと笑ってレオンに問う。
「さてレオン、お前の意思はわかった。その上で問いたいのだが、アルノー伯爵令嬢と婚約を解消する気は?」
「ありませんね」
「実は二人は不仲だったりは?」
「しませんね」
「という事は周囲にチャンスは?」
「欠片もありませんね」
「だそうだ、諸君! いや、春の夢は儚いな! さぁ、目を覚ましたまえ!」
カラカラと笑うフィリップに対して、誰も気まずそうに引きつり笑いを張り付ける。無理矢理に会を正常に戻そうとする流れだったが、「お言葉ですが!」とその流れを断ち切った者がいた。直前まで叫んでいたシルヴェストル公爵だ。
「伯爵家ごときの子息が私の娘を侮辱したのですよ?! いかに殿下の側近とはいえ許すわけには……」
「我が王家が許可し神殿が認めた婚約を潰そうとしたのか?! いかに建国よりの臣下とはいえ許すわけにはいかんなぁ!」
嬉々として叫び返すフィリップに、シルヴェストル公爵はその赤くなった顔をさらにどす黒く染める。ギリギリと歯ぎしりしうめき声をその隙間から漏らすが、それ以上は何も言えない。そんな父親の様子にマルティーヌはぶるぶると震えながら俯いた。わかってしまったのだ、これ以上は何も口に出せないし手出しが出来ないと。
フィリップはようやく沈黙した公爵家を満足気に見てから二回大きく手を叩いた。
「春の精霊は悪戯好きと聞く。皆、精霊の悪戯により荒唐無稽なことを口にする羽目になったのだろう。本意でないことはよぉっくわかっているぞ。そうでしょう、国王陛下!」
無理矢理にでもまとめろ、と話をふられた国王は、一度微かに口元を引きつらせてから、麗しい微笑みを作りあげて「無論」と深く頷いた。
「今日は無礼講である。今までの会話はすべて忘れよう。春は祝福の季節、此度は過去に感謝し未来を寿ぐ園遊会。この場にいるすべての正しき者に幸いあれ」
白々しいながらも朗々と祝辞を述べれば、王妃とフィリップが拍手を送る。レオンとニナも続けて拍手し、そして他の者もおずおずと拍手を始めた。やがて万雷の拍手となった中、どうしても混ざれなかったシルヴェストル公爵家の者だけが、王家の従者に別室へ移動を勧められて逃げるように去っていった。
終わってしまえば何という事もない。お互いただ放任主義なだけで、仲は良好だったのだろう。なんせ、肩を抱いて『結婚するのはニナ嬢だけ』宣言である。
どうせならその放任主義なところも含めて想いあっている事を喧伝してほしかった、と思うのは先走ってしまった者達だ。フィリップと国王が丸く収めてくれたものの、暫くは笑いのネタにされてしまうだろう。勿論、シルヴェストル公爵家に比べたら傷は断然浅いのだが。
レオンとニナを取り囲んでいた輪は崩れる。諦めきれないような恥ずかしいような複雑な様子で、それでも二人に謝罪をして散り散りになっていく。また元のような和やかな談笑が会場のおのおので広がっていく。
だが、一人耐えるようにレオンとニナの前に残っていた人物がいた。シャルルだ。
「アルノー伯爵令嬢、私は……」
「シャルル」
縋るような眼をして口を開けば、すぐにフィリップが止める。
「父上と母上がお呼びだ。行くといい」
「……はい。では、失礼します」
一度きつく目を閉じてからシャルルはレオンとニナに背を向けて歩き出す。何かを振り切るように、その歩みは力強い。
それを見送ってから、フィリップは改めてレオンとニナに向き合いカラリと笑う。
「仕事以外であれだけ喋ったのは久しぶりなんじゃないか?」
面白かったぞ、と言いながらレオンの肩を叩けば、レオンとニナは礼を執る。だが「無礼講と言っただろう」と笑って制された。
「さてレオン、それにアルノー伯爵令嬢、他の者はともかく弟の振る舞いだけは兄として謝罪せねばならんかな」
「精霊の悪戯です。謝罪の必要などありません」
即座にレオンが返せば、それを予想していたように「そうだな!」とまた笑った。
「とはいえ、弟も意思とは異なる言葉が自分の口から出たのだ、暫くはお前達に気まずくて顔を合わせられないだろう。そこは承知してほしい」
「勿論でございます」
シャルルのニナへの想いなどなかった、王家は婚約への横槍など入れなかった。それが出来上がった事実だ。
すべてを承知の上でレオンはそう返し、ニナもそれに同意するように微笑んで会釈した。
「良ければ中庭に出るといい。花は満開で仲睦まじい婚約者達を祝福するだろう。きっと誰も邪魔など出来ない」
恐らくはこれが詫びなのだろうと察したレオンとニナは顔を見合わせ、「では、ありがたく」とレオンの言葉と共に礼を執ってその場を辞した。「もう隙を作ってくれるなよ」という楽しそうな揶揄の声を背に受けながら。
フィリップが言った通り、迎賓館の中庭は誰もおらず、今が盛りと花で溢れていた。
通路の横は白と黄色の細い花が飾り、等間隔に置かれた低木は枝が見えないほど小さな薄紫の花で覆われている。少し離れたところにある花壇は白と薄紅の花が甘い香りをこぼしながら咲き誇っている。春は祝福の季節、というのも納得の景色が広がっていた。
花の道を通って石造りのベンチに座れば、二人はほぼ同時にため息をつく。思わず目を合わせれば、お互い疲労の色が出ていた。美しい花に囲まれても簡単に回復するようなものではないだろう。
「何なんだ一体、婚約だぞ? 家同士の、国が認めた。なのにまさか、ここまで横槍が入るとは……」
げんなりとした様子で、レオンはもう一度長く重い溜息を落とす。
もっともである。契約を結んだのだ。普通はこのまま何事もなく続いて結婚という次のステップに進むものだし、そうなるだろうと思うものだ。ニナだって、レオン様は公爵令嬢のお相手までして大変そうだなぁ、としか思っていなかったし、それはともかくそろそろ結婚式の事も考えなければなぁ、と何の疑いもなく考えていたのだ。だからニナももう一度長く重い溜息をついた。
実のところ、二人は周囲が勘違いしたように放任主義というわけではなかった。
それでも、婚約の解消なんてありえなかった。
誰もが勘違いするようなこの数年ではあったが、二人は初対面から意気投合していたのだ。
二人は正反対の人間に見えて、実は中身がよく似ていた。
情緒の欠落と怠惰な性質が。
「お初にお目にかかります。バルテル伯爵家が嫡男、レオン・バルテルと申します」
「ご挨拶ありがとうございます。アルノー伯爵家が長女、ニナ・アルノーでございます」
ごく一般的な挨拶から始まった二人の見合いの席。親達から二人で話しなさい、と言われて庭を散策した時の会話で、二人の未来は決まったのだ。
「アルノー伯爵令嬢、先に伝えておきます。私はこの婚約に賛成です。そちらの家と貴女は私共が望む条件をすべて満たしている。ですが、私はそもそも人との交流が苦手です。極力抑えたいと考え、実際抑えてここまで来ました。また、今は仕事が楽しく責任も重くなってきたところです。私にあまり自由はありませんし、自由になったとしても世間一般の女性が望むような振る舞いがわからないしわかろうとする努力もしないと思います。それを貴方は許容できますか?」
レオンは初手からかなりのクズ宣言をぶちまけた。本人としては、誤魔化して事を進めたら不信感を煽るだけだろうし不誠実だろう、と思っての事だった。
お前の立ち位置は歓迎するがお前本人には興味がないし必要最低限しか関わっていこうとはしないと思うが納得できるか、という、失礼極まりない発言で、もしこれを聞いたのがニナではなくアルノー伯爵夫妻だったら、いかにアルノー伯爵とはいえさすがに怒っただろう。
だが、ニナは違った。
ニナは「まぁ、まぁ!」と喜びの声を上げると、にっこりと笑った。
「バルテル伯爵子息、正直にお話しくださってありがとうございます。じつはわたくし、誰かに求められた場合は容易く動けるのですけど、自分が主体的に考えて働きかけたり、自分が物事の中心になったりという事が苦手でして、そういう意味ではわたくしも人との交流が苦手なのです。婚約結婚となればさすがに傍観者ではいられないのだろうなと少し憂鬱でしたが、バルテル伯爵子息も特段の交流を求めないというのなら、わたくし達、とてもいい関係を築けると思いますわ」
ニナも初手からかなりのクズ宣言をぶちまけた。本人としては、誠実に実情を教えてくれたのだからこちらも誠実に返そう、と思っての事だった。
お前が動かなければ自分からは動こうと思わないし必要最低限しか自ら進んであれやこれや取り仕切らないけどいいよね、という、社交の意欲無しの発言で、もしこれを聞いたのがレオンではなくバルテル伯爵夫妻だったら、即座にこの婚約を考え直すところだっただろう。
だが、レオンは違った。
今の言葉は相手の本心だ。自分がそうだからか、二人は何故かそれがよくわかった。
ニナは満面の笑みで、レオンは鉄壁の無表情で、けれど互いに花も光も振り撒かんばかりの心地で見つめ合う。
二人は社会に溶け込んではいたが、その情緒は死んでいた。
レオンは生まれ持っての資質である。四角四面な真面目人間ゆえに責務や義務や規律で出来ている人間だった。
対してニナは資質に加えてアルノー伯爵家ゆえの弊害である。
聞き上手になろうとか人を癒せるようになろうとか、そんなことは一度も考えたことはなかったが、何故かそうなるような雰囲気と技術が身についていた。そうして小さい頃から色々な人の色々な話を聞き続けるうちに、自分は観客のような、この世のことはすべてお芝居や物語のように感じられてきたのだ。ニナの才はこの完全なる客観性も背景としてあったのかもしれない。
二人は家族愛だとか友情だとか恋愛だとかの意味はわかる。恩を受けたら返すべきで、人が大切にしているものは守るべき、そういう理屈もわかる。知っているのだ、人がどういう生き物なのか、その道徳がいかなるものか。だからそのように生きてきた。
ただ、心からの理解が出来ず実感がわかないだけで。
そして、それを理解しようとも実感を持とうとも思わないし、あえて疑問を呈したり逆らったりもしない、怠惰な質でもあった。
だって理解しなくても実感が無くても、わかってさえいれば、その通りに動いていれば、何も問題なく生きていけるのだ。必要性を感じない。
きっと目の前にいる相手は『恋は出来なくとも愛は育てられると思うのです』だとか『愛はなくとも信頼や情で繋がる事は出来る』だとか、そんな面倒くさい事を言いださず、放置されても密かに傷ついたり不満に思ったり嫌悪したりする事もなく、それでもまっとうに振舞ってくれる者だ。
二人は確信した。恐らくお互いが最良の相手だ、と。
「アルノー伯爵令嬢」
「はい」
「婚約してください」
「はい」
なので、サクッと婚約を交わした。
「では今のうちに互いの必要最低限のラインを確認しましょう」
「そうですね、最初に決めておけば面倒くさくありませんからね」
婚約者としての交流は何処まで削れるのか、結婚後の生活は何処まで手をかけないでまわせるか。
両親達が遠くから微笑ましく見守っていた間に繰り広げられていた会話はこれらだった。
周囲の人間がやきもきする程婚約者として互いに何もしなかったのは、それが二人にとっての最適解だったから。
二人の間には愛も情も熱もない。
けれど、不満だって一欠片もなかった。
この楽な関係が崩されるのは面倒だ。
はっきりと宣言はしたものの、今後も二人が意思表示をしなければまたややこしいことに巻き込まれるかもしれない。そう思ってレオンは覚悟を決める。
「……今までと変わらず特段交流を求めることはないと思う。けれど、必要に応じて『あなた以外は考えられない』と態度で表そうと思う。なので、どうぞよろしく」
この牽制はきっと必要最低限の作業なのだろう。それで面倒なことがなくなるならやるべきだ。
レオンはするりとニナの左手を取る。左手の薬指、そこを親指で撫でながら自分の口元にもっていくと、そっと指先にキスを落とす。恋人同士がやるような行為を、今までと変わりない無表情で。
「あら、まぁ……」
ニナは目を見開いて驚きの声を上げる。
こんな恋人のような振る舞いは初めてだった。確かにこれなら周囲も納得するわね、ただここには誰もいないけれど、と傍観者の性質で感心していた。これは必要最低限の交流だ。ならばやらねばなるまい。
とはいえ、こういう時にどう返すものだっただろうか、と考えていると、指先に唇だけでなく、ふっと笑い声がぶつかった。
「今気づいたのだが、貴方は今日会ってから『あらまぁ』という言葉しか喋っていないのではないか?」
本当に珍しく小さく笑みを作るレオンを見て、確かにそうだ、と気付きニナも笑う。あの騒動の中、当事者であるニナがどれだけ置き去りにされたのかがよくわかる。
ひとしきり笑ってから、さてどうしようと、今はもう無表情に戻ったレオンを見る。
……そういえば、レオン様だけなのよね、私のこの内面を知っているのは。
家族も知らないあまり褒められない性質の自分を受け入れてくれているというのは、きっと得難い事なのだろう。
婚約した時を思い出す。お互いが最良の相手と確信し、そしてその気持ちは今も変わらず、今後も続けたいと思っている。
それならば、ニナが返す答えは一つだけだ。
「……わたくしも、貴方以外は考えられませんので、どうぞよろしく」
言って、恋人同士がするように、空いているもう片方の手を重ねた。今までと同じような穏やかな微笑みで。
この淡泊な関係を手放したくないと思う気持ちが、面倒くささからくるままなのか、それとも何か別の名前を持つことになるのか。
その答えは、二人の子供が独り立ちする頃には、出ているのだろう。
2024/04/13 誤字修正
2024/04/15 誤字修正
2024/04/16 誤字修正