【番外編】日のあたる刻 - Doctor side -
「日のあたる刻」の番外編です。
本編に登場する二人の人物の出会いの物語。
本編はこちら↓
▼日のあたる刻(異世界恋愛/完結済み)
https://ncode.syosetu.com/n1466gi/
この二人の話を書きはじめるとあまりにも長くなるので、「日のあたる刻」本編ではほとんど触れませんでした。
なので番外編として一部公開します。
ボリュームはほぼ無く、サラッと冒頭のみです。
本編のほうはコツコツ改稿中。まだ「日のあたる刻」を読んだことがない方は、本編も読んでいただけると嬉しいです。
ここは二階建てのアパートの一室。十畳ほどの部屋と水回りの設備が付いて、家賃は月二万四千円。築年数が古く、至る所が老朽化しているが、駅近で意外と人気の物件だ。外の鉄骨階段からは、人が通る度にカンカンと軽快な足音が聞こえていた。
玄関扉についた覗き窓の上には、203と書かれた小さなプレートが付いている。狭い室内は、空になった缶チューハイや弁当の殻で散らかっていた。電気は点いていない。カーテンも閉じているが、夏の日差しのお陰で、ほんのりと明るく照らされていた。
閉じたカーテンの隙間からは、蝉の鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。薄い窓の向こうには、雲ひとつない青空が広がっていた。そんな無限に広がる未来から目を背けるように、一人の少年が部屋の隅でジッと座っていた。
年齢は本人も数えたことがない。だが、おそらく今年で十三歳になる。少年は、手に小さな黒い馬のぬいぐるみを持っていた。それは彼の宝物であり、たった一人の親友だった。少年は何をするでもなく、言葉を発することもなく、ただ黒い馬を見つめていた。
少年の近くには、黄色い通園バッグが転がっていた。いつまで使っていたのか、もう覚えていない。しかし少年は、そこに書いてある「おにづかとき」という下手くそな文字が、自分の名前だということだけは知っていた。そして、母が何かの紙に「鬼塚刻」と書いていたのを見て、それが漢字だというのを最近知った。
刻はこの狭いアパートの一室に閉じ込められていた。閉じ込められているといっても、監禁されている訳ではない。出ようと思えば鍵を開けて出られるのだ。しかし、刻はそうしようと思わなかった。
「あんたはここから出られない」
「あんたはここから出てはいけない」
刻はその言葉を、母から毎日呪文のように聞かされて育った。そのため、刻の頭には部屋から出るという考えがまるで無かったのだ。片手に収まる程の小さなドアノブでさえ、捻ることを躊躇ってしまう。同じ年頃の子供とは違い、外で遊ぶことも、テレビを見ることもない。ただ部屋の中で、黒い馬のぬいぐるみと遊ぶ日々が何年も続いていた。
203号室には、定期的に大人たちが訪ねて来ていた。彼らはいつも、玄関から「刻くん、いるかな?」と声をかけてくる。だが、刻は返事をしなかった。返事をすれば母に怒られると分かっていたからだ。数分もすれば、大人たちは母に追い返されて帰っていった。
刻は、黒い馬のぬいぐるみを大切に抱えて立ち上がった。そして、ゴミをかき分けながらトコトコと窓辺に向かった。
眩しさに目を細めながら、少しだけカーテンを開ける。窓の外には、青い空がどこまでも広がっていた。何故、突然外を見たくなったのか分からない。普段であれば絶対にしない行動だった。
明るい世界が目の前にあるのに、手が届かない。無表情で空を見つめる刻の目からは、ほろほろと涙がこぼれていた。
体は大きくなっても、心は幼児期で止まっている。この部屋にいる限り、ずっと独りぼっちだ。どこでもいい。どんな場所だっていい。一度でいいから、ここじゃない、どこか違う世界に行きたい。
今まで抱いたことのないそんな感情が、涙と共に溢れてきた。はじめての感覚に動揺しながら、刻はぐっと目元を拭った。
するとその時、玄関の方から、ガチャガチャと乱暴に鍵を開ける音がした。振り返ると、コンビニの袋を下げた母が帰ってきていた。母は疲れたように深い溜め息を吐いて、ちゃぶ台の上に袋を投げ捨てた。
「食べな」
刻に向かって一言そう言うと、母は冷蔵庫を漁って缶チューハイを開けた。グビグビと勢いよく飲みながら、つけまつ毛を片方ずつ外していく。そして、散らかったままの室内を見て激怒した。
「なんで片付けてないんだよ!」
頬が赤くなるほどの強い力で、母は刻を平手打ちした。よろけて転んだ刻を、更に足で蹴り飛ばし、チッと舌を鳴らした。そして、面倒そうな顔でゴミ袋を広げて、弁当の殻を集めはじめた。
燃える・燃えないに関係なく、母は次々と袋の中にゴミを放り込んでいく。そんな母の近くには、打たれた拍子に手離してしまった黒い馬のぬいぐるみが転がっていた。刻は慌てて助けようとしたが、黒い馬はあっという間にゴミ袋の中に入れられてしまった。
幼い頃、母が誕生日に買ってくれたぬいぐるみだった。最初で最後の、母からのプレゼント。刻にとっての大切な親友。黒い馬がいたことで、楽しそうに笑うあの日の母の顔を思い出せた。そんな宝物が、どんどんゴミの中に埋もれていく姿を見て、刻は声を出せなかった。
母はもう覚えていなかった。誕生日の思い出は、母の中から消えていた。辛い現実に、刻の中でプツンと何かが千切れた音がした。声にならない声をあげながら、刻はゴミ袋を母から奪い取ろうとした。しかし、筋力のない刻は簡単に振り払われてしまった。
大きく体勢を崩し、背中からキッチン棚にぶつかった。すると、カシャンと音を立てて、足元に包丁が落ちた。母は刻の様子など気にすることもなくゴミ袋を縛り、煙草に火をつけていた。
刻は母の後ろ姿を見つめながら、そっと手に取った。そして次の瞬間には、母の背中から赤い液体がこぼれ落ちていた。
「あ、あ……おかあ……さん。う、あ……あああああ‼︎」
刻は血塗れの両手で頭を抱えて、膝から崩れ落ちた。真っ黒だった髪から、みるみるうちに色が抜けていく。刻の髪は美しい白髪になり、黒い瞳からは止めどなく涙があふれていた。
どうして泣いているのか、なぜ悲しいのか。この涙が何に対しての感情なのか、刻には理解できなかった。頭を抱えたまま、なんとか混乱を抑えようと深く呼吸をした。
その時、突如として室内が金色の光で満たされた。あまりの眩しさに、刻は目を閉じる。そして光が弱まった頃に再び開くと、目の前にふわふわと青色の本が浮いていた。青い本はひとりでに開き、パラパラとページがめくれていく。そして、真っ白なページが現れると、そこに文字が浮かび上がった。
──おねがい ひとつ かなえる なにがいい?
何が起きたのか分からず、刻は目を丸くした。そして、少し間を置いて、ゆっくりと願いを口にした。
「……おそと、いきたい。ここじゃないところ」
刻がそう答えると、青い本はコクリと頷くように揺れた。その瞬間、刻の頭に激痛が走った。まるで頭の中から頭蓋骨を破壊されていくようだった。視界が霞み、意識が朦朧とする。
座っていることすら出来なくなり、刻はその場に倒れ込んだ。そして、あまりの痛みに気を失った時、返り血に塗れたその体を、金色の光が優しく包み込んだ。
◆◆◆
凍えるような寒さを感じて、刻は目を覚ました。横たわっていた体には雪が降り積もっている。凍死していないのが不思議なほど、辺り一面には真っ白な雪景色が広がっていた。
今は朝なのか、明るい光が雪に反射している。起き上がろうと力を込めるが、冷え切った手には感覚がない。冷たい雪に何度も手のひらを押し当てて、ようやく上体を起こすことができた。
辺りを見回してみるが、人の気配はない。建物も何もなく、ただ沢山の枯れ木が並んでいるだけだった。いつだったか覚えていないが、どこかで聞いたことがある。木が沢山ある場所のことを森と言うらしい。しかし、確認できたのはその程度で、ここがどこかまでは分からなかった。
刻は体についていた雪を払った。ついさっきまでは暑い夏の日だった。そのため、着ているのは薄い半袖のTシャツに半ズボンだけ。足元は靴下すら履いていない。母の血で真っ赤に染まった上下の服が、自らの手で親を刺したという現実を思い出させた。
悲しいと感じているのかはよくわからなかった。ただ、今は寒さに耐えることで必死だった。顎が小刻みに揺れ、上下の歯がカチカチとぶつかって音を立てる。
ここに座り込んだままでは死んでしまう。無意識のうちにそんな考えが頭に浮かび、刻は凍えた足でなんとか立ち上がった。するとその時、踵に何か硬いものが当たった気がした。気になって足元を見ると、見覚えのある青い本が落ちていた。
刻はそっと青い本を手に取り、本に積もった雪を払った。青い本には金色の飾りが付いていた。表紙の真ん中には、キラキラした黄色い石がくっ付いている。
刻は、自宅で起きた出来事を思い出した。ここじゃないところへ行きたいと願った瞬間、頭が痛くなった。意識を失い、気が付いたらここにいた。それは全て、この本の力なのだろうか。そう思った時、ぐるぐると腹の虫が鳴いた。
刻の食事は、朝になると母が買って帰ってくるコンビニ弁当だけだった。それも今朝は色々あって食べ損ねている。つまり、昨日の朝から何も食べていなかったのだ。しかし、今は食べるものなど何も持っていない。刻は、ほとんど感覚の無い足を無理に動かした。そして、青い本を抱えたまま、食べ物を求めて冷たい雪道を歩き出した。
──どれだけ歩いたのかわからない。延々と続く雪の森。時間の感覚も手足の感覚もなく、刻はただ震えながら歩いていた。だが、もう体も心も限界だった。
視界が霞み、死が頭を過ぎる。刻はドサリと音を立てて膝をついた。生きているのが不思議なくらい、体の感覚がない。青い本が手から滑り落ち、刻はその場に倒れた。
もう意識が保てない。このまま眠ってしまおうか。そう思い、目を閉じた。その時、どこからかザクザクと雪を踏み締める音が聞こえてきた。誰かの足音がだんだんとこちらに近付いてくる。そして、ピタリと止まったかと思うと、男のような声が聞こえた。
「おい」
声は短く話しかけてきた。だが、刻はもう言葉を発する気力もない。凍えた喉は音を出すことさえ出来なくなっていた。
声の主は刻を仰向けにして、体のあちこちを調べはじめた。
一体誰が、何をしているのだろうか。刻は薄っすらと目を開けて、その姿を確認した。すると、男の青い瞳と目が合った。肌は白く、髪は黒っぽい。だが、光に当たった部分の髪の毛は、ほんのりと青みがかっていた。
目を開けた刻を見て、男は少し驚いた表情をした。そして、身に付けていたコートとマフラーを脱ぐと、刻を抱き起こした。男の手によって、刻の体にはコートとマフラーが着せられた。ブカブカだったが、とても温かかった。
「すぐ街に着く。もう少し耐えろ」
男はそう言うと、刻を背負って歩き出した。
男の背中から伝わる体温と、一歩進むたびに揺れる感覚が心地良い。刻はウトウトとまばたきを繰り返しながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
◆◆◆
ふかふかと温かいものに包まれている感覚がして、刻は目を覚ました。手足の先に感じる柔らかい感触は毛布だろうか。もう少し眠っていたいとも思ったが、窓から差し込む明るい日差しに目が冴えてしまった。
瞼を開くと、目の前には真っ白な天井があった。体を少し動かしてみると、自分がベッドに寝かされていることがわかった。ここは一体どこだろうか。そう思って上体を起こすと、青い瞳と目が合った。ベッドの傍に、先程の男が座っていたのだ。
男は白衣を着て、首に聴診器を下げていた。そして、手には青い本を持っている。どうやらそれを読みながら、目が覚めるのを待っていてくれたようだ。刻がジッと男を見つめていると、男はパタンと本を閉じて刻の額に手を触れた。
「目が覚めたか。あの状況で生きているのが不思議なくらいだが、命に別状はない。少し体温が高くなっているが、しばらく休めば回復するだろう。それと、貴様の着ていた服は捨てたぞ。何があったか知らないが、血で汚れていたからな」
そう言われて、刻は自身の着ている服を見た。血塗れのTシャツだったはずが、青っぽいパジャマのようなものに変わっていた。
黙ったままパジャマを見つめていた刻に、男は、何か欲しいものはないかと聞いてきた。尋ねられた刻は、そこで自身が空腹だったことを思い出した。気付いた途端に腹が減ってくる。それに、喉も渇いていた。刻は着ているパジャマを握り締めて、男に伝えた。
「おなか……すいた。あと、これ……もらっていいの?」
「それは患者衣だ。ここにいる間だけ借りておけ。欲しいのは飯と新しい服だな。それだけか?」
そう言われて考えてみたが、他には思い付く物も無く、刻はコクリと頷いた。すると、男は何故か小さな溜め息を吐いた。
「貴様な、ガキのくせにもう少し欲は無いのか」
呆れたように再び溜め息を吐いて、男は立ち上がった。その姿を改めて見ると、かなりの長身だった。顔立ちも整っていて、白衣姿が男の美しさを更に引き立たせていた。
刻が無意識に見惚れていると、男は青い本を手渡してきた。すると、咄嗟に両手でそれを受け取った瞬間、腹の虫が大きな鳴き声を上げた。恥ずかしさから、刻は顔を真っ赤に染めて俯いた。
笑われるのではないか。怒られるのではないか。そんな恐怖に怯えていると、ベッドの上にドサリと何かが置かれた音がした。音のした方へ視線を向けると、そこには紙袋があった。中には、青い紙とリボンで包装された大きめの箱が一つ入っている。男に向かって、これはなんだろうと視線で疑問をぶつけると、男から答えが返ってきた。
「チョコレートだ。前の街で土産にと貰ったが、俺は甘い物が嫌いだ。飯が出来るまで少し時間がかかるだろう。その間にそれでも食っておけ」
「いいの?」
「くれてやると言っているんだ。喜んで受け取れ。生きていれば腹も空くし、喉も渇く。それが普通だ。遠慮はするな」
「ふつう……僕は、ふつう?」
「普通のガキだろう。見た目以外はな」
その言葉に刻は自身の両手を見つめた。他の子と違うことは薄々気付いていた。住んでいたアパートの外では、同じ年頃の子供たちが元気に遊び回っていた。それが普通で、自分は普通の子じゃないのではないかと考えたことも何度かあった。
だが、目の前の男は自分のことを普通と言った。それが何故だか嬉しくて、つい泣きそうになったのをグッと堪えた。そして、見た目以外はという部分に引っかかり、刻は首を傾げた。すると、男は不思議そうな顔をして、バッグから取り出した鏡をこちらに向けてきた。
鏡には、自分ではない誰かが映っていた。正確には、顔や体つきはこれまでの自分と同じだ。だが、髪の毛からまつ毛に至るまで、全ての体毛から色素が抜け落ち、真っ白になっていた。まるで小さな老人だ。刻は変わり果てた自身の姿に言葉を失った。
「貴様、今まで自分の姿を見たことが無かったのか?」
男は、眉間に皺を寄せてそう言うと、鏡をしまった。そして、刻の白髪を乱暴に撫でると、ポンポンと優しく叩いてこう言った。
「気にするな。貴様は普通のガキだ」
どう見たって普通じゃない。なのにこの男は、こんな姿を見てもまだ、普通だと言ってくれた。頭を撫でてくれた大きな手が、心まで包み込んでくれた気がした。
男は、飯と服を用意すると言って部屋を出て行こうとした。だが、刻は咄嗟に白衣を掴んだ。顔をくしゃくしゃにして、泣きそうになりながら男に訴えた。
「いかないで」
傍にいて欲しかった。一人にしないで欲しかった。また独りぼっちになりたくなかった。もっと話したかった。そんな感情が湧き上がってくる。しかし、その手は優しく払われた。
「飯を頼んで服を買ってくるだけだ。そんなに時間はかからない。必ず戻ってくるから待っていろ」
「でも僕……おじさんと……一緒にいたい」
「おじさんと言われる歳ではない。俺はアイザック・ベルだ。一緒にいたいなら名前くらいは覚えておけ」
おじさんと呼ばれて不機嫌そうに顔を顰めた男は、そのまま部屋を出て行った。一人になった部屋に静寂が訪れる。寂しさを紛らわす為に、刻は紙袋から箱を取り出した。
ガサガサと音を立てて、不器用に包みを外していく。箱の蓋を持ち上げると、中には色とりどりのチョコレートが沢山入っていた。刻はその中の一つを手に取り、口の中に入れて味わった。舌の上でとろけ、甘い香りが鼻をくすぐる。心から、美味しいと感じた。
刻の目から、我慢していた涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「アイザック……ありがと……」
感謝の言葉は、今は彼には届かない。だが、声に出さずにはいられなかった。
ここは白い天井に白い壁、白いベッドが置かれた静かな部屋。傍らに置かれている青い本が嬉しそうに光ったことを、刻は気付いていない。チョコレートを一つ一つ大切に味わいながら、まだかまだかとアイザックの帰りを待っていた。