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告げられた婚約破棄、のち、同じ家に二度嫁ぐ

 仄かな月明かりが窓から差し込み、私の手元を照らしていた。心許ない明かりではあるが、手紙に書かれた言葉ははっきりと読むことができた。


 ――新しい婚約者ができた。君との婚約を解消したい。


 その言葉の前後には大仰な言い訳がつらつらと飾り立ててあった。


 いくら頭を下げられようが弁解をされようがたった一言、その言葉の前ではどのような建前も霞んでしまう。


「カイル様」


 ぽつりと、かつての婚約者の名前をつぶやく。


 もう二度と彼は私の目の前には姿を現さない。新たな婚約者と新たな絆を育み、そして今よりもっと優雅で幸せな人生を送るのだろうから。

 私などという中流以下の貴族令嬢など気にかけている暇などないのだから。

 たった一言だけで、これまでのかかわりをすべて断ち切り、私の人生を打ち壊してしまうのだ。


 怒り、悲しみ、嫉妬、妬み……。


 そんなものは無い。

 そう、何もないのだ。


 涙も出てこない。急速に体温が失われたように、体の感覚も鈍くなっている。

 手紙は私の手を滑り落ち、文机からは腕がだらりと垂れ下がる。死人のように首が折れ、薄暗い天井を見つめる。


「カ…………ぁう」


 愛しかったあの人の名前はもう出てこない。

 積み上げてきたものが崩れ落ち、この先ともに生きていくはずだった人の思い出までが消え去っていく。


「思い出?」


 声に出してようやく気が付いた。

 あの時……初めてカイル様と出会ったあの日の出来事が、私の胸を埋め尽くしていた。


「ふふ……滑稽なこと」


 夜はさらに更け、辺りからは風に乗りわずかに聞こえる虫の鳴き声のみ。弱々しい月明かりだけが部屋の輪郭をおぼろげに浮かび上がらせていたのだった。


  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 私は結構情熱的なのだと思う。


 七年前。十歳になったくらいの頃だろうか。


 いつも仏頂面で仕事のことしか口にしない父親が珍しく眉間のしわを伸ばし、気味が悪いほどのにやけ顔で私に向かってこう言ったのだ。


「エーファ。デーカー家との婚約を結んできたぞ!」


 まだ幼かった私ではあるが、父の言葉が何を意味するのかは分かっていた。


「それは朗報でございます」


 私は父とは違い、柔和に微笑んだ。

 当時の私は年端も行かない小娘ではあったが、生まれた時から貴族の女として教育を受けていたのだ。家の栄光と繁栄。エーファ・アーレンスはそのためにこの世に生を受けてきたのだから。


 父もこの婚約を結ぶために尽力してきたのだろう。母も同じようにアーレンス家に嫁いできたのだ。私もそれに倣ってこの身を捧げなければならない。


 でも。少しだけ小さな胸に引っかかる想いがあったのも事実だ。


 たった、一言の言葉で私の人生の進む道が決まっていくのは少々歯がゆくもあった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 カイル様と出会ったのは、それからひと月ほどのことだった。


 デーカー家はアーレンス家よりも大きなの領地を持ち、先の戦争でも武功を上げたことから王からの信頼も厚かった。なによりデーカー家の現領主が非常に有能な人物で、現在はアーレンス家と同じ子爵ではあるが、ゆくゆくは伯爵、侯爵と昇っていくに違いない。


 よく、そんなデーカー家と婚姻を結べたものだ。

 父は人を良い気持ちにさせるのが上手い人だった。貴族じゃなくて、商人ならもっと成功していたのではと、今でも思う。


 勢いのあるデーカー家の嫡男が万年子爵のアーレンス家と婚約を結んだという事実は貴族社会でちょっとした話題になった。


「カイル・デーカーと申します」


 カイル様はまさにデーカー家の嫡男に相応しい美丈夫であった。


 歳は私と同じく十歳。

 こんな子供に美丈夫などとは、今から考えれば可笑しいことだ。

 しかし、当時の私はカイル様はこれまで出会ったどの男性よりも魅力的に見えた。

 

「少し抜け出しませんか?」


 親同士がなにやら難しい話をしている最中、暇を持て余していた私に、カイル様がそっと耳打ちをしてきた。

 口元に人差し指をあて、片目を瞑るカイル様に私の胸が早鐘を打った。


 今にして思えばこの時、私は既にカイル様に心を奪われていたのかもしれない。物心ついたときから貴族社会の闇の部分に触れてきた私にとって、カイル様はあまりにも純真無垢だったのだ。


「我が家の庭園です。とても素晴らしいでしょう?」


 この言葉だけなら貴族の虚栄心や、高慢に聞こえるだろう。しかし、満面の笑みを作り、少年のように胸を張るカイル様を見ていると、私もただ一人の少女として笑うことができた。


 家のための婚姻。私という存在はただ、アーレンス家を繁栄させるための道具でしかないと思っていたから。

 この身を犠牲にして、どのような殿方にも仕える覚悟だ。たとえ、醜悪で心が貧しい男性でも、親が決めた婚姻に拒否権はないのだから。


「どうされたのですか?」


 ひどく心配そうな声が聞こえてきた。

 

 私は泣いていた。

 涙が頬を伝い、ぽつりと地面に落ちる。


 カイル様は何も言わずに、私の手を取ると優しく握る。


 私は不安だったのだ。

 どんなに覚悟を決めたつもりでも、それはメッキだった。

 カイル様の思いやりが、その想いが私の心に温かく染みわたっていく。


「私ではいけなかったでしょうか?」

 

 カイル様は分かりやすく眉根を下げる。


「違います……違うのです」


 悲しませてしまった。

 私は瞳に溜まる涙を振り払うかのように、頭を大きく振った。

 違うのだと。悲しみの涙ではないということを分かってもらうために。

 

 これ以上の言葉は出てこなかった。

 私の本心を感じてもらえるよう、カイル様の手を強く握る。


 言葉にせずとも、カイル様は分かっていたのかもしれない。そっと、私の肩に手を置く。


「私も不安だったのです。どのような方が私の伴侶になるのか。人生を共に笑っていけるのか。それが心配でした」


 再び涙が溢れてくる。一度私が鼻を啜ると、カイル様は咄嗟に金糸の刺繍が縫い込まれた美しいハンカチを、私の目の前に差し出した。


 私は顔中真っ赤にして、ハンカチを受け取る。


「でも、私なんかをなぜ」


 涙を拭き、私はカイル様に意地悪な質問を投げかける。

 親同士の決めた婚約なのだ。カイル様に決定権があるはずでもないのに。

 嫌な女だ。もうカイル様を独占しようとしている。


「とてもきれいな笑顔を見せてくれました」


 カイル様は気恥ずかしそうに頬を掻くと、はにかんだ笑顔を私に向ける。

 再び、私の胸は大きく跳ねる。


 どこまでこの人は私を魅了するのだろう。


「この庭園を見せた時、貴女は無垢で打算の無い笑顔をしました。私は幼い頃からデーカー家の嫡男として、父から貴族の何たるかを教え込まれてきました。闇深い貴族の世界に置いて、あなたの笑顔はとても新鮮に映りました」


 それは私もです。

 と、言葉に出したかったが胸がいっぱいになり声が喉から出てこない。


「私たちはまだ出会ったばかりです。この貴族社会は色々辛いこともあるでしょう」


 カイル様は私を立たせると、汚れるのも気にせず土の上に片膝を立てる。私の手を取り頭を垂れた。


「あなたを愛し、生涯をかけ守り抜くことを誓います」


 この一言で救われたのだと私は思う。


 この時の私はまだ子供だったが、これから人生を終えるまでの長い間、カイル様と共に生きていけることが何よりも嬉しかった。


「私も同じ気持ちです」


 唇を重ねることも、抱き合うこともしない。


 夢のような心地で……これ以上は何もいらなかったから。


  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 朝の食卓には父と母はいなかった。

 先日届いた手紙。デーカー家との婚約破棄というアーレンス家にとって青天の霹靂ともいえる出来事。


 今頃、二人とも私の婚約について今後の対応に追われているのだろう。


 私ももう十七歳だ。十五で成人とする貴族社会では、もたもたしていればすぐに行き遅れになってしまう。まあ、後ひと月もすれば新しい婚約の話を持ってくると思う。結局、私はまた親の決めた婚約の話を嫌な顔一つせず飲むしかないのだ。


「エーファ様」


 部屋の隅にいた侍女のエリスが、心配そうに私を見つめている。


「ああ、ご馳走様。片付けてもいいわよ」


 エリスは体を一度ビクつかせると、そそくさと食器を片付け始めた。


 一晩呆けていたのだ。

 私は貴族の女だ。アーレンス家の繁栄のためにも自分を高め続けないといけない。


「私は部屋に戻ります」


 そう言うと、エリスは食器を厨房に戻し私の後をついてくる。

 エリスから返答はない。ただ、なにか言葉を探しているかのようにおろおろとしているだけだ。

 

 部屋に戻ると、私は文机の椅子に座る。

 普段であれば、今日は座学の予定だ。この国の歴史に国語。経済に外国語……カイル様のためにもっと知識を詰め込まなくて――。


「あ」


 ふと気が付く。

 カイル様のために自分を高める必要はなくなったのだ。

 もうカイル様の婚約者ではなくなったのだから。


 じゃあ、誰のために?

 今は顔も分からない、将来の夫のためなのだろうか。


「あ……ぅ」


 手が震える。その震えは徐々に体中に伝染していき、まるで陽の光が消え失せてしまったかのように悪寒が駆け巡る。


「エーファ様!」


 エリスは私を後ろから力強く抱いた。


「もう……お忘れくださいまし!」


 情けない。本当に情けない。

 忘れることなどできないのだ。


 カイル様と出会ってからの七年間。

 すべてを捧げていたのだ。


 カイル様に役立つ知識を。カイル様の隣にいても恥ずかしくない私に。

 私の全てをカイル様に。


 ――新しい婚約者ができた。君との婚約を解消したい。


 カイル様からの手紙に書かれていたこの言葉は、呪いのように私の心を蝕んでいく。


「エリスぅ……」


 侍女という立場であるエリスは物心つく前から、私に仕えていた。

 多忙な両親よりも、エリスと過ごした時間の方が長いのだ。


 嬉しかったことも、悲しかったことも、すべての感情を共有してきた。

 私の心の奥底など見透かされていたのだ。


「今はただ、お泣きください。カイル様と出会ってからの年月はエーファ様にとって決して短くない時間です。きっとまた良いめぐり逢いがありますとも」


「ひぐっ……うう……ぐぅ」


 それでも私は声を押し殺して泣く。

 エリスに甘えて感情をさらけ出し子供のように泣きわめけば、多少は気分が晴れるのかもしれない。


 しかし、私にも貴族の女だというプライドがある。


 間違いなく両親は新しい相手を見つけてくるだろう。

 もし、その相手が最低な男だったら?

 

 それでも離縁などできるはずがない。

 だって、貴族の婚約とは家を繁栄させるための政略なのだから。


 カイル様との出会いは、貴族という闇深い世界を忘れさせてくれる太陽のようなものだったのに。


「……ぐぅっ。ああぅ」


 呻き声をあげる。

 吐き出してしまった方が楽なのに。私はこれ以上の感情が漏れ出ないように歯を食いしばる。


私はまだ抜け殻になるわけにはいかない。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「エーファ! 新しい相手を見つけてきたぞ!」


 午後のさわやかなひと時。実家の庭園でエリスとともに穏やかな時間を過ごしていた時に、父の大きな声が聞こえてきた。


 カイル様との婚約解消から丁度ひと月。想像した通りだった。

 エリスは若干顔をしかめて、父に冷たい視線を向ける。


「エーファよ。これで悲しむ必要はないぞ。お前もこれで安泰だ」


 唾を飛ばし目を見開いてそう告げる父に、エリスは今にも突っかかっていきそうだ。


「それは朗報でございます」


 私はエリスの肩をぽん、と軽く触れる。

 エリスは込められていた肩の力を抜くと、小さくため息を吐いた。


 私は父のことは嫌いではない。

 仕事は熱心だし、領民に圧制を敷いたりしているわけではない。

 爵位が上がれば領民だってもっと良い暮らしができると考えているし、少しだけ考えも無しに暴走するだけで、人の道に外れたことをしているわけではない。


「デーカー家だ……! 再びデーカー家との婚約を結んだ!」


「…………は?」


「カイル殿のことは本当に残念だった……。しかし、私はどうしてもデーカー家とのかかわりが欲しいのだ! まさに今の貴族の中で飛ぶ鳥を落とす勢いのデーカー家! あぁ、これで我が家は安泰だ」


 大きく腕を広げ、父は天井を仰ぎ大笑いをしている。

 その異様な光景にさすがのエリスも若干、体を引く。


「どういうことでしょうか? お父様」


 デーカー家と聞いて、このまま素直に頭を縦に振るわけにはいかない。

 突っぱねるわけではないが、やはり、


「……カイル様」


 どうしてもカイル様の影がちらついてしまう。


 デーカー家は嫡男であるカイル様のほかに、兄弟も何人かいたはず。


「さあさあ! 忙しくなるぞ。エーファも体調を整えておくんだ。夜更かしは大敵だぞ! あまり外に出て風に当たっていると、体に障る。エリス! 今日は精のつくものをエーファに食べさせてやってくれ! 大事な体なんだからな!」


「……りょ、了解しました」


 エリスは畳みかけるような父の言葉に毒気を抜かれたようだ。深々とお辞儀をした後、目を丸くしている。


 やけに過保護だな、とは思う。父も必死なのだろう。

 私も十七歳になり、のんびりしていれば婚期も遅れてしまう。

 まだ若くて綺麗なうちにさっさと婚約を結んでおきたいのだろう。


「承知しました。では、私はこれで」


 一人、うきうきとしている父を尻目に、私はその場から去る。


 しかし、父は結局私の質問には答えてくれなかった。

 拒否するつもりもないが、再びデーカー家との婚約を結ぶことへの娘の気持ちを少しは考えたのか。


 結局、たった一つの言葉で私はまた振り回されてしまうのか。


 なんとなく父が少しだけ……嫌いになった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「なぜ私はこんなところに……」


 しん、と静まり返った夜。

 蝋燭の淡い光だけがおぼろげに部屋の輪郭を映し出していた。


 比較的大きなベッドには、甘い香りのするバラの花弁が散らされている。

 さらには乳香まで焚かれているので、甘ったるい香りが鼻につく。


 美しい文様が描かれた羊毛の絨毯に、窓にはめられているのは水面のように透き通ったガラス。私の家よりも質の良い家財道具が部屋中に設置されていた。


 ここはデーカー家の邸宅の一室。


「嵌められた……」


 私はうろうろと部屋中を歩き回るも、聞こえてくるのは自分の足音のみ。

 今日は確か、私の新たな婚約者との初顔合わせのはず。夜まで待たされたことに疑問を抱くべきだった。


「……あぁ! あのクソお――」


 私は、無意識に口を手で覆う。

 いけない。父への罵倒の言葉が出てしまうところだった。


 私は血が上ってしまった頭を冷やすために、窓の近くまで行き星空を見上げる。


「子を作れ、か」


 何もわからずこの部屋に通され困惑する私に、父は耳元でそう言った。


 デーカー家の子供達はまだ結婚はしていない。

 嫡男のカイル様も私との婚約破棄の後、新たな婚約者を迎えたとはいっても、直ぐに結婚するわけではないだろう。


 つまり嫡男であるカイル様よりも早く子をもうけ、デーカー家への存在を示したいのだ。


「あの父親。どうしてくれようかしらね」


 分かっているのだろうか。

 子はキャベツ畑からコウノトリが運んでくるわけではないことに。

 子を作るためには、男性と準備をしないといけないということに。


「……ぐすっ」


 子を産み育てることにはなんの抵抗もない。むしろ女性の幸せとして望むところだ。デーカー家との婚約も仕方のないことだと割り切っている。


 しかし、出会ったことにない男性と夜を共にするというのは……


「これでは娼婦と同じでは」


 私の声が夜の闇に溶け込んでいったとき、ドアをノックする音が聞こえてきた。


 声も出せず、自らの体を抱く。

 再び静寂が訪れる中、もう一度ノックの音。


「……は、はい」


 意を決し返事をする。

 ここから逃げるなど以ての外だし、私は覚悟を決めていたはず。

 エリスに慰められたあの晩。心の底に溜った不安をすべて吐き出さずに押しとどめていたのだ。この先の人生、何があろうとも私は心を砕かずに前を見据えていきたい。


 とはいえ、この状況に足が震えてしまうのは仕方がない。


 私は喉を鳴らして待つ――――が、一向にドアが開かれることはない。


「ど、どうぞ……? 入っていらして」


 ドアの向こうで風が動いた気がした。

 もう少しだけ待つと、ゆっくりとノブが回されわずかにドアが開く。


「こ、こんばんは」


 ひどく不安そうで消え入りそうな声だった。

 

「え……?」


 その声の主は、大きすぎる部屋のドアを体全体で押し開ける。ふぅ、と一息つくと、部屋の中に入り、両手を突っ張りドアを閉めた。


「は、初めまして。テオ・デーカーと申します。よろしくお願いします」


 テオと名乗ったその人物は、肩をすぼめて深々と私に向かってお辞儀をした。

 顔を上げる。今の状況に頭が回ってない私を見て、どうしたらいいのか視線を泳がせていた。


「き、君……迷子……? の、わけないよね」


 ついこんな質問をしてしまったのも、目の前の人物があまりにも幼かったからだ。

 一筋の穢れも無い金色の髪は、ドアの開閉だけでふわりと揺れる。陽の光を一切浴びてないかのような真っ白な肌は触れるのにも躊躇してしまいそうだ。


 テオは私の言葉に、少しだけむっとした表情をすると、


「迷子ではありません。僕は父に申し付けられここに参りました」


 声を荒げることはないが、はっきりとした声色でそう答える。


「カイル様……」


 まっすぐに私を見る瞳の中に以前愛した人の面影を見た。


 忘れようと思っても、ふとした時に頭にかすめる想い人の幻影。

 テオを見るたび思い出してしまうのなら、これほど辛いことはない。


「あの……それで」


 テオがゆっくりと私に近づいてくる。どこか怯えているようだった。


「エーファ……様でよろしかったですね? ところで僕はエーファ様と一体何をすれば宜しいのでしょう?」


「えぇっ……!」


 一気に体が熱くなる。

 いくら幼いとはいえカイル様の面影が強いテオにそんなことを言われると、喉に石でも詰まったかのように何も言葉が出なくなる。


「父は『行けば分かる』というだけで何も教えてはくれませんでした。私の妻になる女性が全部教えてくれると……」


 その言葉に、別に意味で私の体が熱くなる。


 結局あれだ。

 デーカー家の者はこの婚約についてはどうでもいいのだ。

 テオはおそらく、カイル様よりも十は年が離れているだろう。ということは、デーカー家の四男か、五男……。


 次男までであれば、デーカー家を継ぐであろうカイル様の右腕としてこの家には残ることができるはず。

 テオとの間に子ができたとしても、デーカー家にとってはどうだっていい。

 

「あの……エーファ様?」


 こぶしを固く握り、怒りに体を震わせる私にテオは動けないでいる。


「なに?」


 つい、テオに向けて尖った声色で返事をしてしまう。

 テオは喉の奥から小さな悲鳴を漏らすと、涙目で後ずさる。


「あ」


 しまった。

 私は年端もいかない子に、理不尽な怒りをぶつけてしまったことを後悔した。

 

「ちょっと待って!」


 背中を丸め部屋を出て行こうとするテオに、私は慌てて声をかける。


「ごめんなさい。あなたは何も分からないのよね。こちらでお話でもしましょう」


 私はベッドに座ると、テオを隣に座らせる。

 女から男をベッドに誘うなど、はしたないとは思うが、とことこと歩いてくるテオに私は笑みがこぼれる。


 隣に座ったテオの手を両手で包み込むように握る。


「初めまして。テオ。あなたのことを教えて?」


 テオは幾分か柔らかい表情になり、私の手を握り返してくる。


「僕はデーカー家の五男で、今年七歳になりました。えっと……花を育てるのが好きで、カイル兄さまの許可を得て、庭園でいろんな花を育てています」


「そう……」


 カイル様はどうなさっているの?

 と、いう質問を寸でのところで飲みこんだ。


 テオはまだ幼いが、これからはこの人を愛し、愛され共に人生を歩んでいかなければいけない。兄弟とはいえ他の男のことを聞かれるのはテオにとっても気持ちの良いものではないだろう。


「あ、あの……一つ聞いてもよろしいでしょうか?」


「なぁに?」


 愛らしい、と思ってしまうのはテオのプライドを刺激してしまうだろうか。とはいえ、まるで弟のようなテオに抱く感情としては間違ってはいないと思う。


「子はどうやって作るのでしょうか?」


「…………は?」


「エーファ様のお父上に頼まれました。皆が幸せになるよう、早急にエーファ様との間に、と」

 

 あの父はこんな幼い子に何を吹き込んでいるのだ。

 今分かった。私はあの父が嫌いだ。


「どうすればいいのですか?」


 そんな無垢な瞳で見つめないでほしい。

 そりゃあ、子供の作り方は知っているが……。


「テオ。こうして見つめ合い、手を取り合って信頼を深めていけばきっと私たちの元間に子は授かるわ」


「……そう、ですか!」


 テオは無邪気に喜んだ。


 まぁ、今はこれでいいか。

 今すぐ子を作れ、と言われてもテオにその気があるのか分からないし、無理やりその気にさせるのも私の趣味ではない。そもそも、私の心の準備ができていない。それにもう数年すれば嫌でも求められることになるはずだ。


 はぁ……どっと疲れた。もうこのまま眠ってしまいたい。


「あの……エーファ様」


 テオが私の顔を覗き込んでくる。

 長いまつげに青色の宝石のような瞳。まだ男になり切れていない中性的な顔立ちにどきりとしてしまう。


「私たちは夫婦になるのですね。不思議な気持ちです」


「そうね。私もまだ実感がないわ」


 婚約をしたとはいえ、まだ結婚は先のことだ。万が一、カイル様の時のように婚約が破棄になってしまうかもしれない。まだテオと出会って、ほんの少しの時間ではあるが、妙な愛情が私の胸に生まれつつあるのを感じていた。


「エーファ様に対しては……その、失礼かもしれませんが、姉のような感情を抱いています」


「ええ、年が離れているから。その時が来るまでは私のことを姉と思ってくれて構わないわ」


 この歳の子供に突然、男女の愛を教えても理解できるわけはない。ゆっくりと……亀の歩みのように絆を育んで行ければいいと思う。


 愛らしいテオの頭を優しく撫でる。すると、テオは私の膝に甘えるように頭を置いた。

 驚きはしなかった。ずっと過ごしてきた家族のように、私はテオを受け入れる。


「よかった。本当に良かった」


 テオは鼻を鳴らすと、すすり泣く。


 私は水を含んだような艶やかなテオの髪を撫でながら次の言葉を待つ。


「父に申し付けられ、何もわからずにエーファ様と婚約を決められ不安だったのです。たった一言です……それだけで僕の人生が決められてしまいました」


 テオの髪を撫でる手が止まる。


「どんな方が僕の妻となるのか……もし、酷い女性だったらどうしようかと、夜も眠れませんでした」


 私は頷く。


「まだ出会ってわずかな時間ではありますが、貴女は優しく慈愛に満ちた方です」


 なんて愛おしく寂しい人なのだろう。


 テオのこれまでの七年という短い人生の中で、何を思い何を感じてきたのか私には知る由もない。でもこれだけは分かる。初めてカイル様と出会った私と同じ気持ちをテオは抱いている。


「……僕はエーファ様を独占しようとしているでしょうか?」


 同じなのだ。

 結局、私やテオのようなちっぽけな存在は、さらに力の有る者のたった一言で人生が決められてしまう。


「ねえ、テオ?」


 私はテオの目に溜まっていた涙を、指で拭ってやる。

 拭っても拭っても溢れ出る涙は、これまでのテオの七年という人生で溜まっていた淀みのようなものだ。

 今はどれほど涙を流しても、テオの心の底に積もった不安は消え去ることは無いだろう。


「本当はこういうことは男性がしてくれるものなのだけれど……」


 私はテオの脇に手を入れ、ひょいっと立たせる。

 やってから思ったが、私はずいぶんと逞しいな。これも、カイル様を想って日々自分を鍛え上げていたからだろうか。


 カイル様のために高めた自分自身を今度は目の前の……まだ頼りない将来の夫のために。


「あなたを愛し、生涯を賭け守り抜くことを誓います」


 立て膝をつき、テオの手を取りそう宣言した。


「う……うぅ……エーファ様……! 僕は、僕は……!」


 私はテオの体を抱き、額に軽くキスをした。


 私も……きっとテオも他の誰かの一言で、これまでの人生歩んできたのだろう。ひょっとすると、今後も変わることはないのかもしれない。


 だったら、せめて……。

 今この瞬間だけでも、目の前にいる人を救ってあげたいと思う。

 いや、私も救われたかった。たった一言の言葉で。


 私の胸に芽生えつつある、愛情ともまだ分からない暖かい感情に、しっかりと向き合いたいと思ったから。


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