前編
……時々に見る夢がある。
頭が丸まった、鳥かごのような形のガラスケースに入った、一本のカーネーション。
ガラスケースは、一脚の丸いテーブルの上に。
カーネーションは、一輪挿しの細めな花瓶のなかで。花をきれいに咲かせているわ。
それから……そこには小さな人間の男の子が。僅か数センチ単位の小人が出てきて、笑いかけながら。私に指をさしてこう言うの……。
『君にこのカーネーションを贈る。この花は、一生枯れることはない。
君が生きている限りだ。
この花の色が。君を幸せに導いてくれるだろう……』
私が近づこうとすると夢が終わる。
あの花とあの小人の男の子は、何なのだろう。私は何も知らない。
……
安藤桃果は、学業を終え。家に帰る前に商店道にあるスーパーへと立ち寄った。
まだ午後4時半頃。刺身や総菜物に値引きシールが貼られるには、早い時間帯だった。しかし中学生である桃果には関係がない。母親におつかいを頼まれただけである。
買ってくるように言われたのは、絹豆腐と白ネギ。
みそ汁の買い忘れかなと、陳列されていたネギの群集から見た目にきれいな一本を手に取った時だった。同じく、ネギを取ろうと手を伸ばした人物が桃果の目にとまる。
男の子だった。
(学生服だ!)
桃果は、物珍しそうにその人物を観察した……黒い、学生服を着て、実に爽やかそうで文芸の一つでも器用にこなせそうなきれいな男子。
何故、スーパーに。しかもネギ。
自分と同じように、おつかいなのだろうかと桃果は思った。
「何?」
突如、男の子の方が桃果に声を掛けてきた。
「い、いえ。すみません……!」
慌てて桃果は目を背け、素早くネギをしっかりと持って立ち去った。一度も振り返ることはなく、顔を赤くした桃果はレジと出入口に近い買い物カート置場まで進む足は止まらず……よほどびっくりしたのだろう、手を胸に当てて、動悸やかましい心臓を落ち着かせようとしていた。
(逃げてきちゃった……変な子と思われたかなぁ、私)
俯き、しばらく頭を上げられなかった。
内気な性格であることは重々承知していた。分かっていてもどうにもならないことも知っていた。
(上業中学の人かな。ここ近辺だったらきっと)
学生服というだけで考えてみていた。ネギを取った人物は、桃果とそう歳が変わりそうになく。だが、桃果が通う聖マリアント女学院の生徒ではないことは確かだった。どう見ても女子ではない。趣味で学生服を着ているとも考えにくかった。趣味でネギを……もういいだろう。
やっと気が落ち着けて。桃果が、振り向いた直後だった。何かが肩に当たり、はずみで何かが落ちた音がした。
ぐちゃ。
しかも、桃果は得体の知れないものを踏んでしまう。「あああ!」
怒りと興奮をあらわにした声が桃果の脳天を直撃した。
驚き呆然として、桃果は固まってしまう。そして恐る恐る、足をどけてみたらだ。
ぺっちゃんこになった、“それ”は姿を現した。
薄いピンク色の。
「俺のあんまん!」
桃果の踏んづけていたのは、さくら色のホカホカしたあんまんだった。ただし哀しきかな、もう口には運べない。足で踏み潰されて平べったくなってしまい、これは何だろう。あんがはみ出てしまって、何処かの宇宙生物にそっくりだった。ぜひ名前を。
「てめえ……! どうしてくれんだよ! ああ!?」
宇宙生物より、目の前の猛獣に桃果は恐怖した。
黒い学生服を着てはいるが、全然爽やかそうではない男の子だった。指をポキポキと鳴らしながら威圧的。体格もよろしく、顔つきが鋭かった。誰にでも遠慮なく喧嘩をふっかけていそうで、怖い凄みが桃果を襲う。
背筋が凍りついていて、どうにもリアクションがとれなくなってしまっていた。
誰か助けて、と。全身から汗を吹き出して桃果は周囲の大人たちに心すがった。少し離れた所のレジでは店員がレジを一心に打ち込み、並んでいるお客は桃果に背を向けて会計が済むのを待っている。
怒涛のような声が聞こえなかったのだろうか。辺りが賑やかだから?
それとも体良く無視された?
桃果には、どうしていいか分からなかった。するとその時だ。
「おい馬場! 何凄んでんだよ。あんまんぐらいもう一個買ってやるっつうの」
荒れ狂う猛獣の肩に手が置かれた。先ほどの爽やかな男の子である。どうやら2人は知り合いか、友人同士であるようだった。
「空島ァ。だってこいつ、謝りもしねえでやんの。あー腹立つ!」
馬場と呼ばれた猛獣の怒りの視線は、隣の彼に移った。彼の名前は。
空島。
空島くん。
桃果の頭のなかの記憶センターへ、確実にインプットされた。
空のなかに浮かぶ島という、勝手な連想まで思い浮かべて。
桃果は脱力しそうだった。まだ何とか堪えて踏みとどまっている。
「ご、ごめんなさい……」
やっと出せた声がそれだった。桃果は泣きそうな顔で、2人を見つめた。
馬場の方はともかく、空島の方は桃果に納得した素振りを見せて口元柔らかく笑ってみせてくれていた。「うん。今度からは気をつけてよ」
相手を責めすぎず、かといって馬場の非を認めているわけでもない。
馬場と桃果の間をとっていた。全然嫌味を感じさせない空島の態度、気質は、お見事だと言えよう。
「……ったくよう」
尚も愚痴る馬場だった。しかし。
「もっかい(もう一回)コンビニ行って買えばいいだろ、あんまん。そういうとこ、いつまでもシブとくてどうなんだ。もうちょっと我慢を覚えろバカ」
爽やかな男の子のはずの空島は、口が達者なようだった。やはり見事だ。
ただの怖いもの知らずなのだろうか。桃果には2人の関係がよく飲み込めない。
「じゃあね」
桃果がアレコレとぼんやり考えている間に、2人はさっさと立ち去ってしまった。
レジでピー、と。打ちこみエラーの音がする。
店内の狭い通路から段々と、お客がレジへと集まってきていた。
もう夕刻にさしかかる。混み合う時間が訪れようとしているのだった。刺身パックなどには上に値引きシールを貼られて。お客の持つ買い物かごの一番上に置かれているのを頻繁に見かけるようになる。
(お礼言えばよかった……)
突っ立っていただけだった。今も。
馬場に言われて謝ることは出来ても。助けてくれた空島にはお礼のひとつも言えなかった。激しい後悔が自分を内面から責め立て、戻ってくれない時間を恨めしく思った。
(情けないな……)
もし、今度会ったら。
微かに、次の再会を信じて。桃果は、少しだけ前向きに考えることが出来てひとり歩き出していた……
……
夢は、少し色づいていた。
おかげで、テーブル上のガラスケースに閉じ込められていたカーネーションの、色が見て判るようになる。
モノクロームだった桃果の視界には、花のある周辺にだけに色彩が。
カーネーションの、花の鮮やかな濃赤が。
はっきりと、……見えていた。
……
5月の第2日曜日は、毎年聖マリアント女学院では学院祭が行われていた。創立当初から母の日に合わせて設定し開催されており、門から入ると出店が並んでいて外来者を歓迎している学院祭である。
たこ焼き、たい焼き、カルメラ焼き、イカ焼き、何でもお好みに焼け焼きやジュースなどの飲食の出店。休憩にと喫茶店も用意されており、出迎えるはメイドではなく修道女である。
家から持ってきた不要な物を低価格で売りさばくフリーマーケットが催されている。
もっと奥の大きく開けた場所では、演劇や合唱などのステージイベントが進行している。午後からは学長によるカラオケ……いや、聖歌隊による賛美歌スペシャルが歌われる予定だった。
桃果を含む女学院生たちは、皆それぞれ外来の接客に気忙しい。桃果は、門からすぐの出店で。焼いたクッキーを何個か入れたお菓子の袋とカーネーションの花を、来た人全員に配っていた。
その中でバッタリと。
偶然か、会ってしまった桃果。
門から入ってきてすぐ、目が合ってこちらにと真っ直ぐ向かってきた人物がいた。
2人だったが。
「こんにちは」
「よお」
気さくに挨拶までして、桃果に呼びかけた。
空島と、馬場である。私服だった。普通の白カッターシャツを着て黒いジーンズを履いていた空島とは反対に、馬場は芸術派手柄な黒の半袖で、シルバー装飾を重そうに服の箇所箇所へと着けたストリートスタイルだった。
「ど……ども?」
桃果の焦点が定まらず、浮いたような返事のせいで相手は顔を見合わせてしまった。面白可笑しく、肩を竦めてもいた。
「制服着てたしさ。前会った時」
ヒントを与えたくらいの気持ちで、桃果に空島は助言してくれている。
「そういえば学院祭があるよなって馬場と話してて、寄ってみたんだよ」
すると空島を無視して横から馬場が桃果の手元を覗き込んだ。「それ、くれよ。腹へった」
マットの掛けられた長机の上に、籐かごに入って美味しそうに詰まっているクッキーの袋。机の横には数色のカーネーションが、茎を揃えて並んでいた。
「あ、あの、これ……どうぞ。持ってってくださいどうぞ」
どうぞ、を繰り返し。桃果は袋と、カーネーションを2人の前に差し出した。受け取った2人はさっそく袋から取り出しクッキーを食べ始め、空島だけが桃果に話しかけていた。
「ああそうだね。母の日だった。だから配ってんだ、花。ほとんどピンクと赤色だね。定番かな」
どきどきと高鳴る心臓の音に耐えながら、桃果は答えた。「黄色だと、相手に渡すのに失礼になるかなと思いまして……」
両手を下で合わせてもじもじしながら、必死だった。「どういうこと?」
桃果の心中知らず、明るく空島は続けて聞いた。桃果は汗ばんでくる体と焦りにさらに耐えながら、一生懸命に口を動かしていた。
「カーネーションの花の色によっては、意味が違ってくるんです。黄色には、軽蔑、侮蔑、美、嫉妬。とても相手には贈れませんよね……。ちなみに、紫には誇りや気品、開発されて青もあるんですが永遠の幸福なんて言われています。ピンクだと感謝や感動、赤だと母の愛や熱烈な愛……無難ですね」
俯いて何とか説明し終えた桃果に、感心して空島は頷いた。
「へえー。花言葉ってやつだね。なるほど、うっかり黄色なんてあげられないじゃん。ここにはないけどさ……って、ああ、知ってて外したのか。さすが女の子だね。気配りきいて」
桃果の体が強張ってしまった。空島に褒められて、汗がますます吹いてくる。
焦りが焦りを呼んでくるようでいて、桃果はこの先の会話をどうしようアンドどうしようと、心でもがいていると。話に馬場が割って入ってきた。
クッキーは完食済みだった。
「『母の日にカーネーションを贈る習慣は、1907年にクリスチャンの女性が母の命日に教会で配ったのが始まり』なんだと。紙に書いてあるぜ。空島、花やるからクッキーよこせ」
袋のなかに一緒になって入っていた紙に書かれていたことを読み上げて、馬場は空島にクッキーをせがんだ。「おいおい」
空島は呆れたように馬場に苦笑いをする。桃果は、あ、と声を上げた。
そしてクッキーの袋をひとつ、つまみ上げる。
「馬場くん。よかったら……もうひとつあげます」
桃果を意外そうな顔で馬場は見た。「まじで? いいわけ?」受け取った馬場はまだ信じられない様子だった。
「だって……あんまん、潰しちゃったから……」
馬場はあまり桃果の言葉を聞かず、素直に喜んで袋を素早く開封した。「じゃあな〜」
そしてスタコラサッサと華麗に去ろうとした。「おい! 待たんかい!」
空島は慌てて、追いかけようと桃果に背を向ける。だが、再び桃果の方を振り向いて「じゃあね、またどっかで」と言い残し、駆けていった。
去る時も、少しだけ笑顔だった。
いつも人には、笑いかけているのだろうか。桃果は思った。
そして。
(何か、嬉し……)
汗がひいて、乾いて寒くなるかと思われたがそうはならなかった。ずっと熱が桃果の体から無くなってはくれない。何故なのか。
夢が教えてくれるだろう。
その日の晩に見た夢のなかでは、カーネーションがピンク色に可愛らしく咲いている。
たった一本だけのカーネーション。咲く。
小人は、笑う。小首を傾げて。
桃果に語りかける。音はなく。
――小人の顔は、……空島に似ている気がした。
……
数日経ったある日。
聖マリアント女学院から家に帰る途中、電車に乗ろうと駅に辿り着いた桃果は、ふと気がつく。
改札の前で、黒い学生服姿の幾人かの生徒が通りすぎ、桃果の視界に入ったのだ。
全くの知らない他人男子の集団だったが、学生服というだけで頭のなかに思い浮かばれる顔がある。
思い出すたび、決まってため息をついてしまうのには……桃果はもう飽きていた。
(何で……)
運賃表を上に見上げながら、泣きたくなるような気持ちを噛み締めた。
桃果がこれから乗ろうとする電車、路線の降車駅。そのまま降りずにルートを辿っていくと、その進行方向の先には上業中学の最寄りの駅がある。
上業中学。在学しているとはっきり知ったわけではないが、可能性があった。
空島がいるかもしれない。
始め小さかった思いは強く。
桃果に、決断を持ちかけていた。
行こう。
桃果の指は、ひとりでに上業中学、最寄駅の『野ばら闇雲駅』へ向かう分の切符購入ボタンを押していたのだった。
電車は、緩やかに左右に揺れながらお客を次の駅へと運んでいく。
まだ夕日を見るには早い時間で、乗車している人もまばらだった。桃果は、4人掛けの席の窓側に座って窓の外の景色を眺め、薄く見える窓に映った自分の顔をも同時に見ていた。
自分の隣にも前にも人は座っており、席は向かい合わせで手荷物である自分の学生鞄は膝の上に行儀よく置いていた。
時々、目を伏せて外気から遠ざかろうと眠ったふりをしながら。
空島のことを……思っていた。
『ああそうだね。母の日だった』
空島とした、言葉ひとつひとつのやり取りがとても貴重なものに思えていた。
どうして忘れられないのか。
どうして、停車駅を変えたのか。
どうして……また会いたい、会えるかもと思えるのか。
どうしてが続く。
桃果の家の玄関の脇には。
残った分を生徒で分けあって持ち帰ってきた、母の日のカーネーションが色とりどりに咲いている。
赤、濃赤、白、ピンク、紫。割合では、やはり赤とピンクが多い。母の愛、感謝、温かい心。
桃果の母は花を始め見た時に、特に何も言うことはなかった。
花瓶は何処にあったかしらと、探しにトタトタと音を出し。スリッパ履きの足が廊下を小走るだけだったという。
空島の何気ないひと言ふた言のおかげで、桃果は母親のことを考えた。
カーネーションをあげたのは、学院祭で残ったのをもらってきただけで。自発的にあげようとする行為自体は、自分の成長と共に何処かに置いてきたことを。
確か幼稚園ぐらいの歳の時には、喜んで似顔絵を描いたり、お手伝いをしなさいと先生に言われてしたいと申し出るなど積極的だったはず。
いつからこうなってしまったのだろうか。母親とは疎遠になっていくようで。
今朝は挨拶をしたっけ。……覚えてはいない。
(……ん?)
桃果は急だったが、現実に戻ってきた。
まぶたを開けて、目や視線は動かさずに。しばらく様子をみていた。
脇腹のあたりで、モゾモゾと動くものの感触が伝わってきたのだった。
(何? これ……)
桃果の隣には、黒のジャンパーを着た大柄なおじさんが座っている。確か席に座る直前に見た桃果の記憶によれば、変哲もなく真面目そうな風貌をした30か40代くらいのおじさんだったと思い出す。座る桃果とおじさんの体と体は、おじさんの大きな体格のせいで至近だった。
腕を組んで上着の袖下に隠しているのか、手が直接には見えない。だが、見えない何かが『動いて』いるのは確実で、桃果の脇腹へと伝わってくるのだった。
桃果は、やっとそれが痴漢だと気がつく。
見えない何か――汚き『手』は、調子づいて楽しんでいるのか、やめることは毛頭なさそうだった。まさぐっている。
脇腹が好きなのか、もしや胸元にまで近づこうとしてくるのでは。桃果は痴漢と思い始めた途端に恐怖に襲われ、強張って体は動けなくなってしまっていた。
(ど、どうしよう……あと2駅で『野ばら闇雲駅』に着くんだけど。2駅ぐらい、が、我慢したらいいかな。降りようと見せかけて、逃げたらそれで……)
金縛りになって動かせない理由を、無理やりに納得させていく。辛抱、我慢、耐える……相手の為すがままに。桃果は、せめて震えを悟られないようにと、……頑張った。
時が過ぎるのを待て。待てばいい。待ってろ。
身に言いつける言葉も、命令調で乱暴になっていく。
電車は、ガタンゴトンと音を大きくカーブにさしかかり。晴れた陽気な空のなか線路の上を滑り駆け抜けて。規則正しいスピードは、桃果にはとても遅く感じていた。
「おいアンタ」
聞き覚えのある声が、座る桃果の頭上から降ってきた。
男の子の少しかすれた声で、偉そうな物言い。「え?」
桃果は塞ぎ込んでいた頭をヒョイと上げて、後ろを見た。
背もたれの向こうに、学生服を着た人物が立っている。
「ば……」
桃果の気が逸れてしまったが、痴漢の手は声と同時に引っ込んでいた。
「ちょっとこっち来い」
馬場だった。
うっかり名前を呼ばなくてよかったと桃果は後で思う。
馬場は、桃果を見て言っていた。睨んでいるようにも見えるほど、鋭く目つきは桃果を捉えている。何が彼にそんな怖い顔をさせるのか――桃果は、呼ばれて座席から離れていった。
痴漢と思わしきおじさんの前を通り、出ている足を踏みそうになりながら。
桃果は……魔の場から脱出し馬場の元へと行った。しかしすぐ馬場に手を引かれる。「どこ行くの!」
慌てて桃果が叫んだが。「いいから来い!」
馬場に手を引っ張られて車内を歩き、2人は奥の車両へと移っていった。
馬場は移った途端、歩きを止め桃果に振り向いた。まだ怖い顔をしている。「アンタさあ」
眉間のシワが減ることはなかった。
「窓に映ったあんたの顔。あんな嫌そーな顔してて。何か変だなーと思って後ろから観察してたらよ」
ズバリと言い当てた。
「痴漢にあってただろ。……すぐに逃げろよ。声出すとか。方法あるだろ」
説教は止まらなかった。
「我慢してねえで、もっと勇気出しな。女とはいえ情けねえ奴」
桃果に言葉はなかった。
ただ自分に情けなく、馬場の言葉を聞いていた。全て馬場の言う通りだと認め、言い返したりする余地も度胸もなかった。目に薄っすらと涙を浮かべて。「ごめんなさい……」
謝られても、馬場は桃果から顔を背けて何も言わなかった。曇る表情は変わってはおらず。黙ったのはせめてもの馬場の優しさだろうか。だが。
「とにかく。アンタ……お前、すげえ鬱陶しい。うじうじうじうじ。見るからに。ムカつくついでに教えといてやろうか」
優しさとは前言撤回で、また馬場の悪口攻撃は続いた。桃果は終始俯いていたので馬場を見てはいないが、顔を上げることは忘れて馬場の言葉に注意がいった。「?」
「さっき空島とは遊びの帰りで別れてきたんだけどよ」
馬場は車内から、窓の外の流れゆく景色を見ている。電車は、あと数分でホームへと入るだろうとアナウンスが知らせて予想できた。
桃果は馬場がそう言ったので、ああそれで学校に向かう方向の電車に、と。納得した。桃果はぼんやりとして馬場の吐かれる次の台詞を待っている。
「空島には、母親なんていねえんだよ」
……
桃果は、衝撃の事実を知った。馬場は言う。
母の日であり、学院祭だった日。桃果からカーネーションを受け取った2人が帰りに向かった先とは。
――墓地。
空島が急な思いつきで馬場に行ってほしいと申し出た。始め行く先は地名しか聞いていなかった何も知らない馬場は弾みながら、「いいけど?」と軽く受けて了承していた。
空島が墓地へと迷わず進んでいくのに、段々と馬場は元気を失くしていった。
馬場も衝撃だったのだ。知らない空島がいる。
行き着いた墓前に立つ、空島を取り囲む触れてはならない領域、空間を馬場は。
「見てらんねえよ……」
それは、桃果に言った、空島には言わなかった言葉だった。
空島の母は、空島が幼い時に病気で亡くなっている。墓に、桃果からもらった花を添えて。
「白だったらよかったけどね」
空島はそう呟いていたという。
白いカーネーションは、故人の母にあげるもの。学院祭で空島たちと話をしていた時、桃果は花の白については触れなかった。手元にも数少なくしかなく、話すと辛気くさくなるかなと桃果は考え、敢えて言わなかったのだ。
しかしすでに空島は白の意味を知っていたらしい。説明したことも、始めから得ていたことなのではと――桃果は再びショックを受けた。
空島に会わせる顔がない。
桃果は馬場が降りた停車駅で彼を見送った後、目的地へは行かず――乗り替えて帰路へと戻っていった。
……
夢の花は教えてくれる。無知な桃果に。
今日の色は黄色だね。軽蔑、侮蔑、愛情の揺らぎだ。いつもの小人が、桃果を指さす。空島のような顔をして。面白そうに。
知ってた? 黄色には、友情っていう意味もあるんだってさ。どうしてかな。
赤にも白にもなれないあいつは嫉妬してるんだろう。……あいつって誰?
あいつはあいつさ。
誰だろうね? ……当ててごらん。