第8話 居場所
「それなら、野衾はもう学園の外に出たって事ですか?」
もう学園内にいないのであれば、生徒が襲われる心配は無いのではないかと思う。そんな私の考えを、部長は首を振って否定した。
「そうだったら何の問題も無いんだけどね。学園内に入ってきてしまった妖怪やらは、彼らの意思で外に出て行くことはない。学園に魅入られて、此処に定住しようとしてしまうの。だから、学園内に入ってきた物や生み出された物は学園内で対処しなければならないのよ」
部長の言葉に、師匠は少し厳しい顔つきをして言った。
「探そう」
師匠は手に持った懐紙をぎゅっと強く握る。ぶつぶつとはっきりと聞き取れない声で呟いてから、手を開く。すると、師匠の掌からぼうっと小さな炎が上がった。その炎はゆっくりと上昇し、掌の上に小さな火柱が生み出された。緩く吹く風の影響を全く受けずに、右へ左へと不規則に揺らめく炎。暫くそうしていたかと思うと、しゅるしゅると糸のように細く伸びていく。
「見つけた」
師匠の言葉に、部長は頷いて私に向き直った。
「ちはる。今から、野衾の所に行くわ。学園内に入ってきて、恐らく今は住処となる場所を探しているはずだから気も立っているはず。勿論、私も月坂もいるし貴方に危険が及ばないように力を尽くす。でもね、怪異を相手取るからには絶対はないわ。…………ついてきてくれる?」
これ以上踏み込めば、もう戻れない。覚悟を問う部長の言葉に私は迷いなく頷いた。
「はい、勿論です!」
炎の糸を辿りながら、3人で走り出す。今更逃げ出すつもりなんて、毛頭無い。これから自身の身に起こるかも知れない危険が全く怖くないなんて、漫画のヒーローみたいな心の強さを持ち合わせているわけじゃない。でも、私が逃げ出すことはない。それだけは、絶対だと言い切れる。
走って、走って、走って。
これだけ走っても影も形も見えないのは、野衾も住処を探してあちこち移動を繰り返しているからだろう。だからといって、住処を見つけ移動をやめるのを待ってから追いかけるなんて悠長なことはしていられない。野衾は猫の血を吸う。けれど、襲うのは猫だけではない。猫の血を特に好むと言うだけで、必要とあらば人間だって襲う事もあるという。
急がなければ。今回は生徒の目の前に現れただけで済んだが、いつ何処で誰かが襲われるか分からない。小さいとは言え妖怪は妖怪。学園内の人間にとっては、死の危険すらある脅威になり得るのだから。
「いた!」
先頭を走っていた師匠が叫ぶ。よく目を懲らせば、木々の間を縫うようにして滑空する小さな黒い影が僅かに確認できた。必死に走っていて自覚はなかったが、随分と部室棟からはなれた所まで走ってきていた。これなら、これだけ疲れるのも当然だ。頭の中で冷静に分析をしてみるが、どんどん重くなる手足は既に早く休ませろと悲鳴を上げている。
「まどろっこしいわね!」
野衾目掛けて、鋭い氷の刃が襲いかかる。対象が小さく遠くにいることもあり、ひらりひらりと躱されてしまう。それを見て、舌打ちをしそうな程に顔を歪めた部長はカッと大きく目を見開いて手を前に突き出した。
「じゃあもう、先へは進ませないわ!」
バキバキと背を震わせる轟音と供に、野衾の行く手を阻む巨大な氷壁が現れる。すぐさま進行方向を変える野衾の四方を囲むように4つの氷壁がそびえ立つ。ならば上へと上昇し始めたのを嘲笑うかのように巨大な氷塊が空から落とされた。
蓋をされた氷の檻。その中で、行き場を失い野衾は氷に体当たりを繰り返している。
「力業過ぎ」
一番最初に氷壁の前へ辿り着いた師匠が呆れ声で言うと、次いで追いついた部長が少し気まずそうに頬を掻いた。
「ちまちま追いかけてたらいつ追いつけるか分からないじゃない。………まあ、ちょっと。ほんのちょっとよ? やり過ぎたったかも知れないけど」
私はと言えば、ヒイヒイ言いながらそれに追いついて、何とか息を整えて氷の壁を見上げた。
透明な氷の向こう側で、暴れる黒い影。あれが、野衾。
「解いて良いよ」
師匠の言葉に、部長が頷き氷壁に手を添える。じゅわりと氷が溶け出して、壁が消えた。これを好機とばかりに逃げだそうとした野衾を白い何かが捕らえた。見れば、その白は師匠の懐からするすると伸びていた。どうやら、懐紙を細長く切った物のようだ。飛ぶことなど許さないと言わんばかりに雁字搦めにされた野衾は、不満そうにキイキイと甲高い鳴き声を上げる。
ギョロリとまん丸な赤い瞳を光らせながら、何とか逃げだそうと藻掻き続ける。
「さて、これでもう逃げ出せないわね」
満足そうに笑った部長は、地面の上に転がった野衾を見下ろしながら得意げに笑った。