お願いマシュマロ!
お菓子が並ぶケースを前にして、椎奈は衝撃を受けた。
チョコレート、マカロン、マドレーヌ、スフレ、タルトにロールケーキ。さらには飴やクッキー、キャラメルだってあるのに。求める姿はどこを見てもなかった。
ない。
うそだ、マシュマロ……どこにいるんだ、マシュマロ。
絹糸で根気よくショールを編んでみせたら、たいそう喜んだお嬢様が褒美にとお菓子屋へつれていってくれた。
身振りで好きなものを選んでよいと言ってくれているが、椎奈は愕然とするしかない。
マシュマロがなかった。
あの、白くてもふっとして、甘くておいしいマシュマロがどこにもない。
一番好きな食べ物は? と聞かれれば、椎奈は迷わずマシュマロ! と答える。
小学生のころから遠足のおやつは味の違うマシュマロの詰め合わせだったし、社会人になっても鞄に必ずマシュマロが入っていた。家にはいくつかのメーカーの商品が常備されている。
あのやわらかさと、ほんのりとした甘さが口の中で溶けていく食感はたまらない。もふもふ噛んでもいいし、上品に舌の上で溶けていくのを味わうのもいい。シュワシュワ溶けるマシュマロも、噛みごたえのあるマシュマロもどちらも好きだ。とにかくうまい。飽きない。あのお菓子を生み出した人ありがとう。
そんなふうに偉人の恩恵にあやかりながら、あの白いもふもふした菓子を愛していた椎奈である。
それなのに。マシュマロがないなんて……!
お嬢様が連れて行ってくれた店は、日本でいうところのケーキ屋に近かった。焼き菓子はガラスケースに、日持ちするもの、たとえば飴などは瓶詰めで棚に収まっている。色とりどりでキラキラしていて、見ているだけでわくわくするのだけれど。
あからさまにがっかりした顔をしてしまっていたのかもしれない。
心配そうに顔を覗き込んできたお嬢様に、椎奈は慌ててマカロンを指差した。
お付きの侍女にマカロンを含めていくつかの菓子を示しているお嬢様を見ながら、椎奈はこっそりとため息をつく。視界がにじんでいるのは、マカロンがうれしいからだ。居候の身でこんな贅沢品を買ってもらえるなんて、身に余る光栄である。本当である。
お邸に戻ってお嬢様とお茶をしてから、夕飯までは新しいレース編みをして過ごした。
無心になって手を動かしているはずなのに、気づくと手元のレース編みは白い楕円を描く始末。マシュマロはこんな感じのやわらかなまろみを帯びていて、弾力が……いやいやマシュマロはどうでもいい。今はお嬢様のドレスに飾るレースを編んでいて、あのマカロンだっておいしかったし、お嬢様が分けてくれたアップルパイだって最高だった。おいしかった。マシュマロじゃなかったけど。
こんな感じに、考えまいと思うのにどっぷりマシュマロについて思いをはせてしまうのだからどうしようもない。
だから、夕飯に添えられたデザートがババロアだったときなんて、思わず厨房で大きなため息がこぼれてしまう始末だ。
「……おい、シーナ。俺の料理を前にずいぶんでかいため息だな」
当然ながら料理人には凄まれてしまった。
胸板と上腕二頭筋がすばらしい偉丈夫は、目つきも悪くガラも悪いがこの邸の正式な料理人だ。くるくるした黒髪がぴょんと跳ねているところだけはかわいい、かもしれない。
でもその背中に刺青があったとしても、椎奈はすんなり納得してしまうだろう。刺青があってもおかしくない見た目と言えば、彼のガラの悪さが日本人に伝わるはずだ。ちなみに、刺青はもちろんない。
「ヴィネットさん! わたし、ごはん、うれしい」
俺、料理、大きい息、しかわからなかったが、表情や声色からなんとなく読み取って椎奈は慌てて首を振る。
「ヴィネットさんのごはん、おいしい! 本当!」
こんな見た目なのに、とは思っていても言わない。これでも彼は意外と優しいのである。
わあわあと手を振って精一杯の意思表示をすると、彼はわずかに首をかしげて椎奈を見下ろした。
「それなら早く食べろ。冷めるぞ」
「はい!」
早く、食べる、冷たい、なる。
気づかわれたのだと察して、湯気がたつ料理を前にした椎奈は大きくうなずいた。
椎奈とヴィネットの関係は、椎奈がこの邸に来たときから始まっている。
春うららなある日。椎奈は突然この世界に迷い込んでしまった。気づいたら花盛りの庭に座り込んでいて、やけにリアルな夢だなあなんてぼんやり思ったのだけれど。紛うことなき現実だった。
呆然としている椎奈を見つけたのは邸のお嬢様と執事で、すぐに迷い人だと届け出て、そのままこの家に引き取られて今に至る。
何年かにひとりの割合でちがう世界の住人がくることがあるらしく、椎奈もそのひとりというわけだ。
お嬢様たちが根気よく向き合ってくれたおかげで、この半年で椎奈もようやくこの世界に慣れてきた。
片言の言葉と身振り手振りでなんとか意思の疎通をはかり、読み書きの勉強もし、裁縫の腕を磨く。迷い人は新しい知識や技術をもたらすことができるが、言葉も通じないうちはそれもむずかしい。まして、椎奈は日本では平凡な社会人だった。秀でたものもなく、趣味手芸なくらいで。
できることが限られていたから、ここぞとばかりにそれを活かすしかない。
縫う手振りで針と糸をもらった椎奈は刺繍やらレース編みを披露したのも、ここで生活するようになってすぐのことだった。
お嬢様の刺繍が額に入れて飾るレベルであることを知ったので、自分はそそくさと編み物がメインですという顔でかぎ針を動かした。
レースのリボンから始まり、お嬢様や侍女たちの反応を見ながらいくつか作品を増やしていたときもご褒美はもらっていたが、今回のショールでは椎奈も店までつれていってもらえた。そのおかげで、マカロンと引き換えにマシュマロがないという事実を知ることになったわけなのだが。
それはさておき、ヴィネットである。
邸に来て五日目。夕飯をもらいにきた椎奈に、彼はデザートとしてクッキーを添えてくれた。それまでデザートなんてものはなかったから、思わず椎奈はまじまじと男を見上げる。
無骨な彼は、食え、とひと言こぼしてそっぽを向いた。
それがどれほどうれしかったかなんて、きっとヴィネットは知らないだろう。
突然知らないところに来てしまった椎奈。周りは幸いにも好意的だったがいかにしてもわかることが少なすぎた。ものを指差して単語を繰り返し、身振り手振りでやり取りしても伝わることは一部だけ。生活の仕方や文化もちがう。戸惑いばかりが大きくなり、この先の不安だってどんどん生まれる。
泣きそうだけど、見栄もあるし周りは気をつかってくれているから泣けない。好意を無碍にはしたくない。それなのに、できないことばかり。
愛想笑いを浮かべてごまかしていたのに、焦りと落ち込みでぐちゃぐちゃだった心を見透かされた気がした。そして、そっと添えられた菓子に間違いなく励まされた。
さくりと砕けて、香ばしさが口に広がる。素朴な甘さがおいしくておいしくて、椎奈はうるんだ視界のまま必死に頬をなでた。おいしい、おいしい。へらりと笑って繰り返せば、大きな手が、ぽすんと頭をなでた。
それ以来、椎奈の夕飯には少しのお菓子が添えられるようになったのである。
それから何ヶ月も経った今思うと、椎奈の必死さは痛々しく見えたのだろう。だからきっとヴィネットだって見かねて菓子を添えたんだ。言葉も通じないから、彼らしいやり方で椎奈との距離を縮めてくれたように思えた。
自暴自棄になりそうだったのを持ち直して、お嬢様や邸の人たちの手を借りてこの場所のことを知っていくこと半年。
ようやく椎奈も慣れてきて、役に立てそうなことも出てきた。
これからはもっと手芸の腕を磨いて、ここに置いてもらえる価値を備えなければと気持ちも新たにしたところなのだけれど。まさかのマシュマロが存在しない事実がすべてをも上回ってしまった。
椎奈は料理を平らげ、最後にとっておいたババロアに手をつける。
真っ白いぷるんぷるんしたミルクババロア。林檎のジャムが添えられていてほどよい甘さだった。
けれども椎奈は思わず眉を寄せてしまう。
ババロアだって卵やゼラチンを使うんだから、マシュマロがあったっていいじゃないか。むしろババロアよりマシュマロのほうが簡単である。
「シーナ?」
ババロアを真剣に見つめながら口に運ぶ椎奈に、ヴィネットが怪訝そうに首をかしげた。
最後のひと口を食べてから、椎奈ははっとして立ち上がる。
「ヴィネットさん。おいしい、ありがとうございました」
「おう」
空の食器を重ねて厨房の中まで持っていくと、ヴィネットは当然という顔で受け取ってくれた。初めのころ、洗おうとしたら怖い顔で咎められたので任せている。洗うのも作るのも椎奈の仕事ではない、ということなのだと思う。
皿を洗い始めたヴィネットの横で、椎奈は手元と男の顔を交互に見てからそっと首をかしげた。
「お願いします、する、よい?」
「ん?」
ヴィネットは、わずかに目を見開く。
皿の水を切って置くと、体をきちんと椎奈に向けてくれた。
椎奈はほっと息をつく。頭の中にある知っている単語をかき集めて、期待を込めながら真剣に言葉を選んだ。
今晩のデザートもおいしかった。おいしかったけど、椎奈の求めるマシュマロなのである。
「ババロアおいしい。でも、ちがう白い、やわらかい、甘い、おいしい。作るして、お願いします」
「はあ?」
売っていないのなら、作るしかない。
そして今目の前にいるのは、腕の確かな料理人。図々しいことは百も承知で椎奈はお願いしますと手を合わせた。
余談だが、椎奈がまず覚えた言葉は、なに? とお願いします、である。知りたいものを指差してなに? と聞けば大抵名前を知ることができたし、敬語なんて応用編はまだわからないから、とりあえずなにかを頼むときにお願いしますをつけている。口癖になってきた気もしているがしかたがない。
「卵、砂糖、ゼラチン!」
唐突なお願いに、ヴィネットは面食らったようだった。
マシュマロというものがないのだから、言葉も知らない。材料をあげるとヴィネットが眉をよせた。
「……プリンか?」
「プリン、ちがう」
あと、マシュマロの特徴といえば。
「甘い、白い、おいしい」
「……ムースでもねえのか」
「ムース、ちがう。マシュマロ! マシュマロ食べる、お嬢様、笑う! お願いします」
お嬢様だって、食べたら絶対好きになるはずだ。おいしいわ、と笑ってくれる。だってマシュマロおいしい!
ましゅまろ?? 聞き慣れぬ言葉に怪訝そうなヴィネット相手に、椎奈はもうひと押しだと一歩踏み出す。
ただ、マシュマロを表す言葉は今の椎奈にはこれ以上なかった。このままではちっとも伝わらないので、作った方が早そうだ。
作る、する、よい? そう首をかしげれば、ヴィネットは小さくため息をついてから卵と砂糖とゼラチンを用意してくれた。やはり彼は優しい。
日本にいたとき、あれだけマシュマロを食べていたのだから買わないで作れば最強じゃないか、と思っていた時期が椎奈にもあった。もちろん何度か挑戦したことがある。
が、椎奈は自分に菓子作りの才能がないのを痛感するばかりだった。
「おま、勢いよくやればいいってもんじゃねーんだよっ」
メレンゲを作るだけでも横から叱責が飛んだ。プロの目に余るのだろう。ガチャガチャ音を立てていた泡立て器を問答無用で取られる。
むっとしている椎奈をよそに、カシャカシャと実に滑らかな動きでヴィネットの手は動いた。
角が立つくらいになると、今度はふやかしてからあたためたゼラチンを投入。椎奈が作ったときはゼラチンが玉になって口の中でごろごろしたのだが、さすがはプロ。ヴィネットはうまいこと均一に混ぜていく。
あとは容器に入れて冷やして、片栗粉やコーンスターチをまぶせば白いあいつの完成である。
「マシュマロ!!」
似たような白い粉をまぶして、見た目はほとんどマシュマロなものができあがった。
もう椎奈のテンションはマックスで、ヴィネットが粉をまぶしている横で今か今かと手元を覗き込んでは頭をどかされている。
前髪を白くした椎奈に、呆れた顔をしたヴィネットは切り分けたひとつをつまんで口に差し出した。
ぱくっと白いものが消える。早かった。手で受け取るとか考える間もなかった。
唇に白い粉をつけた椎奈。キラッキラしていたその顔は、もぐもぐするごとにしぼんでいく。
「……マシュマロ、ちがう」
うえー、苦い。
口当たりはふわふわシュワッとしているのに。苦い。マシュマロの姿をしたこいつは偽物である。
うえー、と言いながらそれでも椎奈の手は偽マシュマロに伸びた。うえー、マシュマロちがう、苦い、うえー、甘いない、うえー……
心底悲しそうな顔をしているのに、椎奈は偽物をもぐもぐ食べていく。涙目ですでに半分ほど食べているのを見て、ヴィネットがため息をついてガシガシと頭を混ぜた。
「……クソッ。わかったよ、作ってやるから」
たぶん使った粉が悪い。あと分量も悪い。ヴィネットは言いながらひとつをつまんだ。
彼の口には合うのだろうか。椎奈が手を止めて見上げた先で、ヴィネットは眉を寄せて口を歪めた。やっぱりおいしくないらしい。
「ヴィネットさん、マシュマロ本当おいしい! これちがう! お願いしますっ」
悲しみと期待を込めて頭を下げてから、椎奈は残りの偽マシュマロを頬張った。
仕事では常に笑顔を心がけ、ある意味でポーカーフェースだった椎奈だけれど、ここではそれだと意思の疎通が図れないと実感した。今では、年甲斐もなく表情で感情をさらけだすことも癖になり始めている。
言葉が通じないぶん表情や仕草で補うしかない。だから、もう素直に顔に出すことにも慣れてきてしまった。作ってくれたものを食べて、まずいという顔をするのは申し訳ないとは思うけれど。
一度作って手順がわかったからか、先ほどよりもずいぶん手際よく泡立て器を扱うヴィネットを、椎奈はにこにこ眺めてしまう。
ふやかしてからあたためたゼラチンが投入され、また泡立てて、あとは冷すだけ。基本的には作り方も簡単。材料も少ない。
ゼラチンがこの世にあってくれてよかったなあと思っている間に、ヴィネットがそれを容器に流し入れて冷やし始める。
食器たちを洗って拭いていれば、冷すには十分な時間になるようだ。
「これでどうだよ」
布巾を洗うのだけは手伝わせてもらえた椎奈が、ぱんぱんとしわと伸ばしていたら冷えた容器はいつの間にか取り出されていた。白い粉を程よくまとったマシュマロの姿が目の前に現れた。
パッと満面の笑みを浮かべた椎奈に、ヴィネットはぐっと変な声を喉でこぼすと視線をそらす。
眉を寄せた彼が差し出してくれたものをつまむと、ふにふにした弾力があって椎奈はますますうれしくなった。素早く口に放る。
マシュマロ! すごい! どこからどう見てもマシュマロ! もふっと食べると、食感がふわっとして、滑らかで、しゅわっと口で溶けて……白いし、マシュマロっぽいけど…………あれ、なんにも甘くない。
「……クッソ! 今度は砂糖の割合だろ、わかったっつーの。無理して食うな、ちゃんと作り直すからよこせっ」
まだなにも言っていないのに、ヴィネットが舌打ちした。
「くっそ? 砂糖? ……ううん、今の、なに? ヴィネットさん、また言うして、お願いします」
驚いたのと相手が早口で聞き取れなかったのとで、椎奈は首をかしげてたずねた。すると、頭を混ぜたヴィネットがバツの悪そうな顔をする。
「無理をして食べなくていい。ちゃんとしたやつを作り直すから」
ゆっくりとした口調で簡単に言い直してくれたので、今度こそわかった椎奈は慌てて首を振った。
「わたし、食べる。ヴィネットさんが作るした。わたし、お願いします、した」
「……そうかよ」
そっぽを向いたヴィネットは、ぼそりと言うとまた頭をかく。椎奈が偽物に手を伸ばしてもなにも言わないで、新しい卵を取り出した。
どんどん椎奈の好きなマシュマロに近づいて、三度目ともなれば期待が高まるばかりだ。
カシャカシャと泡立て器を動かすヴィネットの横で、椎奈は甘くない偽物をもぐもぐと食べている。甘くないけれど、なんだか甘く感じる気がしてきた。自然と、頬がゆるむ。
ちらりとヴィネットが視線を寄こしたけれど、すぐにまた手元に戻っていった。
「シーナ」
小さく呼ばれ、偽物をごくんと飲みこんだ椎奈はまっすぐと男を見上げた。
なんだろうと尋ねる前に、相手がゆっくりと口を開く。
「シーナ、おまえのためにいつでも好きなだけ作ってやる。だからおれのだけ食ってろ」
ボウルを見つめたままのヴィネット。カシャカシャと鳴る泡立て器に混ざった声に、椎奈は二度またたいた。
「わたしにいつも、作るあげる……ヴィネットさんの食べる……ううん? ヴィネットさん、また言うして!」
椎奈は必死に聞いた言葉を頭の中で訳してつなげる。けれども、まだまだネイティヴへの道のりは遠かった。
素直に聞き返すと、ヴィネットはクソッと悪態づいて眉を寄せる。カシャンと音を立てて手元が止まった。
「……おまえにはマシュマロしか作ってあげないからそれだけ食べてろ」
「さっきの、同じ、ちがう」
「クソッ」
盛大な舌打ちが厨房に鳴り響く。
がしがししすぎた黒髪がピョコピョコ跳ねていて、かわいいなあと思っている椎奈に甘くておいしいマシュマロが差し出されるまであと少し。
口の中でとろける菓子みたいに、へらりと笑って頬をなでる横で、ヴィネットがそっぽを向くのももう少しあとのことだ。