鏡の姫君と叶わない願い
天使は空を駆ける。
ただがむしゃらに、乱暴に空を飛び回る。
自分が気に入った男がとある国の女と仲良くしていた。
それだけで言いようのないむしゃくしゃした感情が湧き上がってどうしようもなかった。
彼の天使は黒い輪を頭に、黒い四枚の翼を背に、使い古してくすんだ錫杖を手に。
神の下を離れた野良天使、神に反逆した堕天使。
いいわ、私にも考えはあるもの。
天使は女に呪いを掛けた。
それは、常に美しくありたい、自分こそが一番美しいと思うようになる呪いだった。
それは、生まれ来る子が誰よりも美しくなる呪いだった。
呪いを掛けられて以来、女は道すがら聞くようになったという。
この世で最も美しいのは誰? と。
道行く人々は、自分が最も美しいと思い込んでいる、自惚れた女だろうと思い、厄介ごとにしたくがないためにあなたですと答える。
瞬く間に自惚れ女として、その噂は広まる。
そしてまた、女も美しくありたいと強く思い、実際により美しくなっていった。
噂を聞きつけた者たちもからかってやろう、思いながら女を探すと、その美しさに目を見張り、何も言えなかったという。
道行く男たちの目をくぎ付けにし、この世で最も美しいのはだあれ? 訪ね歩く女に、男たちは揃ってあなたですと言う。
ある日、女はその美しさから貴族に声をかけられ、妾となる。
それが妾で終われば悲劇は起こらなかった。
貴族の妻は子を成せなかった。
妾の女は子を成した。
それは男ではなく女だった。
跡継ぎは女より男、その貴族にはそういった考えがなく、子がいないのであれば性別に拘る必要がなかった。
やがて妻と妾の立場は入れ替わった。
自由に使えるものが増えたことで、女はさらに美しくなろうとした。
貴族もそれを止めようとはせず、自由にさせた。
化粧をしては館にある大きな鏡に自分を映し。
豪奢な服で着飾っては金で縁取られた鏡の前で踊り。
そんなことを続けるうちに、女は思い始めた。
鏡のわずかな汚れで自分の美しさが霞んで見える、と。
もっと綺麗な鏡が欲しい。
大きな欲望は、国中の鏡を集めさせるほどになった。
冒険者を雇い、遺跡に眠る鏡を取りに行かせたり、隣国まで使者を送って鏡を取り寄せたり。
しかし、そうまでして手に入れた鏡の中にも、満足のいくものはなかった。
そして女は気付いてしまった。
母親が何をしているのか気になって、部屋の戸の隙間から覗き込む娘。
その瞳に映る自分の姿に。
娘のつぶらで大きな瞳、まるでオニキスのように澄んで、黒く綺麗な曇りのない瞳。
女は時間を忘れて、娘の瞳に映る自分の姿に見とれていた。
いままで手に入れたどんな鏡よりも、曇りなく、鮮やかに、美しく女を映し出しているその瞳。
その日から女の愛情は歪んでしまった。
娘ではなく、自分を美しく映し出す鏡として愛するようになってしまった。
やがて娘は成長する。
15の年。
人が大人として認められる年。
女はひどく嫉妬していた。
とても複雑な気持ちだった。
娘は誰よりも美しく、人々の関心も娘に移る。
肥大した嫉妬は殺意に変わった。
思い余って命を奪ってしまおうとまで、ナイフを手にすることもあった。
だが、そうすることはできなかった。
歪んだ愛情がそうさせなかった。
自らの手で最高の鏡を壊してしまうことなんてできない。
女は自分よりも美しい娘を、この世から葬り去りたかった。
しかしこれほどの鏡が、この世のどこを探しても見つかるとは思えなかったのだ。
それでも、時が経つにつれて娘の存在は大きくなっていく。
娘の美しさが、その存在が女にとって邪魔になる。
自分よりも美しいものは要らない。
だが美しい自分を映しだす鏡を壊せない。
娘の存在が女を傷つけ、娘という鏡が女を癒す。
相反する感情が限界に達した時、不思議な声が聞こえてきた。
一度願ったなら、それは返せない。
それでも願う?
だったらそれ相応の対価を払いなさい。
振り向くと、そこに黒く長い髪の女性が立っていた。
今までに見たことがないほど綺麗な女人だった。
しかし、その女人の頭には黒い輪があった。
しかし、その女人の背中には黒い翼があった。
その綺麗な女人は、錫杖を鳴らすと女に言った。
家を抜け出したことにしてしまえばいい。
女人の美しさには不思議と嫉妬の感情は湧き起こらなかった。
むしろ、その意識を蝕む黒い囁きが、女に、母親としてあるまじき考えを起こさせる。
娘を鏡にしてくれ、と。
女の口から出た願いはそれだった。
その日を境に、娘を見る者は誰一人としていなくなった。
女は決して曇ることなく、そして常に美しい自分の姿を見せてくる鏡に、自分を映し続け、自分に見とれるために部屋にこもった。
誰もが娘がいなくなったことで、嘆き悲しんでいると思った。
その失踪を不審に思う者はいなかった。
そして女は毎日、最高の鏡に問いかける。
この世で最も美しいのは誰? と。
返事は鏡に映る、美しい自分の姿。
そんなことを、季節がなんども廻る間、繰り返した。
女はますます自分という美しい姿に溺れていった。
綺麗な服で鏡に映り、綺麗な宝石を身に纏いその姿を輝かせ、真紅に熟れた林檎の果実でより自分を際立たせ。
やがて娘は思う。
なぜ母は自分に同じことばかり語り掛けるのか。
なぜ私はこの部屋から出してもらえないのだろうか。
なぜ、私は、動けないのだろうか。
娘は自分が鏡にされたことも分かっていなかった。
今の私はどうなっているの?
そんな簡単なことすらも、聞くことができなかった。
その思いは、一度芽生えてしまえばすくすくと育った。
毎日、何日も、何週も、何月も。
やがて芽生えた不審という思いは、疑念という実をつけた。
知りたい、なぜ母は狂ってしまったのか。
知りたい、なぜ私はなにもできないのか。
母はいつも娘の前にいた。
母が娘の前からいなくなることはない。
必要なものがあればすべて使用人が用意する。
用事があればすべて使用人が引き受ける。
なんで誰も私に気付いてくれないの?
疑念という果実は大きくなり、我慢することへの限界が近くなる。
ある日、母が部屋から出ていった。
すると娘の前に美しい女人が現れる。
くすくすと笑いながら、女人は言う。
願いを叶えてほしいなら、相応の代償を差し出しなさい。
娘は代償に悩んだ。
願いにつりあう代償が分からない。
女人に問う。
私の願いに必要な代償はなに?
それを聞いた女人は、薄く笑って言う。
あなたの美しさを、と。
娘は躊躇わずに美しさを代償として支払った。
得られた力で娘は自分の姿を映し出すために、近くにあったものを鏡に変えた。
鏡を覗き込むと、そこには代償として美しさを失った自分の姿。
醜い化け物の姿が映し出されていた。
どうしてこうなってしまったの。
娘は泣きながらに言った。
すると女人は言う。
あなたの母親が悪いのよ。
深い傷を負い、悲しみの海に沈んだ娘は、母親への報復を決める。
娘はさらに願った。
母に仕返しがしたい。
女人は錫杖を鳴らすと、冷ややかに言い放つ。
あなたが映し続けるものはなあに? と。
不思議とそれは浮かんできた。
娘はもう一度、鏡の姿に戻ると静かに母が戻ってくるのを待った。
自分が作り出した鏡を部屋に置いて。
女が部屋に戻ると、見慣れない鏡があった。
映る姿は、鏡の曇りによって霞んでいる。
ああ、やはりあの鏡でないと私の美しさを見ることはできない。
思いながら、いつものように鏡にした娘を覗き込む。
そこに映し出されたのは、枯骸のように老けた老婆の光景だった。
母への醜い思いが、美しいほどに醜く映し出すということをしたのだ。
干からびて割れた地面のような、皺だらけの顔が鏡には映っている。
喉を引き裂く悲鳴を上げる女。
鏡と化した娘から目を背け、こんなに醜いのは嘘だとほかの鏡を覗く。
しかしそこに映りこむのも醜い姿。
娘が作り出した鏡は娘の意のままに姿を映し、変える。
無数の鏡が虚構の姿を映しだし、偽りの姿を突きつける。
女はその衝撃に耐えきれず、息が止まり、心臓が止まり、崩れ落ちてしまった。
こうして娘の報復は終わった。
しかし、終わった途端に悲しみが込み上げてきた。
鏡から醜い姿に変わり、娘はおいおいと泣いた。
後には薄ら笑いを浮かべる女人がいたという。
彼の天使は、自らの復讐のためには手段を択ばない。
例えそれが関係のないものまで巻き込むとしてもだ。
私の気に障ることをするからよ。
天使は冷徹に、冷酷に言い放つと虚空に溶けて消える。
考えるに至って、石の王子と~という風にしたのでこちらは鏡の姫君と~という感じにしました。
内容については……私自身、これ童話か? と思いますが、まあ童話で。
しかし昔の童話、修正などが加えられていないものはかなり残酷な結末だったと聞きます。
残酷性だけにとやかく言われたくはありませんが、悪いことにはそれ相応の代償を、ということにしてもらえませんか。
悪いことをしても謝ってしまえばハッピーエンドなんていう生温いことは現実では少ないんですから。




